第5話


 凍った鉄格子が粉々に砕け、足取り疎らに魔女たちが脱獄していく。

 羽織っていた布をかなぐり捨てたヘリオトは、先導者として階段を駆け上がっていった。左目が包帯越しに琥珀色の光を帯びていて、あるはずのない左腕が、骨を模した黒い氷の義手として生えている。これで無作為に鉄格子に触れて脆化させたのだ。

 燭台の灯る薄暗い廊下を見回したのち、ぼんやりと覚えている方向へ走っていく。

「あんた、ありがとう……」

 身体つきのよい若者が頭を下げる。この者を含め、着いてきたのは十人にも満ちていなかったが、歩けるか歩けないか、それが命運を分かつたのだろう。

「なあ、お願いだ、どうか助けてくれ……」

 ヘリオトは足を止めることなく頷いた。心境は憂いであった。全員を護れる保証はない、素直に事が運んでくれれば、よいのだけれど。

 しかしながら、そんな幸せは、運命が許しはしなかった。

廊下を右に曲がり、雨打つ中庭の回廊を抜けると、話し声が聞こえてきた。ヘリオトがそれを察するも、二人の隊員と鉢合わせになって退路を塞がれてしまった。加えて、魔女を同伴していたので隊員らはすぐさま剣を執り、対話の余地なしに応戦状態となったのだ。

「なんだ、あの腕は」

「皆目分からん」

 剃髪と痩躯のふたりは、幸か不幸か保守派に属する人間だった。

 ヘリオトは右手を伸ばして魔女を庇う姿勢になった。

「道を開く。けど、戦って。貴方たちの安全は保証できないから」

 数の差ではこちらが勝っている。魔女はみな裸で徒手であるが、袋叩きにすれば勝機は充分にある。

 魔女たちの沈黙を了解と受け取ったヘリオトは、その寸毫、地面を蹴って痩躯の懐に飛び込んでいった。穿つは鳩尾、氷の義手を刃に変えて突く。およそ人とは思えぬ跳躍力と速度に反応が遅れ、辛うじて剣で凶刃を防げたものの、衝撃により後方へ倒れた。

「貴様!」

 剃髪の振るう剣がヘリオトの背中に食い込む。頸を外してしまい、断胴とまでもいかなかったが、背骨の当たる固い感触があった。常人ならば致命傷に至る一撃。なれど、か細き少女は悲鳴を挙げず、痩躯に重なる形でうつ伏せになった。

 ヘリオトの衣服が血に染まる。彼女も、痩躯も、ぴくりとも動かない。

「おい、何やってやがる」

同胞は起きない。ばかに静かな数秒に剃髪は奇妙さを覚えた。それから名を呼ぼうとして、床に赤黒い血が広がっていくのに気づいた。

 おもむろにヘリオトが起き上がる。義手の五つの指が血に濡れていて、痩躯の脇腹には五つの穴が開けられていた。倒れるついでで仕留めたのだ。剣が背中に食い込んだままなのに無表情は欠片も崩れていなかった。

「魔女め……!」

 剃髪は恐怖を押し殺して憎悪に換え、殴りかかろうとする。が、感情的になってしまったのが勝負の際であった。

「今だ!」

 あの若者を魁に、魔女たちが一斉になって剃髪を襲った。

流石の鉄槌隊員といえども単独では人海に勝てるはずもなく、抵抗の隙すら与えられずに殴り蹴られ、絶叫とともに気を失った。それでも魔女たちは手を止めない。拷問に継ぐ拷問、降り積もった怨嗟と理不尽、そのすべてを着せるのだ。

 それを眺めていたヘリオトは背中の剣を引っこ抜いて義手で傷口を撫で、凍らせることにより止血した。

「増援が来るわ。行きましょう」

 ヘリオトの言葉に魔女たちは従った。死んだふたりの隊員の装備を剥ぎ取って、丸裸にしたのち、その場を去る。予想通り、騒ぎを聞きつけた隊員たちが続々とやってきたが、おかしな自信がついてしまったのか、臆する者はいなかった。

 それから先は、ひたすらに虐殺であった。第一に多勢に無勢であり、第二に詰問で弱った魔女が優位に立てるのは難しい。ゆえに、ひとり、またひとりと果てていく。規格外のヘリオトがいても、彼女が初めに言ったように、全員は守れないのだ。

 短時間のうちに、魔女はすっかり三人にまで減ってしまった。すなわち、傷だらけになったあの若者と、しわがれた醜い中年女と、鼻頭が赤く腫れた男である。かたや鉄槌隊に欠員はおらず、ヘリオトたちににじり寄って四方を囲んだ。

「忌まわしき魔女どもめ! この罪、焼き消せると思うなよ!」

 総髪の隊員が一歩前に出て怒りを露わにする。

「ど、どうすれば……」

 疲労と痛みで声の震えた若者が、その背中を預けているヘリオトに目を遣った。彼の手には仲間の亡骸から拾った剣が握られている。

 この場にいる鉄槌隊員は計十六名。これを把握したヘリオトは囁くように諭す。

「落ち着ついて」

「そんなこと言ったって……!」

「いいから」

 情けなく萎縮する若者の瞳を見つめ、圧をかけると、次にヘリオトは足元にへたり込んでいる中年女の膝に踵を当てた。

「貴方も、しっかりして」

「へ、へ、あの子……死んだ……ざ、ざまぁ、ないね……へ、へ、へ」

 はぁはぁと喘鳴に似た吐息をつく女は、気味の悪い笑みを浮かべてかぶりを振る。生を諦めたのとは別でまともじゃなくなっていた。

「お、お前さん、さっさと殺しちまってくれよ! おそろしいんだよ!」

「黙れ!」

 若者と同じく背中を合わせている赤鼻がせかすと、不安定な精神だったからか声を荒げてしまい、かの総髪から怒号が飛ぶ。一斉にかかってこないのは、幻術のごとき〈黒い氷〉を警戒しているからだろう。

 これを幸いにヘリオトはそこら一帯に転がる遺体を繋ぐように目を運ぶ。ほとんどが大量出血による死だ。勝機はある。けど、あと少し、耐えないと。

 ヘリオトは視線を前方の総髪に戻した。

「ひとつ聞いてもいいかしら」

「貴様、黙らないか」

「理知的な会話をしない? 曲がりなりにも上古の槌なのでしょう」

「……ふん、変な真似をしてくれるなよ」

 総髪の言葉に従って、ヘリオトは両の手を上げて無抵抗の意を示した。左目の琥珀色の発光も薄れていき、それに伴って義手が音を立てて砕けた。

「珍妙な……信じられん」

「おかしな反応ね。魔女はみな、こうなのでしょう?」

「……それで、何を聞きたい」

「なんてことないわ。あの男――隊員さんは、どこにいるのかしら」

「答えると思ったか」

「ええ」

 総髪は唾を吐いて嫌悪を露わにする。くだらん、どこが理知的だ。

「仮に教えたとして、隊員に会って、どうするつもりだ」

「真実を確かめるだけよ」

「真実?」

「わたしは彼を知っている。彼もわたしを知っている。わたしたちは巡り合う運命にあるの。どちらから会いに行くかなんて、些細なことでしょう?」

 くだらない、と言いそうになった総髪はハッとして口を噤む。そういえば、こいつは隊員のもとに自首してきた、だのに無関係だと断じれるものか。

「貴方たちが、彼をよく思ってないのは知っているわ。その理由も、そうなってしまった原因も知っている」

「馬鹿なことを……!」

「まあ、理由に関してはあの匹夫が教えてくれたのだけれど」

「貴様!」

 誰を指す蔑称なのかを察せない総髪ではなかった。

「あれを貴方たちがどれほど慕っていたのかは分からないけれど、結果的に貴方たちの目の上のたん瘤だった彼女も死んだのだから、いいじゃない」

「なんだって?」

「とても哀れな子だったわ。自らが願望の器なのだと悟れずに、ひたすらに無知であって強くあろうとしたのだもの」

 動揺してか、自然と総髪の剣の切っ先が下がっていく。

「あの女、死んだのか……?」

「願ったり叶ったりだったかしら。手を汚さずして、よそ者がよそ者を始末したのは」

「……いいや、信用ならん」

 総髪は県の柄を握り直し、すっかり地面についていた切っ先を上げた。これに応じて、ぐるりを囲む隊員は魔女たちに寄っていく。

 黙っていた赤鼻が、「ひっ」と小さな悲鳴を零す。若者は唇を震えながらに剣を構えた。中年女は変わらずはぁはぁと笑っている。

「貴様はマーシュン様を殺した。そして魔女は死なねばならん。いかに貴様が秘密を抱えていようとも、耳を傾けるのは愚行も愚行」

「残念だわ。貸しを作って、貴方たちを救おうとしたのに」

「貸し借りなどと戯言を。魔女に救われるほど、我々は腐敗していない」

「……そう。貴方たちも――」

 言い終えずして、ヘリオトは膝から崩れていった。その直後、左目が包帯越しに琥珀色に輝き始め、細糸のような軌跡を描く。

 総髪はつい目で追ってしまった。これこそが愚行であった。

「――哀れなのね」

 突如として、床じゅうの血が固まって〈黒い氷〉の荊棘が顕現する。

 それはまったく無慈悲に隊員たちの四肢を貫き、宙に打ち上げて、おぞましいほどの苦痛をも与えた。野太い悲鳴、舞い散る血潮、氷の茨に守られて呆然とする三人の魔女。惨憺たる光景が、ほんの数秒の内に出来上がってしまった。

 倒れていったヘリオトは、しかし倒れておらず、再び生えた義手を床に当てて、膝立ちの姿勢になっている。亡骸の血を凍らせて串刺しにする、素晴らしき冒涜を成してなお、やはり無表情は保たれていた。

「難は去ったわ。行きましょう」

 ただ、ただ、ぽかんとしている若者と赤鼻の方を振り返ることもなく、ヘリオトは荊棘の間を縫うようにして歩を進めていった。

「ぼんやりしないで、また増援が来るわよ」

いまだに苦悶が浮く荊棘の群れを抜け、ひとりとして着いてきていないことに気付いたヘリオトは頸を傾げる。待っていると、まず赤鼻がやってきた。

「お前さん、こんなことして……いや、助かったのは事実なんだが……」

「不要よ。感謝なんて」

「あ、ああ……。お前さん、いったい何者なんだ……?」

「ヘリオトロープ。貴方の神よ」

「ばっ、馬鹿なこと言わないでくれよ。俺ぁ魔女じゃねぇ。れっきとした上古信者だ!」

「……ごめんなさい。なら、貴方はどんな冤罪にかけられて?」

「手前の家畜を手前で殺したって、意味分かんねぇや。俺ぁ被害者なんだぜ、魔女に家畜を皆殺しにされてよぉ、だのに手前も共犯者だって連れてこられたんだ」

「災難だったわね」

「ああ、くそったれだ。仕舞いにゃあ、姪っ子と甥っ子と離れ離れだ。お前さんよぅ、俺ぁ静かに暮らしてたんだぜ?」

「みんなそうよ。……わたしも、そうだったもの」

 消え入るような声でヘリオトはひとりごちた。琥珀色の瞳の光は段々と薄れていって、義手も砕け、隻眼隻腕の少女だけがそこに残された。

「貴方……名前は?」

「カイネル」

「そう。カイネル、こんな根拠のないこと、なんの励ましにもならないでしょうけど、姪とも甥ともきっと会えるわ。だから、生き伸びるのよ」

「やってやるとも。お前さんに助けられたのは、違いねぇんだしな」

 カイネルは無精髭で半ば隠れた唇を緩めた。親族と離別してしまった彼であるが、一度も拷問を受けていないゆえ、五体満足なのは恵まれた運命であった。

――そうであるのならば、眠っていた隙に眼前の少女が姪を殺めたことも、甥も既にこの世にいないことを知らぬことも、ある種の幸せなのかもしれない。

 ややあって、中年女を背負った若者が茨の群れから姿を現した。

彼の肩にかかった女の手の爪がさっぱり剥されて、肉に錆びた釘が打たれているのをヘリオトは今しがた知り、道理でまともじゃないのだと合点がいった。

「貴方、その傷で平気?」

「大事ねぇ、こういった喧嘩は茶飯事だったんだ」

「逞しいのね。行きましょう」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。行くつったって、これじゃあ俺は死んじまう。ひとりで歩けねぇんだこの女」

「なら、置いていけば?」

「おいおい、ちっと非道じゃねぇか魔女さん。せっかく生きてんのに、そりゃ人道に反するってもんだぜ」

「面白いわね、貴方。なんであれ、能う限りは尽くすわ。三人……いえ、二人ならなんとか護れるから」

「ほお、そりゃあ有難い。退路は心得てるんかい」

「なんとなくだけれど」

「頼むぜ。ここまでやって死ぬのはやるせねぇぞ」

 それもそうだ、とヘリオトは頷いた。若者はカイネルや中年女とは違い、先の乱闘の始点となった勇気ある人物だ。そして強かに生き残った。そんな彼が殺されるのは、この時代がそうであるように、理不尽極まりない。

「さ、行くわよ」

 ヘリオトは踵を返した。が、若者は、「思ったんだけどよ」と呟く。

「窓から逃げちゃ駄目なのか?」

「え?」

「いや、律儀に出口から出なくとも、窓割ってそこから出りゃよくないか?」

 若者は廊下の壁に取り付けられた片開きの窓を顎で指した。雨に濡れてガラスの向こう側がぼやけているが、防護柵はないため、難なく壊せそうであった。

 ヘリオトは依然として表情を崩さずに窓を見つめ続けた。ただし、思慮しているというよりかは、どうやって言い包めようか考えている具合であった。

「……うん、そうね。それも賢い選択ね」

 至って冷静に、けれども強引に、ヘリオトは窓に近寄っていって叩き割った。その体躯らしからぬ力技に若者もカイネルも目を丸くしている。

「逃げても宛はあるの?」

「すげぇな……色々と、何から何まで」

「あるの?」

 若者は口を噤んだ。カイネルもそうであるように、若者もこのブルゴブルクに連れてこられた側の人間だ。宛などあるはずがない。

「ないのなら、南へ向かいなさい。ジェルトーヴァは知っているでしょう?」

「ジェルトーヴァ……。おい、あんた、まさか」

「ジェルトーヴァの森。あそこなら、貴方たちの居場所がある」

 ヤーケンチカールの南に広がる大森林地帯。それがジェルトーヴァの森である。巡礼の終わり、旅の果て、聖域、そんな大層な名を冠するこの森は、古くより異端の吹き溜まりであり、しかしその広大さゆえ〈鉄槌隊〉は迂闊に近寄れずにいた。

 辿り着ければ安息の地。だがそれが夢物語であることくらい、若者にも分かっていた。

「無理だ、俺たちじゃあ街から出るのすら怪しいよ」

「現実的じゃあねぇな。お前さんには悪いが、どうにかこの街で生きてみるよ」

「そう。好きにすればいいわ」

 ヘリオトは別れを惜しむことなく廊下の奥へと進んでいった。しかしふと、角を曲がって立ち止まって顔だけを覗かせてみたが、もう誰もいなくなっていた。

 歩を早め、雨音傍らにヘリオトは考える。

わたしは何も得られていない。あの男のことを、聞く機会はいくらでもあったのに。衝動的になり過ぎた。急がないと。

……彼女だって、会いたがっているもの。


しばらく本部内を彷徨った末、ヘリオトは二階の一室の扉を開けた。そこは奇しくもニオの部屋、人影のない隊長室であった。ぼんやりと揺れる燭台の灯りに照らされて、机の上にまとめられている書類に目がいった彼女は、なんとなしにそれを手に取る。すると、紙に赤い指紋の跡がついて、わたしは血に塗れていたのだと、魔女は気づいた。

 同胞と別れてから戦闘はなかった。ヘリオトとて好き好んで戦いたいわけではない。魔女と魔女狩りは相反する世界で生きているのだから、仕様がない、そんな心持ちなだけだ。たとえそれが虐殺を招く結果になろうとも、仕様がない。

 ならばこの血はなんであろうか。そう思い、瞬きして、紙をつまんだ指を見たのだが、そこにはなにもなかった。確かに、今しがた使ったはずの右手は、もとよりなかった。紙も机の上に置かれている。

 ヘリオトは違和感を覚えた。よろめきもした。咄嗟に伸ばしたのはまたもや右手で、虚空を掴むだけなのに、どうしてか彼女は倒れなかった。自分の意志とは裏腹に、義手が顕現して机に手をついたのだ。琥珀色の光が、燭台の火と混ざり合う。

「なんで……」

 異変はこれに留まらなかった。義手が、氷の腕骨が、不自然な方向に曲がり、北を指さして硬直してしまったのだ。こんなことはついぞなかった。ヘリオトは舌を噛んで、いくつもの感情を押し殺して、表情を変えなかった。

「抑えて、お願い……」

 さらに強く犬歯で舌を噛んだ。激痛が走り、口内が血の味でいっぱいになった。唇からそれが垂れ出すと、義手がヘリオトの頸を絞め、しかし砕けて消えた。細かな破片が顎や喉元に刺さったが、死に至りはしなかった。

 咳き込み跪くヘリオトは、肩で息をして、緩やかに迫りくる滅びを感じた。そして、近づいてくる足音と、視界の端が徐々に明るくなるのを察した。どうにか立ち上がるも、それが限界で、身を隠す猶予はなかった。

「随分やってくれたな」

 そうして松明片手に入室してきたのはスタンであった。部下を殺され、あまつさえ隊長室に忍び込まれてなお、魔女を見つめるその顔は、どこか寂しげである。

「……貴方は、違う」

「ああ、そうだな。貴様が求めているのはドイルだろう」

 ヘリオトは口を噤む。

「あの氷を見た時、これが夢ならばと、ひたすらに願っていた」

 スタンは手に持つ麻の袋を投げた。床に落ちると、中身が零れ、それはラーベスクで回収した〈黒い氷〉の破片の数々であった。

「因果とは、なかなかに断ち切れぬものだな。ネィリネ」

「……ッ! 違う、わたしは……」

「言うな、知っている。貴様は僭越者だ。殻を演じる魔女などに用はない」

「殻、ですって?」

 ヘリオトはスタンに一歩近寄った、

「そんなことないわ。わたしはわたし。僭越者でも、殻なんかでもないわ」

「では、俺を殺すがいい。彼女だって、そうしてやりたいと憤っているのだろう?」

 スタンは腰に差していた剣を床に置いた。

 ヘリオトはこの偉丈夫の瞳の奥をじっと眺めた。なんの感情も含まれていない、渺茫たる無窮の深い闇が、虚飾に満ちた命に終わりを吹きかけている。

「……それが、貴方の望み?」

「ああ」

「ふぅん……」

 ヘリオトはスタンのすぐ側まで歩いていく。松明の炎の熱で、凍えた肌がじわじわと刺激されていき、心地よかった。

「彼は、どこに?」

「……大聖堂だ」

「ありがとう。じゃあ、お別れね」

 スタンは小さく頷いた。ゆっくり目も瞑った。

 しかし、ヘリオトは彼を見上げるばかりだった。右手はなく、長きに渡る沈黙があり、外の雨音がやけに大きく聞こえてきた。

 この静けさを破ったのは、魔女の口癖であった。

「――哀れ」

 そう吐き捨てて、ヘリオトはスタンの横を通り過ぎた。スタンは慌てて振り返ったが、何かを言葉にするよりも先に、その言葉が封じられてしまった。

「彼女は、貴方に生きろと望んでいるわ」

 スタンは声もなく目を見開いて立ち尽くした。信じられないし、苦しみは続くのだと、絶望の這い寄るのも感じた。だが、どうすることもできなかった。ヘリオトがニオのもとへ向かって行ってしまうのを眺めるのが精一杯であった。

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