第3章 清姫の儀

特訓

第24話 鍛錬の始まり

「……さて。もう出て来ても良いですよ、女郎花の君」


 月花と香を見送った弘徽殿の女御は、突然背後に向かって呼び掛けた。すると何者かがガタンッと何かにぶつかった音がして、次いでおそるおそるといった体で一人の女房が現れる。

 女郎花の君は気まずそうな顔をして、そっと女御の前に平伏した。


「申し訳ございません、女御様。盗み聞きをするつもりはなかったのですが……」

「良いのですよ、女郎花の君。貴女には、近々話すつもりでいましたから」


 ひたすら恐縮する女郎花の君に対し、女御はそっと尋ねた。


「いつから、知っていましたか?」

「何を、でございましょう?」

「……月花のことです」


 女御に尋ねられ、女郎花の君はぴたりと動きを止めた。高速で何かを考えているのか、目が泳ぐ。

 しばしの時を要し、女郎花の君は「はぁぁ」と長い息を吐く。そして軽く頭を横に振ると、ようやく顔を上げた。


「初めて月花の君と出会った時、わずかな違和感を覚えました。しかしながら、それが何なのかわからず、今まで放置していたのですが……」


 そこで言葉を一度切り、今度はしっかりと女御と目を合わせた。


「女御様、月花の君はなのですね?」

「ええ」

「……もう少し、濁されるものだと思っておりました。わたくしに明かしてよかったのですか?」

「貴女にくらいは明かしておかなければ、あの子を守ることが出来ませんからね。それに皆優しいですから、気付いていて言わなかっただけでしょう」


 女御の広げた扇から、たきしめられた淡く上品な香りがたつ。その扇を口元に広げ、女御は「人払いを」と言い周囲から人を消した。もともと誰もいなかったはずだが、女御が言うことでより制約が強く反映される。

 静まり返った弘徽殿において、主従は向き合っていた。


「女御様、『あの子を守ることが出来ない』とは一体どういう意味でしょうか? 確かに正体がバレてしまえば後宮追放のみならず、一族が潰されかねません。本人の命すらも、簡単に失わせられるという厳しい規則があります」

「そのままの意味ですよ、女郎花の君」


 女御はわずかに唇に笑みを浮かべた。そして、きゅっときつく結んでから開く。


「あの子はおそらく、近いうちに北の山へと足を踏み入れます。その時、ここにいないことを気取られてはいけませんから」

「誰に、とは口に出さぬ方が良さそうですね」

「ええ」


 女郎花の君も真剣な表情を浮かべ、二人の密かな話し合いが始まった。




 夜が更け、月花は香の背中を追っていた。暗闇と同化する狩衣をまとった姿は、野良犬や猫の目に留まるくらいのものだ。


(香殿、速い……!)


 後宮における移動速度もさることながら、香は周囲を気にせずに風のように駆けていた。月花は彼女に遅れまい、と懸命に足を動かす。

 やがて都を出ると、更に香の速度が上がる。

 都の周囲は中とは全く異なり、田畑や手付かずの土地が広がっている。少し行けば集落もあるが、月花たちはそれらを無視してただ真っ直ぐに北を目指す。


「月花の君、平気ですか?」

「これが平気、には見えないでしょう……」


 しばし全力で駆け続けた月花は、とある小高い丘の傍で息を切らせていた。顔を真っ赤にして、肩で息をする。彼の隣では、香が涼しい顔をして周囲を警戒していた。


「もう少し行くと、川辺があります。今宵はそこで休み、明日一日を鍛錬にあてましょう」

「……わかり、ました」

「……止めておきますか?」

「いえ、これはが決めたことです」


 半年近く伸ばし続けた髪は、付け毛を減らしても十分な長さになっている。懸命に走り続ける間に、付け毛は何処かへ落としてきてしまったらしい。

 月花は懐に仕舞っていた髪をまとめるための麻紐を取り出すと、ささっと手際良く一つにしばった。女房らしく流したままでは、鍛錬など出来ない。

 月花――もとい真兎は唇を舐め、香を見上げた。


「行きましょう」

「ええ」


 香も真兎を煽りはすれど、彼が決めたのならば協力を惜しむつもりはない。ここだけの話だが、香もには大きな借りがある。


(表立って彼らに手を出すことは……影の一族としてたった一人になった私には難しい。けれど、彼の願いの手助けが出来れば)


 間接的に、彼らへの礼をすることが出来よう。香は無言裏にそう結論付け、聞こえて来た川の流れる音に耳を澄ませた。

 真兎も気付き、一踏ん張りだと足に力を入れる。夜闇に沈むせせらぎはわずかな光を浴びてキラキラと輝き、真兎は香と共にようやく喉を潤した。


「香殿、鍛錬とはどんなことをするのですか?」


 ようやくひと心地ついた真兎が尋ねると、香は少し考える素振りを見せた後に口を開く。


「私が幼い頃から叩き込まれたもののうち、幾つかをやりましょう。……ただ、そう簡易なものではないと覚悟して下さい」

「全ては、あいつを取り戻す為にあります。取り戻し、守っていけるように。……お願いします」

「純真な覚悟、承りました」


 香は微笑むと、真兎をいざなって少し離れた森の中へと分け入って行った。

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