第17話 書庫
「あれは……」
月花が局の外に出た時、丁度渡殿を歩いていた一人の女房が足を止めた。
彼女は普段あまり後宮に出仕せず、別の場所で自らすべきことに勤しんでいる。主の命で後宮に入って数日経ち、山吹の宮と藤壺の更衣の信頼を得ようとしていた。
「……主様に知らせなければ」
そう独り言ちると、踵を返そうとした。しかし、その背中に山吹の宮の声がかかる。
「
「これは宮様。いかが致しましたか?」
「これから藤壺の更衣のもとへ行く。供をしなさい」
「承知致しました」
山吹の宮に命じられれば、鴉羽の君に否を唱える資格はない。彼女は左大臣より選ばれた女房だが、その身分は決して高くないのだ。むしろ、親は無官である。
(主様への知らせは、宮様の用事が済んでから……いえ、遅いわね)
「宮様、少しだけお待ち頂いても宜しいですか?」
「左大臣に?」
「ええ。一つ、お知らせしたいことが」
「……わかったわ」
山吹の宮といえど、左大臣には頭が上がらないらしい。彼女の心の支えとなっている藤壺の更衣は、左大臣の娘なのだ。
女房としての主の許しを得て、鴉羽の君は指笛を鳴らす。ピィーッという細い音が響き、すぐに羽音が聞こえて来た。
「いらっしゃい」
鴉羽の君が腕を上げると、そこに一羽の烏がとまる。それは鴉羽の相棒であり、伝達役を担う烏だ。
烏の足首に文をくくり付け、空に放つ。こうすれば、烏が主のもとへと文を届けてくれるのだ。
「……さあ、行きましょうか」
「頼むわ」
山吹の宮も鴉羽の君も、今まで何事もなかったかのように踵を返した。
一人局を出た月花は、歩みを確かめるようにゆっくりと歩を進めて行く。そしてそれが確かなものだとわかると、少し速めた。
昼過ぎの後宮は賑やかで、そこかしこからさざ波のような女たちの笑い声が聞こえる。もう慣れっこになってしまったそれを聞き流しつつ、月花は後宮と内裏の境界へと急ぐ。
(誰でもいい。誰かにこれを繋いでもらわないと)
懐にあるのは、虎政への文。色恋ごととは無縁の文だが、自分が女房の格好をしていることがこの時ばかりは面倒に感じる。
ため息をつきたくなりながら、誰か通りかからないかと密かに見回す。すると丁度向こうから検非違使の男たちが歩いてくるのが見え、彼らに声をかけることにする。
強面の男たちは、女にとっては近寄り難い存在かもしれない。しかし月花は、同性であることもありそれ程の恐ろしさはない。
あの、と月花が声をかけると、相手は目を丸くして駆け寄って来た。何事かと月花は数歩引く。
「おおっ、そなたは昨日の夜!」
「もう、平気なのか?」
「あの……もしや、わたくしを助けて下さった方々ですか?」
月花が伏し目がちに尋ねれば、検非違使たちは頷く。地声で話すわけにもいかず、少し高めの声を心がけた。
本来、女房は男と面と向かって話すことはない。そんな通例を打ち破ってしまっていることに月花は気付いているが、自分が動くためには仕方がない。
「その節はお世話になりました。お蔭様で、この通りです」
微笑んで見せると、検非違使たちも笑った。若干鼻の下が伸びていた気がしたが、月花は気付かなかったことにする。
「あの、一つお願いをしてもよろしいですか?」
「お願い? なんなりと」
「実は、これを近衛府にいるわたくしの友に届けて頂きたいのです」
殊更に「友」を強調し、月花は懐から簡素な文を検非違使たちに手渡す。
検非違使たちは一瞬訝しげな顔をしたが、すぐににこにことした表情に戻った。文の相手が友だとわかったからだろう。
「承知した。確実に届けよう」
「ありがとうございます」
にこやかに礼を言い、その場を離れる。月花はしばし
(これで、虎政と話すことは出来るな。後は、父上に話を聞きたいけど)
虎政に父への文を預けよう。そう決めて、月花は後宮の中を歩いて行く。月花が向かおうとしているのは、写本が数え切れない程収められた書庫だ。
紙が貴重な龍弧国において、写本は珍重される。そこにはまだ自分の知らない物語が溢れていて、多くの女房や殿上人たちを魅了しているのだ。
月花は元々物語というものに興味はさほどなかったが、月草が何度も何度も薦めて来るものだから、幾つかは読んでいる。そして読んでいくうち、物語は時に現実に隠された真実を浮かび上がらせるのだと気付いた。
書庫を訪れた理由は、そこにこの国の成り立ちに関する神話や物語が収められていると考えたから。少なからず、夢で白狐と出会ったことは月花を変化させていた。
「まずは、歴史書をあたってみよう」
幸い、弘徽殿の女御には明日から出て来るようにと言われている。つまり、今日は仕事に出る必要がない。体を休めつつ月草へと繋がる糸口を探るには丁度良い。
早速龍弧国の始まりを記した書物を見付け、広げてみる。美しい流れるような文字で書かれた文章に目を走らせ、やはり龍神がこの国の守護なのだと再認識する。
幾つもの書物をあたったが、全てに狐が出て来ないという共通点があると見付けただけだ。もしくは、龍に対して狐は悪として書かれている。
(もしも、これが意図的な改ざんであるとするならば……?)
改ざん出来るのは、この書物を書いた本人、もしくは書き方に指示を出した人物だけ。更にその人物は、左大臣の血筋の者だ。
「……一体、何が行われているんだ?」
得体の知れない『何か』に足を踏み入れている。月花は寒気を感じながらも、月草の行方と己の出生について調べ続けた。
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