第7話 盗み聞き
香と話した翌日、月花は一晩悶々とした気持ちを引きずって弘徽殿へと出仕した。いつもより早い刻限だったせいか、弘徽殿には女御一人がいるだけだ。頼れる先輩である女郎花の君の姿も見えない。
(いや、数人控えているな。傍にはいなくて良い、ということなんだろうけれど)
静かな弘徽殿に、女御が巻物を読む際の衣擦れの音だけが響く。近年流行っているという物語の写しを読んでいるのだと思われた。
話しかけるのは躊躇われたが、そのまま無視するわけにもいかない。月花は諦め、女御に声をかけた。
「女御様、おはようございます。月花でございます」
「おはようございます、月花の君。今朝は早いのですね」
月花を見付け、女御は柔らかく微笑んだ。そして月花を手招く。それに応じて女御の前に腰を落とすと、女御は月花の耳に顔を寄せた。良い香りのする扇を開き、自分の口元に寄せる。
「昨夜、香には会えたようですね」
「はい。噂と、年明けに行われる儀式について教えて頂きました」
「では、わらわが知っていることはあなたも知っていると思って良いということですね。わらわが話をあなたにもするよう香に頼んだのです」
「ええ。それも、香殿から」
「ならば、調べるために明け方には彼女が動き出したことを伝えておきましょう」
女御は微笑むと、ふと表情を変えた。その時女御と月花の周りには誰もおらず、普段ではあり得ない空間が現れていたのである。眉を寄せ、女御は声を潜めた。
「……百合の君は、父上が宮様のもとへ出仕させた女房の一人。宮様の乳兄弟でもあった彼女は、その才媛ぶりをいかんなく発揮し、宮様の信を得てこの後宮でも力を持ち始めているようで。少し、気がかりではあったのです」
「香殿から聞いた話が
少しでも可能性があるのならば、いつでも走り出す覚悟です。月花の言葉に、女御は「頼もしい」と目元を和ませた。
いつもよりも少し力のない笑みにも見え、月花は女御の心労を思う。女御という立場上、誰かに弱みを見せることはそのまま一族の失墜へと繋がりかねない危険な行為だ。それを誰よりも知っている女御だからこそ、誰とでも分け隔てなく接することの出来る月草は癒しだったのではないか、と勝手に考えている。
(月草、無事でいろよ)
全ては、香の調べ次第。いったんそう結論付け、女御と月花はそれぞれの仕事に戻る。偶然にか、女郎花の君らも何処からか戻って来た。
「月花の君、一つ用事をお願いしても?」
「はい、何でしょうか?」
月花が小首を傾げると、女郎花の君は清涼殿付きの女房へと渡して欲しいと文を寄越す。それを受け取り、月花は一人渡殿を渡った。
「――では、確かにお預かり致します」
「お願いします」
無事に用事を完遂し、月花はほっと息をつく。女房らしくしずしずと歩くことにいつの間にか慣れ、他の女房と行き合っても落ち着いて応対出来るようになった。それを成長と呼ぶべきか否かは、立場にもよるだろう。
(早く、弘徽殿に戻ろう)
自分が男であることがバレないよう、月花は用事を言いつけられない限り好き好んで出歩かない。時折他の女房たちの噂話に耳を傾け、月草に繋がる話がないかと探すくらいのものだ。
女房としてあるまじき、と白い目で見られない程度の速足で歩いていた月花は、ふと聞こえてきた女たちの話し声に足を止める。何処からの声かと辺りを見れば、清涼殿近くに設けられた美しい庭の方からだ。
「少し、気になりますね」
呟いた月花は、そっと足音を忍ばせた。女房装束の衣擦れの音は抑えることが難しいが、そこかしこで聞こえる音で耳が慣れた後宮の人々は気にしない。
普段から地味めの
そこにいたのは、後宮で働く三人の女房。やるべきことは終わっているのか、のどかに
「そうそう、お聞きになりまして?」
一人が声を潜め、楽しそうに他の二人に向かって言う。
「百合の君様が、少し後ろ暗いことに手を染めているという話を」
「ああ、その噂は耳にしましたわ」
「なんでも、宮様の替え玉を用意したとか。宮様はそれ以来、百合の君様に頭が上がらないという話も聞きます」
三人目の女房の言葉を聞き、月花は自分の思考が停止する音を聞いた。
(今、何て言った?)
そんな心の動揺が出たのか、月花は足を動かした拍子に壁にぶつけてしまう。ガコッという音が響き、庭に集まっていた女房たちにも聞こえてしまった。
「あっ……。そろそろ、戻らなければ」
「わたくしも」
「ええ。では、また」
そそくさといなくなる女房たちを見送り、月花はぶつけた足の痛みを忘れて呆然と立ち尽くした。
(替え玉? もしも、月草……藍が……)
ぐらり、と視界が回った気がした。勿論気のせいだが、月花は一先ず弘徽殿の女御に話さなければと踵を返す。
その時、トンッと誰かとぶつかった。誰かはわからないが、後宮の癖で月花はまず頭を下げる。
「申し訳ありません!」
「お気になさらず、月花の君」
「――っ」
思わず息を止めた月花がそろそろと顔を上げると、そこには先程まで話に出ていた百合の君が立っていた。
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