妙な噂

第6話 噂の儀式

 宴が終わりしばらくは穏やかに、しかし忙しく日々が過ぎた。弘徽殿の女御という後宮の頭ともいうべき人物に仕える月花は、先輩の女郎花の君の後について慌ただしく立ち回っている。

 その夜、己の局に帰る支度をしていた月花に何処からか声が届く。


「月花の君」

「……どなたでしょう?」


 聞き覚えのある声に、月花は呟くような声で問う。周囲には他の女房たちも数人いたが、月花の問いにも謎の声にも気付いた者はいない。

 小さく息をつき、月花は弘徽殿を辞した。普段ならばそのまま自分の局へと向かうが、今日はそうではない。近くの塗籠ぬりごめに物を取りに行く風を装い、入り込む。

 戸を閉め、よしと呟く。


「感謝致します、月花の君」

「香殿、あのような場では落ち着いて話すことも出来ませんよ」


 天井から飛び降りた香に、月姫は肩を竦めて文句を言った。その時の声は、彼本来の少し低い声。

 香もそれに気付きながら、口にはしない。すぐに片膝をつき頭を下げたため、仮に笑ったとしても月花は気付かなかっただろう。


「それはそうでしたね。申し訳ございません。ただ、すぐにでもお耳に入れるべきだと女御様と意見が一致しまして」

「……ここならば、不用意に聞き耳を立てられることもないと思います。どうぞ聞かせて下さい」


 女御の言葉を聞き、月花は香の話をきちんと聞くためにその場に腰を下ろした。ただし、座り方は女房のもの。誰かが塗籠に入って来た際、一人で床に座っている言い訳をするためだ。

 月花の聞く体勢が出来たと知るや、香は声を潜めた。出来る限りの盗聴を避ける狙いがある。月花は香の意図を察し、彼女に耳を近付けた。


「これまで何も掴むことは出来ませんでしたが、一つ妙な噂を耳にしました」

「妙な、噂?」

「はい。噂は噂でしかありませんが、明日より調べていくものです」

「わかりました」


 月草に繋がるものならば、何でも良い。早く知りたい。そう急かしそうになる自分の気持ちを押し止め、月花は努めて冷静に香の次の言葉を待った。


「……月花の君は、百合の君という女房をご存知ですか?」

「百合の君というと、山吹の宮様に仕える女房の一人ですよね。藤壺の更衣様に負けず劣らずの才媛で、宮様が深く信を置いていると聞いています」

「そう、その方です」


 頷いた香の表情は暗い。それは薄暗い塗籠の中でもわかるほどで、月花はかける言葉に迷った。


「あの、香殿?」

「その百合の君に関する噂がたっているのです。しかも、月草の君の失踪時期と重なる噂が」

「聞かせて下さい」

「では」


 香はより声を潜め、己に言い聞かせるように言葉を口にした。


「百合の君が、清姫の儀を嫌がる山吹の宮様の願いを叶えるために画策した、という内容です」

「きよひめのぎ? それは一体……」


 知らない儀式の名だ。月花が眉間にしわを寄せると、香は合点がいった表情で頷く。


「長く内裏で勤めたことがなければ、耳にする機会などない名でしょう。いえ、帝に近い者でなければ、と言い換えましょうか」

「何なのですか、清姫というのは」

「清姫とは、この龍弧国に古くから伝わる伝説的な姫君のことです。そして儀式とは、数十年に一度清姫となる姫君を選び……神に嫁がせる儀式のことを言います」

「神に嫁がせる儀式!? ……それは、にえになるということですか?」


 思わず声高になってしまった月花は慌てて手で口を覆い、それから声を潜めて香に尋ねた。神の妻になるということは、物語上では贄と同義であることが多い。

 しかし香は、月花の問いに首を横に振った。


「あくまで、形式上のものです。何かにとって食われたという話を聞いたことはありません。その儀式に臨むことが出来るのは、帝と一部の貴族のみ。ですから、本当に何が起こっているのか知る者は極わずかです。ですが清姫に選ばれた姫君は、その身を清らかに保ち続ける責務を負い、神を崇め奉るために都の北に位置するやしろに籠らなければならなくなります」

「……」

「これまでの慣例に従えば、清姫の責務を果たすのは帝の姉妹……つまり、次に選ばれるのは山吹の宮様のはずなのです」

「でも、選ばれていないということですか?」


 考えたくもない「もしかしたら」が月花の頭の隅をかすめる。それが杞憂であることを祈りながら、彼は香の言葉を待った。


「――はい。本来次の清姫となる姫君は、如月きさらぎに明らかにされてみそぎに入ります。そして年が明けた睦月初めに社へ赴く儀式に臨みます」

「もしかして、その清姫になるのが誰なのか明かされていないのですか?」

「ええ、その通りです。そして明かされるべき如月の頃、月草の君は姿を消しました。……これはあくまで、私の想像でしかありません。しかし一つの可能性として、山吹の宮様が清姫になることを嫌がり、代わりとして百合の君が月草の君を仕立て上げたのではないかと考えたのです」

「……」


 あくまで想像。香はそう前置きしたが、彼女の語った内容は月花自身が考えた「もしも」とおなじもの。決めつけるべきではないと理解しつつも、月花は汗が背中を伝うのを感じていた。

 何度か息を吐いて吸い、月花は香を真っ直ぐに見詰めた。


「……香殿」

「はい」

「香殿は、それを明日から調べるとおっしゃいましたね」

「勿論です」

「……お願いします。それがあいつでなければ良いと思いますが、もしそうであった時、必ずあいつを迎えに行きたい。だから……」


 震えそうになる言葉を律し、月花は手を膝の上で握り締めた。それ以上言葉が出ず、言いたいことも言えない。

 しかし香は何かを察し、確かに頷く。


「必ず、月草の君を捜し出しましょう。そのために、少しだけ時を下さいませ」

「はい」

「――では」


 一言を残し、香の気配が塗籠から消えた。

 月花は一人、途方に暮れたような心地で塗籠で座り込む。しばらくしてからよろよろと立ち上がると、目を閉じて大きく息を吸い込み、吐き出した。

 次に瞼を上げた時、彼の顔はいつもの月花に戻っている。


「――お……わたしも、出来ることをしなくちゃ」


 今まで以上に、後宮に溢れる噂話に気をつけなければ。そして、清姫の儀についても調べなくてはならない。

 塗籠を出れば、既に月が高い位置にあった。月花は足早にその場を去り、しかし眠れない夜を過ごすことになる。

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