第10話 思惑が交差する
女御は弘徽殿に入る手前で、藤壺の更衣が清涼殿へ向かう様子を見てしまった。何となく帝の様子が気になり、振り返ったが故に目に入ってしまった光景。
「……」
「女御様……」
何とも言えないという渋面を浮かべたお付きの女房に「案じずとも良いのです」と微笑む女御だが、心中は穏やかとは言い難い。自分よりも年下で見目麗しくやわらかな印象の強い藤壺は、後宮に入ってすぐに帝の心を掴んだ。
(わらわは、言わば戦友のようなもの。若く聡明で美しい彼女とであったとしても、帝がお幸せでいて下さるのならそれで)
それで良い。女御は帝への穏やかながら深い想いに蓋をして、いつものような凛とした表情で前を向く。
「――行きましょう」
女御は、颯爽と弘徽殿へ入って行く自分を遠くから眺める目があったことには気付かなかった。否、気付かれぬようにしていた目の持ち主が一枚上手だったというだけの話なのだろう。
その目の主、藤壺の更衣は弘徽殿に入ってしまった女御を眺め終え、懐に手を入れて何かを取り出してから小さな口で名を呼ぶ。
「……
「何でしょう、更衣様?」
藤壺の更衣はお付きの女房を呼び寄せると、何かを囁いた。彼女の手にあった一通の文が女房の手に渡る。その女房、頷いた早蕨の君が、女房の列から抜け出す。
同僚の姿が傍からなくなったことで、桃の君が目を
「更衣様、早蕨の君は
「……父上への文を託したのです。この刻限、下男くらいはつかまりましょう」
「そうでしたか」
桃の君はそれ以上訊き出そうとはせず、静かに数歩下がっていく。月花を煽った桃の君だが、己の主人である藤壺に心酔するからこその行動である。彼女の行動原理の中心には、必ず藤壺の存在があった。
「――お待ちしておりました、藤壺の更衣様」
深々と平伏したのは、帝付きの女房の一人。帝の傍に居るということで、それだけ身分の高い家の生まれだということが分かる。
しかし、そんな姫君も帝の側室である藤壺の更衣には敵わない。今最も帝の寵愛を受ける存在は長年連れ添った弘徽殿の女御ではない、と誰もが言わないだけで知っている。女御はあくまで相談相手であり、寵愛を受けるのは藤壺ただ一人。
「……」
「帝が、お待ちでございます」
黙ったままの藤壺の更衣に対し、女房はあけすけな言い方で背を向けた。
その女房を先頭に、藤壺たち一行が清涼殿へと足を踏み入れる。そして手前の部屋にて、藤壺以外の女たちが立ち止まった。
「いってらっしゃいませ、更衣様」
「……ええ」
最早慣れ親しんでしまった静かな清涼殿を進み、やがて藤壺は一際洗練された雰囲気を醸し出す部屋へと通された。
同じ頃、月花は他の女房たちが下がる中で弘徽殿に残されていた。傍には女御がおり、香の訪れを待っている。
「女御様」
「
「……はい」
何処か寂しげに微笑む女御に対し、それ以外の返答を思い付かない。月花は三日月を見上げながら、先程受け取った虎政からの言伝を思い返していた。
(進捗を確かめたい、か。おれもあいつに知らせられることがあまりないな)
あえて言うならば、山吹の宮が関わっているのではないかという憶測のみ。これを確かなものにしてから虎政に会いたかったが、仕方がない。
ため息を押し殺していた月花の耳に、わずかな衣擦れの音が届く。その次の瞬間、彼と女御の前に香が現れた。
「お待たせ致しました」
香の姿は、後宮において目立たない女房装束。その美しい
「よく来てくれましたね、香。早速で申し訳ないのだけれど」
「わかっております、女御様。月花の君殿も、少しこちらに寄って下さい」
「こう、ですか?」
膝で移動し、月花は香との距離を拳二つ分まで近付けた。香を介して反対側には女御がおり、香の話を今か今かと待っている。
香は二人の視線を一身に受け、深く息を吸い込み吐き出す。それから声を潜め、話し始めた。
「――先程、百合の君殿が左大臣様に呼ばれて話をしていました。その中身を聞く限り、彼女が山吹の宮様のために何かしらの行動を起こしたことは間違いないとわかりました」
「そう」
ため息をするように相槌を打った女御とは違い、月花は香をまじまじと見詰めてしまった。彼女は今、何と言った。
「あの。二人が話す内容を、どうやって知ったんです?」
「床下に潜り込んで、聞いていました。幸い、二人が気付きませんでしたから、最後まで耳をそばだてていることが出来ました」
「床下……」
「私たちのような者にとっては、当たり前のことなのですよ」
驚く月花に向かって、香は柔らかく微笑んで見せた。
「……では、かいつまんでで構いませんから、月草の行方にかかわる話があったかどうか、教えてもらえますか?」
「はい、女御様」
香は頷き、更に声を低くする。それに応じるように、月花と女御も身を寄せた。
「左大臣様は百合の君殿に己の娘、藤壺の更衣様の様子を尋ねた後、こう言いました。お前の言う通り、こちらは滞りない、と。それに対し、百合の君殿もようございました、と控えめに笑っていました」
「……左大臣、やはりあなたも何か知っているのですね」
「それ以降、目ぼしい話題はありませんでした。……引き続き、百合の君と左大臣様にも目を配ってまいります」
何か、私の知っておくべきことは他にありますか。香にそう問われ、月花は「実は昼間……」と自らが見聞きした噂話を口にした。
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