第1章 女装女房後宮へ行く
後宮の花々
第1話 女装女房
陽の光が柔らかく降り注ぎ、
しかしそれも、陽が昇ってからのこと。今はまだ時が早く、月が帰る直前である。東の空が白み始め、後宮が目覚めていく。
普段通りに女房装束に身を包み、髪を
吊り目がちな目が、彼女の勝気な性格をよく表している。後輩を厳しくも優しく導く女性だ。
「――おはよう、
「おはようございます、
「いつも通り、朗らかにしておられるわ。帝の使いの者が来られて、女御様に文を渡して欲しいと言われたくらいかしら」
「流石は、後宮の知り者と称される女御様ですね」
くすくすと笑う月花に首肯して見せた女郎花は重そうな女房装束を軽く翻し、後輩を振り返る。
「女御様がお待ちです。支度が出来たら、弘徽殿にいらっしゃい」
「わかりました」
しずしずと去って行く女郎花を見送り、月花は「ふう」と息を吐いた。
「今日もバレなかったな。おれの変装が上手いのか、あの人が鈍感なのか……。いや、弘徽殿の女御様には即バレたから後者か?」
女房の格好をしながらも、言動は女房らしくない。よく見れば、黒々として長い髪も肩からわずかに質感が変わる。
女にしては柔らかさのない体つきで、男にしては線が細い。しかし、女にしては低い声で笑った月花の正体は男だった。
とある目的のために家族を説き伏せ協力を得て、後宮官人である女房のふりをしている。潜入してひと月、月花は見事に後宮に溶け込んでいた。
月花の名は、男の名である
「こほん。……そろそろ、女御様のところに行かないと」
軽く咳払いをして、真兎もとい月花は自分の局を出た。
月花が仕える後宮は、
後宮には、幾つもの建物が存在する。例えば、帝の居住殿である清涼殿。正后である弘徽殿の女御が住まう弘徽殿。左大臣の娘が住まう
更にそれぞれの女御や
(まあ、俺は男なんだけどな)
後宮は基本的に男子禁制。許されるのは、後宮に住まう者の家族か帝、そして帝に許しを得た者のみ。
しかし月花は、かつて女房だった姉の橘がいるだけで現在縁者はいない。しかも男は一時的滞在が許されるだけで、ここで働くことは出来ないのだ。そうであれば、月花の目的は絶対に達成されない。
もしも正体がバレれば、殺されかねない。更に親類縁者に類が及ぶことも避けられない。危ない橋を渡るのだということは百も承知ではあったが、月花と名を変えた真兎には命に代えても捜し出すと誓った目的がある。そのために参議である父を説き伏せ、面白がった姉の協力を得て、女としてこの場に仕えているのだ。
唯一人、ある女性にだけは早速正体がバレてしまったが。
「弘徽殿の女御様、月花でございます」
「待っていましたよ、月花」
月花が弘徽殿の前の廊下で三つ指をつけば、主である女御が鷹揚に微笑んだ。
弘徽殿の女御は帝の正后であり、その聡明さから帝の政における相談役のような役割も持っている。二十歳で入内し、五年経った今も子はいない。
子を待ち望まれる帝の后は、子が出来なければ冷遇されることが多い。しかし弘徽殿の女御はその聡明さと大らかさで帝を始めとした者たちの信を得て、後宮の最高権力者として君臨し続けている。
そんな彼女は、来たばかりの月花を手招く。そして月花が傍に腰を下ろすと、彼の耳に扇を添えて囁いた。
「
「ありがとうございます、女御様」
「ふふ、これくらい当然のことです。隠し事は楽しいですね」
「……女御様」
女郎花の君たちに気付かれないよう、月花は密かに息をつく。
弘徽殿の女御はそれすらも面白そうに、扇を口元に沿えてくすくすと笑った。
後宮において、月花が真兎であり男であることを知っているのは、この弘徽殿の女御だけだ。だからこそ、後宮で働きたいという彼を受け入れたのだが。
多くの場合、後宮に仕える女房たちは最初に弘徽殿の女御にお目通りを願う。彼女が後宮のまとめ役であり、最も高貴な身分にあたるからだ。
月花の場合も変わらず、最初に女御のもとへと通された。彼はまだ女の姿に慣れておらず、言葉少なに挨拶しただけだった。その場にいた誰も、案内役を務めた女房ですら気付かなかった月花を男と見破った女御の観察眼は恐ろしいものがある。
(あの時のことは、今でもよく覚えてる)
後宮を案内され、仕事の説明を受けた月花があてがわれた局に入った時、丁度月花を女御の使いが呼びに来た。それは夕刻であったが、月花は自分の正体がバレたのではないかと冷や汗をかいた。
怯えながら通された弘徽殿にて、女御は人払いをした上で月花にこう言ったのだ。
「月花の君。あなたは女ではありませんね?」
「えっ、何をおっしゃっているのですか……?」
「わらわの目は、誤魔化せませんよ。さあ、どうなのです?」
「……」
「……」
沈黙はどれほど続いただろうか。先に音を上げたのは真兎の方だった。後宮の最高権力者に知られてしまっては、命はないに等しい。
「貴女様に気付かれてしまっては、どうしようもありませんね。お気付きの通り、わたし……いえ、俺は男です。真兎と申します。ある人を捜すために、女房として後宮に仕えたいと考えています」
「ある人?」
「女御様、ご存知ありませんか? ……月草の君という名に覚えは」
「貴方、月草の君を知っているの? あの子は、半年前から行方知れずで、わらわもずっと捜しているですよ」
「藍を、月草の君をご存知なのですか!?」
「月花、しっ」
思わず声を上げてしまった真兎に、女御は人差し指を自分の唇にあてて注意した。それを見て、真兎は慌てて口を手で覆う。
「ここは、後宮。いついかなる時も、誰の目が光っているかわからないのです。気を抜いてはいけませんよ」
「す、すみません。女御様」
「とはいえ、わらわはとてもワクワクしておりますけれどね」
「は?」
思わず女房らしからぬ言葉が出てしまった真兎は、慌てて再び口を手で覆った。
そんな彼が面白かったのか、女御は品よく微笑む。
「真兎、いえ月花の君。わらわも、月草の君の健やかな姿をもう一度見たい。ですから、貴方と手を結びたいのです」
「ね、願ってもないことですが、宜しいのですか? だってここは、男子禁制の後宮では……」
「その通りです。ですが、貴方は月花として仕えるのでしょう? ならば、わらわがばらさなければ良いだけの話です。ね?」
「ならば、宜しくお願い致します」
「こちらこそ、ですわ」
その夜、一つの密約が取り交わされたのだった。
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