第2話

 沈み、水面の光が霞んでしまうように、ニオはゆっくりと朝に目覚めた。

上体を起こすと椅子が軋み、欠伸をしようとすれば乾燥した唇が裂けてしまって、肩の痺れや眩暈もいっぺんに襲ってきた。

重い瞼を擦って椅子に背を預けると、さらに鈍い音がした。一晩中、開け放たれていた窓から風が入ってくる。机の上の書類が飛んで、ようやく朝だと悟った。のみならず、忘れかけていた夢の内容を思い出し、ひどく震えた溜息が零れた。

 どうやったって引き離せない十一年前の記憶。おぼろげな情景しか夢として現れなかったが、それを幸福と呼べるほど、ニオは誠実ではなかった。

ここ数日の記憶は曖昧であった。単に、心が不安定だからでもあるが、件の夢のような追憶が時を選ばずして彼を苛むからだ。その上ろくに休眠も摂っていなかったので、褪せた瞳にかかる隈は煤のように黒くなり、職務もスタンに任せてしまって、代わり映えのない日常をぼんやりと過ごしていた。

 ひとりの魔女によって〈鉄槌隊〉に緩やかな破滅がもたらされてから、ちょうどひと月が経とうとしている。ヘリオトの行方は分からない。逃亡した三人の魔女の捜索はとっくに打ち切られてしまった。

残された者に与えられた使命は仇討ではないと、誰もが気付いたのだ。

ゆえに隊は〈祭典〉の準備に勤しんだ。処刑場の確保、投獄中の魔女の管理、火刑のための代金、民衆への告知などは教会が慈しみのもと引き受けてくれたので負担はかなり減ったものの、亡き兄弟の親族への対応は、避けられぬ運命にあった。

 慌ただしく隊員室に駆け込んでくる者がいた。アンリである。もうすっかり健やかな顔色になっており、幾分か痩せたのを除けば、目立った後遺症はなかった。

「に、ニオさん……あの……」 

「……ああ」

「マーシュンさんのお母さまが、またいらして……。あっ、いえ、無理なさらないでください。やっぱり、わたしがお断りしてきます」

 机に肘をつき、手のひらで片目を圧迫しているニオを見て思い留まったのか、アンリは申し訳なさそうに言葉を結んだ。

「いや……構わん」

 言って、ニオは腰を上げる。が、ぐらりと立ち眩みがしてしまい、椅子に座り直す形で後ろに倒れた。

「ニオさん!」

「……いいから、大丈夫だ」

 伸びに伸びた髭と髪のせいでニオは高年の風格があった。何もしてやれていないのに、見てくれだけは、一丁前だった。立ちあがり、亡者のごとくよろめいて、しかも跛行してくる隊長に畏怖したアンリは唾を飲み、あとに続いた。

「懲りてないのか」

「ええ。気持ちは分かるのですが……」

 〈鉄槌隊〉になれば、基本的に家に帰ることはない。本部に宿舎があるし、魔女狩りになれば人と等々の生活に戻れるはずがないからだ。イシュハイムのように天涯孤独であればさして問題にはならないが、妻や母を置いて入隊を望むのは決別を意味している。敬虔ゆえに身を委ねるのか、あるいは一時の感情の迷いだったのか、理由は様々であろうが、いずれにせよ本人の意思によるものなので、すべての事象は上古の御業、親族だろうとそれを否定することは信仰を捨てた魔女のもどきなのである。

 隊長が亡くなれば、亡くなった地で埋葬してやるのが流儀だ。それゆえ、犠牲になった二十一名の棺は大聖堂の霊廟に安置されている。だが、イシュハイムのものはない。彼の肉体は今もラーベスクの土に埋まっている。掘り起こすことは冒瀆に値し、そっとしておいてやるのがせめてもの弔いなのだが、それで親族が納得いくわけがない。ましてや最愛の息子の死に顔すらも知らぬまま、永久に別れなければならないなんてあんまりだ。

 隊は当初、ヘリオトによる被害を民衆には隠していたが、いつの間にか噂となって広く知れ渡ってしまった。おそらくは逃亡魔女の仕業、ニオはそう睨んだが、瀰漫していく隊の失態を止めることは出来なかった。そうして遺族が押しかけてきて、真実を教えざるを得ない状況になってしまった。すんなり受け容れてくれる者もいたが、マーシュンの母親のように憤りを露わにするものがほとんどあった。死んでしまえと、みな口々にそう呪った。遺体がブルゴブルグにあるだけ救われているのだけれど。

「……悔いていますか?」

 アンリが俯きがちに尋ねた。

数歩ほどの沈黙があった。それを経て、ニオはただ一言こう答えた。

「いいや」

「そう、ですか」

 わたしもそうでした、アンリはそう付け足そうとしたが、ぎゅっと口を噤んだ。

 ところで本部内には黒布の祭服をまとう人々の姿があった。教会側から派遣されてきた聖職者たちだ。教会は、その役職のひとつとして異端審問があるように、〈鉄槌隊〉の支配権を実質的に握っていると言っても過言ではないが、ここに送られてきた面々は物腰柔らかな若者ばかりだったのですぐに兄弟となった。

 窮屈そうにしているアンリには目もくれず、廊下を歩いていると、ニオの視界に映り込む聖職者があった。

「おや、ここにいましたか」

 向こうもニオには目もくれず、真っすぐにアンリのもとまでやってきた。目元の黒子が特徴的な男はたいへんに眉目秀麗であった。

「おはようございます、ホーゲさん。どうかしましたか?」

「許可を頂きまして、ささやかながら朝食を作ってみたのですが、よかったらお召しになってください。貴方に一番に食べて欲しいのです」

「まあ、そんな、ありがとうございます」

 アンリは少し頬を赤らめて、にこやかに頭を下げた。しかしニオの存在を思い出してかハッとして、こちらは、とホーゲに紹介した。

「そうですか、貴方が隊長さんなのですか。これは失礼いたしました、なにぶんお姿を知らなかったものでして」

「気にしなくていい。それよか彼女を頼んでもいいか」

「ええ、もちろんです。……さあ、アンリさん、行きましょう」

 ホーゲは頬を綻ばせて、アンリに手を差し伸べた。しかし彼女はちょっとためらって、戸惑い気味にニオを見上げた。

「いいの、ですか?」

「きみの仕事はない。行け」

「……はい」

 まだ何か言いたげだったので、ニオはアンリの背中を押してやった。形見の耳飾りが曙光を浴びて眩く光った。そうして去りゆくふたりを眺めていると、角を折れる直前で、こちらを振り返ったアンリと目が合い、妙な心地よさを覚えた。

 そしてニオは安堵した。

これでいいのだ、俺のいないうちに、俺よりも正しい奴に、彼女なりの幸せに巡り逢えたのだ。どうしてそれを阻めようか。

 よかったな、と呟く。なおも虚しさは燻っていた。

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