第9話 女御の策

「女御様っ」

「どうしたのですか、月花の君? そんなに慌てていては、転んでしまいますよ」


 出来る限り足音に焦りを乗せないようにしていた月花だが、その表情は高揚していた。それを弘徽殿の女御に指摘され、月花は慌てて仕草を直す。

 咳払いをして、月花はしずしずと女御の傍に寄った。二人の他にも女郎花の君を始めとした女房たちがいたが、女御が女房と二人で話すのは特に珍しい光景でもないために気にしない。

 それを幸いに、月花は扇で口元を隠しながら女御に見て聞いたことを伝えた。


「女御様。藤壺の更衣様に仕える女房たちから、香殿の話とよく似た噂を聞きました。……後ほど、お伝え致します」

「わかりました。月花、気になるでしょうがこちらのことも宜しくお願いしますね」

「わかっています」


 女御の前を辞した月花は、ゆったりと動いて雑務を引き受けた。その間に女御が琴を爪弾き始め、同様に心得を持つ者たちがそれに続く。

 美しい音色が弘徽殿を、そして後宮を包み込んでいく。弘徽殿の女御の演奏に合わせ、徐々に琴や笛の音が重なっていくのだ。

 それらの音に耳を傾けながら、月花は筆を走らせる。それは帝の傍に集まる貴族たちへの文であり、女御の代筆だ。


「貴族たちの機嫌を取るのも、まつりごとの一つです。わらわは帝をお支えし、この国を守るのが務めですからね」


 以前、時が綺麗だと褒めた後に月花に代筆を頼む時に女御はそう言っていた。その時の彼女の表情は、何処か寂しそうでありつつも気高く感じるものだった。

 しかし、高貴な身分の者は直筆のものを誰かに送ることはしない。大抵は代筆に任せ、自らの思いを伝える。


 爪弾かれる音は後宮を包み込み、やがて空に溶けていく。

 ふう、と息をついて琴から手を離した女御は、周囲にいた女房たちに散会を命じた。彼女と同じく琴を弾いていた女郎花の君が、自分の琴と女御のものを移動させていく。


「女御様、そろそろお使いの方が来られるかと……」

「女御様」

「来られましたね」


 弘徽殿の前に現れたのは、帝の使者である侍女。彼女の求めに応じ、女御は清涼殿へと向かう。夫である帝は彼女を夜伽の相手として選ぶことは少ないが、政の相談役として話し相手に所望することが多い。


「少し席を外します。女郎花の君、後を頼みますね」

「承知致しました。いってらっしゃいませ」


 深々と頭を下げる女房たちに見送られ、女御はゆっくりと立ち上がった。彼女は月花の傍を通る時、かすかな声で何かを呟く。

 ハッとした月花が思わず顔を上げると、女御は扇を口元にあてて微笑している。しずしずと去って行く女御を見送り、月花は彼女の言った意味を考えていた。


(『少し、話を聞いて来ますね』ってどういうことだ?)


 女御が何を誰に聞こうというのか。月花は内心首を捻りながらも、女郎花の君の指示に従い仕事を片付けていった。


 月花がひとごこちついた頃、弘徽殿の女御は帝と政について語らっている最中だった。帝は弘徽殿の女御よりも年下で、互いに幼い頃から知っている。その気安さもあり、二人は良い相棒という関係に近い結びつきを持っていた。


「……ということを左大臣が申していた。だから、朕は」

「成程。では帝、こうしては如何でしょうか?」


 政談義は尽きず、その中身は左大臣たちをも唸らせる高度なものになっていく。普段冷静沈着な帝も、この時ばかりは熱の入った言葉で女御との話を心から楽しんでいた。


「……うむ。やはり、女御と話すのが最も頭の中を整理することが出来る。明日の朝議では、女御の意見も取り入れてみよう」

「有り難き幸せにございます、帝」


 女御は深々と頭を下げ、それからずっと傍にいる青年の顔を正面から見詰めた。

 幼い頃は互いに高貴な生まれのことなど考えずにいたが、大人になった今では線引きしなければならない。契りを結んだ今も、女御は今一歩踏み込めないでいた。

 女御の葛藤を知ってか知らずか、帝は正妃の視線を正面から受け止めて微笑む。彼にとって姉のような存在でもある女御は、最も信頼を寄せる近しい者の一人だ。


「女御、朕の顔に何かついているのか?」

「いいえ。相変わらず、光り輝くような美しさだと感嘆していたのでございます」

「ふふ、世辞がうまいな」


 気品を漂わせた整った顔立ちは、貴族の姫君たちからの目を集める。ただし帝は絶対不可侵であり、目の前に現れるものではない。ほとんどは想像の産物に尾ひれがついたものであるが、夫婦である女御はそれが遠からず合っていると知っている。

 穏やかに微笑む夫に、女御は話柄を変えた。


「一つ、後宮において噂となっている事柄がございます。そのことについて、帝のお考えをお聞かせ願えればと思っております」

「後宮の噂、か。女房たちが喜びそうなものだ。話してみよ」


 帝に促され、女御はゆっくりとした話し方で問う。


「実は、山吹の宮様が清姫の儀を嫌がられたということです。それは、真実なのでしょうか?」

「それは……っ」


 帝は答えに窮した。彼にとって、山吹の宮は血を分けた妹。可愛がらない理由がない。

 女御も帝と宮の仲の良さを知っているからこそ、あえてここで尋ねてみる。


「他にも耳にはしておりますが、今はそれだけを。宮様の他に、どなたか代わりとなる者を見付けられたのですか?」

「……」

「……」


 帝が口を閉じ、女御も閉じた。

 嫌な時が流れ、女御が諦めて退出しようかと考えていた矢先、帝が口を開く。


「……藤壺が」

「更衣様が?」

「藤壺が、山吹と共に言うのだ。山吹を自分の傍から離さないでくれと。だが、清姫を選ぶのは朕ではなく、この国を創り給うた神の意思。そう言うと、藤壺は何かを考え付いたらしかった。……朕にわかるのはそれまでだ」

「承知、致しました」


 これ以上食い下がっても、良い結果は得られない。長年の付き合いからそれを察した女御は、自ら退く。それを見た帝は、明らかにほっとした様子だ。

 女御はそれに気付かぬふりをして、穏やかな表情を貼り付けて頭を下げる。


「では、わらわは下がります故。何かございましたら、またお呼び下さいませ」

「うむ。ありがとう、女御」


 帝の声に送られ、女御は複雑な思いを抱えて清涼殿を後にした。


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