第3話

ニオは裏口から外へ出てブルゴブルグの中央へと赴いた。マーシュンの母親の件はどうでもよくなってしまった。

 四日後に〈祭典〉を控えた街は喧騒で溢れていて、酒と肉の匂いが鼻をつき、無法地帯という表現がよく似合った。取っ組み合い、下手な歌、鳴き声と叫び声……まるでサバトであったが、この時期の様式美なので教会は黙認していた。

 〈鉄槌隊〉への疑念があれども、民衆は〈祭典〉を心待ちにしている。枷も懲罰もなしに騒げるのなら、誰が殺されたところで、だからなんだと言うのだ。

 中央広場には柵が設けられていて、いくつもの火刑台が用意されていた。下見ともなしにここを訪れたニオは、かつてアンリがそうしたように、柵の内側で遊んでいた子供たちに硬貨をあてがった。きょとんとしていたが、あの時のように逃げはしなかった。

 子供たちはそうではなかったが、ニオを知る民衆は多い。隊服を着ていなくとも隊長ということで顔を覚えられているのだ。しかし本人に友人関係を築くつもりはないため、「非番かい」とか、「一杯どうだい」など、馴れ馴れしいのはうんざりだった。

 それだのに自ら中央を訪れたのは矛盾である。傲慢だが、空虚を埋めたかったのだ。あるいは居場所を求めていたのかもしれない。だが、悲しいかな、無理やり渡された豚の焼き串を片手に歩き回ったが、ついによすがを見つけられなかった。

ましなのは東門付近の路地裏くらいであった。すななち暗澹たる窟である。私刑にされてもおかしくないこの場所は、うんと静かでなるほど一息つけた。物陰から闖入者を窺う視線があちこちにあったが、ニオはあっけらかんと石段に腰を下ろした。

 すっかり冷えた豚串を口に咥え、噛み千切ろうとして、ふと地面に積もる灰を摘まむ。擦ると手袋越しでは灰そのものがないように思えた。ニオは肌身離さず持っていたあの灰をとうに撒いてしまった。これもいつか自由になるのだろうか。

「空、すべては空、空っぽ……」

 それが神の嘆きならば、神は我々を見捨てたのか。

 ニオはふうっと灰に息を吹きかけた。渦巻き、不規則に舞うそれを目で追うと、曲がりくねった路地の先にヘリオトがいた。

「お前……」

「こんなところまで、来てしまったのね」

 疲れからの幻覚ではなかった。どんなに捜索隊を放っても徒労に終わった魔女が、さも必然のようにそこにいるのだ。しかも、イシュハイムが頑なに拒んだこの窟に。

やはりな、とニオは呆れ交じりの溜息を零した。

「変わり果てたわね。ともすれば死んでしまいそうだわ」

「そうしてくれるのか?」

「まさか。わたしの氷は貴方には届かない」

 隻腕隻眼のヘリオトはまったく警戒せずに歩み寄ってきた。ニオはやや横にずれて石段に余裕を作り、彼女を隣に座らせた。

「食うか?」

「死んでいるのに、お腹が空くと思う? けど、ありがとう、頂くわ」

 ニオから貰った豚串をヘリオトはひと口齧る。無表情に咀嚼し、飲み込んで、それから淡々とこう述べた。

「美味しくない。固いし、塩っぽいわ」

「だからお前にあげた」

「ふぅん、そう」

 文句を言いつつもヘリオトは豚串を平らげた。てっきり捨ててしまうかと思っていたので、これは意外だった。

「ごちそうさま。もう絶対にいらないわ」

 ヘリオトは焦げ跡のついた竹串を弄び、やがて地面に円をいくつも描き始めた。そんな彼女のうなじには、親指ほどの幅のある穴が空いていた。皮膚が肉に食い込んで醜怪で、さらには青紫に変色している。

「その傷……」

「ん? ああ、これ。彼女にやられたのよ。死角から一発、酷い話」

「彼女……」

「そう、彼女。貴方の妹さん」

 今までもったいぶるように『彼女』と形容していたのにも拘わらず、あっさりとそう言ったのでニオはどきっとした。

「貴方、とっても愛されていたのね。街を出ようとしたら、これだもの」

 ヘリオトは顎を上げ、うなじから繋がった喉元の穴を見せてきた。

「こうして貴方と会ったのも、彼女がうるさかったからよ。お陰さまで怯えながら暮らす毎日だというのに、能天気なこと」

「能天気だと?」

 ニオはヘリオトを睨みつけた。言葉の綾よ、と補足されたが、ニオは突発的な怒りに支配されてしまい、魔女の頸を縊るともなしに掴んだ。

「ち、ちょっと……」

「お前に何が分かる。二度と、妹を馬鹿にするな」

「馬鹿に……なんか、してないわ」

「兄弟を殺めたのは許そう。アンリだって生きていた。まもなく〈鉄槌隊〉は崩壊してしまうだろうが、それでも俺はお前を許そう。だが、妹だけは駄目だ。あいつだけは汚されてなるものか」

「だから……そんなこと……」

 気管が締め付けられて切れ切れの声を発するヘリオトは、しかし無表情であり、それが反って不気味なほどにおそろしかった。

「か、し……」

「お前は言っていたな、すべては虚しいものなのだと。ああそうだ、その通りだ、この世は理不尽で哀れな虚しさしかない」

「て……」

 辛くも『貸して』と口にして、ヘリオトの左目が琥珀色に光り、〈黒い氷〉の義手が生えてくる。それでニオの腕に触れようとするも、やはり届かず砕けてしまった。

「なあ、教えてくれよ。俺たちが何したって言うんだ? あんなにも苦しんで、その末路が虚しさと屈辱か?」

「いい、かげん……に……」

「お前はネィリネじゃない。あいつはもういない。そんなこと、誰に言われなくても分かってるんだ。でも、認めたくないんだよ。お前が、妹じゃないって」

 言い終えて、歯を食いしばって俯いた。

 この隙を見逃さなかったヘリオトは、竹串を逆手に持ち替えて、ろくに狙を定めもせずに半ば力任せに振るう。が、それは成されなかった。地面に散らばる氷の破片、そのひとつががやにわに十字架に変形して、彼女の胸を穿ったのだ。

 ほぼ無音の一撃だった。衝撃でヘリオトが後ろに転がる頃には、再び砕けて水になってしまったが、まるで意志が宿ったかのようであった。

 かひゅう、かひゅう、と風の抜けるような呼吸音がする。その主である魔女の仰向けになっているのを、唖然とニオは見つめていた。

「ネィリネ……?」

 嬰児のように四つん這いになってヘリオトに近づいていく。瞬きすらしていない。

「そこにいるのか……?」

 流血のひどいヘリオトを抱え上げる。目元は腕で隠れていた。えづきの混じった咳が血飛沫を吐き散らし、生暖かさがニオの頬を伝う。

「ネィリネ!」

 もはやニオの瞳には亡き妹しか映っていなかった。この状況は、極寒の森の木のうろで、眠ってしまわないよう名を呼び続けた夜に似ていたのだ。

「あ……ぅ、いき……」

「起きろ、ネィリネ! ネィリネ!」

「かし、か、かし……し……」

「ネィリネ!」

 ニオの叫びを聞きつけて、ぞくぞくと異常者たちが野次馬に集まってくる。

「……し……て」

「して? なんだ、何をして欲しいんだ!」

 血に濡れたヘリオトの唇に耳を寄せる。しかしどうも聞き取れない。こぽ、こぽ、と吐血の音がするだけだ。

 かたや異常者たちはニオを囲んだ。彼が〈鉄槌隊〉の隊長であることは、窟に入った時点で暴かれており、ゆえに退路は塞がれてしまった。

「彼女から離れろ」

 異常者のひとり――いや、あるいは、どの部類にも当て嵌まらないであろう半端者、赤い鼻のカイネルが一歩前に出た。

「離れろと言ってるんだ魔女狩りめ!」

 なおも無反応だったので、カイネルは髪を鷲掴みにして引き倒した。乱雑だったので何本か抜けてしまったが、しかしニオはヘリオトを抱えたままだった。

「こいつ!」

 両手が使えないのをいいことに、カイネルは殴りかかろうとした。その時である。

「だ……め……」

 ヘリオトが声を振り絞ったのだ。衣服がびっしり血に染め、肩で息もしているが、露わになった目元ないし表情はいつものように無であった。

「この人は、だめ……」

「お前さん、何を言って……」

 ヘリオトニオを庇ったのは、ひとえにまた暴走してしまうかもしれないからであるが、そんな事情を露知らずのカイネルは眉をひそめた。

「カイネル。お願い、何も、しないで」

「何もしねぇでってお前さん、こいつは俺たちの敵だぜ? さんざ苦しめられてきたんだろ? 絶好の機会じゃあねぇか」

「いいの、今は。お願いだから、どこか、早く……」

 ヘリオトは胸を押さえて立ち上がるも、たたらを踏んで膝から崩れた。いくら人外の治癒力があるとはいえ、心臓の一部を削られてしまえば、致命傷に変わりはない。

「どうして、逃げないの……」

「……そりゃあ、無理ってもんだぜお前さん。相手はひとりだ、ここで逃げちまったら夜明けなんて来ねぇだろうよ」

 無知なカイネルは英雄気取りに蛮勇を演じた。彼と同じく世俗の弾かれ者とされてきた異常者たちも、一歩も引こうとしなかった。そうではないのだと、ヘリオトは言ってやりたかったが、いかんせん意識が遠のきつつあった。

「魔女狩り。手前ぇさっきから黙り込みやがって、お高くとまってんじゃねぇぞ」

 満座の視線がニオに向けられる。ここでようやく、彼の口が動いた。

「……どこかで」

「あ?」

「どこかで聞いた名だと思っていたが、そうか、お前はアンリの叔父だったか」

「なっ!」

「そうか、なるほどな。知らないことは幸せだ」

「アンリを知っているのか! おい、答えろ、あいつはどこにいるんだ!」

 無様な焦りを晒すカイネルをニオは鼻で笑う。そして、だからこそ、悪しき考えがよぎり、あまつさえ言葉にするに至った。

「死んだよ。そこの魔女に殺されたんだ」

「は……?」

「本当さ。ちょうどそいつみたいに胸を撃たれたのさ」

「冗談、だろ……? よせよ、そんな、なんでお前がそこまで知ってんだよ……!」

「俺は魔女狩りだぞ?」

 カイネルはハッとした。そもそも、彼がここにいる原因は、家畜殺しの魔女を告発したら共犯者の嫌疑をかけられてしまった理不尽にある。元を辿れば魔女のせい、そしてその魔女を狩る者が語るのならば、あるいは……。

「……お前さん、なあ……」

 そう呟き、己の無知を悔いつつも、恩人を疑ることを恥もせず、ヘリオトを睨む。彼女も彼女で虚ろな瞳をしていた。

「どう、なんだよ……。あいつを……殺したのか?」

「……わたしは、やってないわ」

「やってないって、なんだよ……殺して、ないってことかよ」

「違う、わたしは……」

 言葉を紡ぐのがやっとで、止まらぬ胸の流血を凍らせることも叶わず、されどヘリオトは気絶してしまわぬうちに、ニオに向かってこう言った。

「あの子は、生きてる……って」

「いいや、あいつは死んだよ。俺もお前も、叔父すらも知らない女になってな」

「なんだよそりゃあ……」

「彼女は〈鉄槌隊〉の一部となったんだ。そうさせたのは俺だ。拷問もやらせた、死体だって斬らせてやった、辱めも腐るほど味わわせた」

 ニオの告白に、カイネルは憤りではなく恐怖を覚えた。

ヘリオトが殺したのだと言い張ったと思いきや、今度は自分がやってしまったと明かして、まったく不安定で狂ってる。

「その結果があれだ。俺なんかより、よっぽどまともじゃないか」

「知らねぇ女に、なっちまったのか……?」

「鮮やかな色だった。青く澄み渡った空のようだったよ。こんな時代でも、あいつは愛されることを拒まなかった。素晴らしいじゃないか」

 なんだって、とカイネルは訝しむ。

「色って手前ぇ、色を知ったってことか。そりゃ、確かに喜ばしいが……。つまり、死んでねぇんだな? 手前ぇんとこで、愛人作ったってことだな?」

「ああ」

 畜生、そういうことかよ。カイネルは目頭を指で押さえた。愚直に姪が変わり果ててしまったと捉えていたゆえ、恥ずかしさを紛らわす、大きなため息もついた。

「いいじゃねぇか」

「もう、昔のように会えないのにか?」

「馬鹿言え。あいつは家族だ。離れていようが魔女だろうが、変わんねぇよ」

「……そうか。ならば、甥の方は残念だったな」

「ケリンのことか?」

 すっかり敵であることそっちのけで、カイネルはニオの前で胡坐をかいた。

「あいつも生きてんのか? 保護してくれてんのか?」

「……いや、俺たちが赴いた頃には、もう」

「は……?」

「土に埋められていた」

 カイネルはわなわなと震えてニオの肩を揺さぶった。そんなの、あんまりじゃないか。

「お前と一緒に逃げた女がいるだろう。醜い女だ」

「お、おう」

「あいつが殺した。殺して、埋めて、喰っちまったんだ」

「喰った……だと?」

 ニオは静かに頷いて、肩に乗る手をおもむろに払い除けた。

「何も知らなければよかったと思うか? お前から告発を受けたのが、この悪夢の始まりだ。ひどく虚しいだろう。何もしなければ幸せだったのにな」

「信じねぇ……信じねぇぞ」

「魔女を恨むか? それとも魔女狩りを憎むか?」

「有り得ねぇ……ケリン、ああ、ケリン!」

 現実を受け止められなくて、カイネルは使いものにならなくなった。

 なのでニオは立ち上がり、ぐるりを囲む異常者と、まだ微かに息をしているヘリオトに向かって、こんな提案を持ちかけたのだった。

「こんな悪夢、沢山だ。俺とお前たちで、魔女狩りを狩る取引をしないか?」

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幸せな無知の魔女 @Hokora

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