第6話

大聖堂の地下、列聖された信徒の眠る霊廟でニオは祈っていた。彼の額には、宿痾に侵され痩せこけたグレゴリウスの手のひらが添えられている。

「……ぼくは愚かでした。愚かさゆえに友を死なせ、過去に捕らわれ、こうして貴方に縋るしかありません」

 かすかにグレゴリウスは呼吸をする。

「いつの時代、すべての人々の願い、遠い夜明けを待ち望み、そしていくつもの悲しみが生まれた。だからこそ、我々は選ばれた――」

 それはニオが入隊したての頃に覚えたグレゴリウスの聖句だった。幼くして魔女狩りとなった彼は、血濡れた正義を掲げられるほどに狂ってはおらず、吐きたくなるような日々を送っては、迷いためらい心を壊されて、いつしか瞳が褪せてしまった。そんな少年がよすがとしたのがこの教え、すなわち〈鉄槌隊〉は聖別されたということ。

 選ばれたのだからここにいる。空虚は偽りで埋めてしまう。アンリと初めて会った時、彼が告げた信条が、まさしくこれであった。

「どうか夜明けをもたらしてください。夢が解けてしまいそうです」

 されどグレゴリウスは答えない。魔女の宿痾に侵されて、死ねずに生きていれども、昔日の栄華を極めた魔女狩り将軍はもういない。

 ニオは歯噛みし、審問官の手首を包み込むようにして離れないようにした。

「ぼくは貴方にはなれません。貴方がいなければ、すべてを裏切ってしまいます。そうなる前に、限りなき願いをもって、魔女に鉄槌を与えてください」

 グレゴリウスからは、あぅ、ああ、と曖昧な音が漏れるのみである。ニオはめげずに祈りを続けた。

「神よ、上古よ、どうして試練を与えるのですか。どうしてグレゴリウスさまから慈しみを奪ったのでしょうか。これが罪……罰なのですか?」

 罪と罰。

その言葉を口にして、ニオは息を止める。ふと、彼の脳裏に浮かんだのは、冷たい都の景色だった。

「あ……」

 ハッとしたニオはグレゴリウスの手を払い除けた。瞳孔が開いている。心臓の鼓動だって激しくなる一方だ。

「あ、ああ……」

 ニオは尻もちをついたまま後ずさりし、グレゴリウを照らす蠟燭の光から目を叛けた。うずくまって耳を塞いだ。

「やめろ……思い出すな、やめてくれ……!」

震えた声の懇願は、誰に届くわけもなく、霊廟にこだましては闇に溶けていく。忘れていたかった罰を思い起こしてしまったがために、ニオはすっかり弱くなった。

「違う、違う、違う、違う……」

 ニオは小瓶の首飾りを握りしめた。それは彼の未練の象徴であった。中に詰められた灰の主こそがあらゆる苦痛の根源、そして罪なのだ。 

 ぱりん、と瓶が割れる。強く握り過ぎた。が、地面に散った灰は宙に浮き、霊廟の出口へ風に流されるように漂っていった。

「ま、待ってくれ……!」

 ニオは灰を追った。それしか見えていなかったので、何度も螺旋階段で躓いたが、文字通り空を掴んで灰を集めようとして懸命に上っていった。そうして翼廊から聖堂に出ると、雨天ゆえかがらんどうで、煌びやかな内装が静寂を閉じ込めている。

 灰は主祭壇の前で不完全な球状にまとまり、身廊を入り口に向かって這う蛇のような動で戻っていった。その先には、びしょ濡れのヘリオトが立っていた。

 無表情の魔女の周りをぐるぐると漂った灰は、やがて彼女の手のひらに収まり、彼女のもとのとなってしまった。

「また、会えたわね」

 ぽかんとしているニオのもとにヘリオトは歩み寄っていく。

「貴方の仲間はおおかた殺したわ。当然の報いだもの、恨みっこなしよ。それともここで刃を交える? わたしはどちらでも構わないけど」

「……殺した?」

「ええ、あの無知な子もね。名前は聞けなかったけれど、最期まで貴方を疑おうとしなかったわ。あとは有象無象、どうでもいいわ」

「アンリを……殺したのか?」

「そんな名前だったのね」

 にわかには信じがたいあっけらかんとした態度にニオは眉をしかめた。脱走し、ここに辿り着いているから有り得なくもないが、こんな少女に兄弟たちが?

 だが彼はヘリオトが特別であると知っていた。〈黒い氷〉はもちろんであるが、何よりもラーベスクで初めて会った朝に、密かに、自分だけに教えるように、この魔女は氷の義手を見せてきたのだ。そして右腕との長さが異なることも、知っていた。

「俺を、殺すのか」

「そうね。そうしたい。かつて貴方がそうしたように」

「なんのことだ」

「心外。でも、そうよね、たかが一介の魔女のことなんて覚えていないでしょうね」

 ヘリオトは身廊の中ほどで足を止めた。

「十一年前、わたしはジェルトーヴァの森で殺された。片腕と、頸を斬られてね。心当たりはないかしら?」

「……いや、分からない」

「そう。なら、勘違いかもしれないわ。もしかしたらって、思ったのだけれど」

 意外にも、ヘリオトはしつこく問い詰めようとしなかった。ゆえに、飄々とした彼女に踊らされているような気がして居心地悪く、ニオはぽつりと呟かざるを得なかった。

「俺だとしたら、どうする」

「わたしが死んだあと、妹はどうなったのか、それが知りたいの」

「それだけか?」

「ええ。どうしても理解できなかったことだから」

 言って、ヘリオトは歩を進めた。

「流転してまで過去に執着するって、とても哀れなことだけど、分かっていても、どうしても知りたいの」

「ならばどうしてジェルトーヴァに行かない。凡人など敵ではないだろう」

「そうね。そうしたかったわ。でも、そうさせてくれなかった」

「……何故だ?」

「彼女が貴方に会いたがっているから」

 瞬間、ニオは腰の剣を抜いてヘリオトに斬りかかった。重い踏み込みは大理石の床に響き、長椅子を揺らすほどであった。

「貸してッ!」

 咄嗟にヘリオトは叫んだが、回避が間に合わなかったので、襲い掛かる逆袈裟斬りを諸に喰らってしまった。脇腹から左肩にかけて血が噴き出す。華奢な身体は膝から崩れ落ち、一拍遅れて瞳が光り、義手が生える。

 傷跡を凍らせて止血するヘリオトを見下ろして、ニオは舌打ちする。畜生、なんだっていいようにされてやがるんだ。

「どうしてお前がその力を有しているのか分からないが、不愉快だ、こちらも全力で取り返させてもらう」

「……不安定で、哀れね。貴方も」

ヘリオトの周囲には水が滴っている。これらを媒介に凍結させて茨と成し、鉄槌隊員を串刺しにしたように、隊長をもそうする肚であった。が、義手が水滴に触れていてなお、凍らせろと命じているのにも拘わらず、彼女が応じてくれない。

 そんなことは露知らず、ニオはヘリオトの頸筋に刀身を添える。

「どうした。反撃はなしか」

「優しいのね。それで魔女狩り?」

「つまらないだけだ。お前が本当に兄弟たちを殺したのなら、俺はもっと恐怖し、冷静さをうしなっていただろう。だがどうだ、こんなにも虚しい」

「……おかしな人」

 ヘリオトは刀身を掴んだ。琥珀色の光が若干の輝きを増す。おもむろに鉄は脆化していき、ぼきっと砕けてしまった。

 欠けて使いものにならなくなった剣に目を細めて、ニオは独りごちる。

「おそろしいよ、お前は」

 剣を逆手に持ち替え、ヘリオトのこめかみ目掛けて振るう。が、じんと痺れる衝撃とともに容易く義手で受け止められてしまった。骨だけの風采に反して堅牢で、びび割れひとつしないこの堅氷が、たまらなく懐かしかった。

 欠けた刀身を支えにして、ヘリオトは立ち上がる。彼女の身体は想像以上に軽かった。ほとんど体重を感じられぬほどに、生がそこにないように。

「貴方はわたしから居場所を奪った。だから、貴方の居場所も奪ってあげる」

「魔女に居場所があるとでも?」

「あるわ。誰にだって」

 ヘリオトは義手の人差し指を歯で折った――というより、溶かした、に近かった。あらゆることが思いのままなのだろう。独立した指を摘まむと、みるみる先端が針のように尖っていき、それをニオの喉元に突きつける。

「貴方にもあったのでしょう? 鉄槌隊じゃない、真に安らげる場所が」

「……知ったつもりは、無知よりも厄介だ」

「つもりじゃないわ。知っているもの。貴方が封じようとしたこと、悔恨、幸せ、そんな貴方をわたしは知っている。知っているからこそ、ここにいるの」

「……くだらねぇ」

 ニオはむしゃくしゃして髪を掻き毟った。

「やれよ」

「彼女が許してくれないの」

 ニオの要望通りにヘリオトは指で喉を貫かんとした。しかし、すんでのところで氷が静かに砕けてしまい、カーペットが水に濡れた。

「ほらね。きっと、貴方の疑いは晴れないでしょうけど、彼女とわたしは共存しているの。みんな揃って僭越者だって言うけれど、そんな愚劣な人間じゃないわ」

「……質の悪い、悪夢だ」

「貸してと頼めば貸してくれる、でも、ひとりを傷つけることは出来ない。それなのに、どうして貴方を殺せるのでしょうね」

 自嘲気味にぼやいたヘリオトの瞳から琥珀色が薄れていく。

 人智を超越した〈黒い氷〉の力をもって混乱を招き、隊員たちを虐殺し、ニオをも手に掛けんと宣言して、しかし殺意は感じられない魔女。

どうしてこうしているのか、ニオはそんな違和感を抱いた。

「結局……お前は何がしたいんだ?」

「別に、何もしたくないわ。何もしないでいたかった。居場所さえあれば、それで」

「もう一度聞くが、そんなもの、あると思うか?」

「ええ。ないのなら、あると信じるの」

 それは確かに破綻した論理であった。そうではないものを、そうであると認識させる愚かな手法でもあった。しかし、賢さと愚かさは同義だ。錯覚して満たされるのなら、果たしてそれが滑稽だと嘲られるだろうか。

少なくともニオは沈黙として肯定の意を示した。だって、あらゆる空虚は偽りで埋めてしまえばいいのだから。

「浅はかで、なんて虚しいんだ」

「そうね。神も同じように嘆いていたわ。空、すべては空、空っぽだって」

「神だと?」

 ヘリオトは答えなかった。保たれた無表情、碧眼が、ニオの褪せた瞳を映している。

「なんでもいい。神でも悪魔でも、もうたくさんだ。こんなにも虚しいのなら、いっそ焼き尽くしてくれ」

「……貴方には希望が残っているでしょう」

「希望だと?」

「この灰は、なんのため?」

 言って、ヘリオトが見せてきたのは、ずっと右手の内に握っていた件の灰である。湿っていてやや黒く変色していた。

「これは、わたしもよく知っている」

 ヘリオトはもったいぶらずニオに灰を渡した。水を含んで重たくなったからか、先刻のように宙を漂うことはなかった。

「諦めるなんて、哀れよ」

 叱るようにヘリオトは諭した。義手が、ぼろぼろと壊れつつある。

 ほどなくして魔女は大聖堂を去っていってしまった。再びの静寂の中で立ち尽くしていたニオは、そっと灰を握って目を瞑った。

雨は、まだ止まない。

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