第4話

夕刻、雨に濡れた灰が重みを増している。

馬の蹄にそれはこびりつき、あるいは踏みつけられて窪み、その跡は城門から大通りに至るまでまばらに続いていた。

黒雲の下、ブルゴブルクに帰還した〈鉄槌隊〉を迎えた民衆の笑顔は束の間に消え、一様に寂寥たる雰囲気をまとう隊員たちに閉口せずにはいられなかった。いったいどうしたというのか、隊に対する感情は違えども、抱く疑問だけは一緒だった。けれども、ついに答えを得られずに、殿を務める者の背中を目に焼き付けるのだった。

 先頭を行くはニオとアンリ、左にはスタンが馬に跨っている。少し後ろにはイシュハイムや、あの見張り番もいたが、マーシュンの肥えた姿はなかった。なぜなら彼の身体はここにはない。あの山に、埋めてきたのだ。

 事の始まりは慰労宴の明くる日である。いつまで経っても出てこないマーシュンと娼婦に不信感を覚えた女将が、合鍵を使って中を検めたところ、ベッドの上で大の字に絶命しているマーシュンを発見したのだ。死因は失血死。喉が鋭利なもので斬られていて、生まれたての雛鳥のように目をかっぴらき、冷たくなっていたのだ。

 この報が泥酔していた〈鉄槌隊〉届いたのは、それからまもなくのことだった。当時、頭痛と吐き気に苛まれていたニオは、愚かにも夢であるとあしらった。そこで唯一酒を飲まなかったアンリが確かめに行って、ようやく現実を知ったのだ。

 酔いは覚めて血の気も引く。仲間の死に咽び泣きこそしなかったが、ニオは茫然自失に亡骸を眺めていた。何を隠そうマーシュンと最後に会ったのは彼だ。娼館を手筈したのも彼だ。このことは他の隊員に教えなかったものの、同じく時を過ごしていたアンリが犯人捜しを真っ先に提案したのは、ある種の分水嶺だったのかもしれない。

 殺したのは何奴か、それを探すのならば、必然的に魔女狩りとなる。同胞を奪われた憎しみは募っており、とりわけアンリの入隊をよく思っていなかった保守派の面々は、血眼になってラーベスクを練り歩いた。

しかし犯人はすぐに見つかった。

いや、正しくは、向こうからやってきた。

 ひとりマーシュンのそばにいたニオのもとに自首してきたのだ。左腕がなく、左目にも包帯が巻かれていて、その包帯で亜麻色の髪を後ろに結えた少女である。

 そして彼女は、ヘリオト、と名乗った。

 探し求めていたすべての元凶が、こうもあっさりと、しかもわざわざ捕まりに来てくれたのだ。身代わりや罠の可能性も考えられたが、現状が現状だけに長居するのは危険であると判断したニオは帰還を言い渡した。また、去り際にマーシュンを埋葬したのだ。追悼する暇もなかった。死して故郷に帰れるのは、聖者だけなのだから。

 ヘリオトはマーシュンの馬に乗せて連行した。また、敢えて四方を保守派に囲ませることによって逃亡を防いだ。真偽が分からない手前、殺してはならず、彼らの復讐は手を伸ばせば届く位置で抑えられた。この苦痛は、いかなる拷問にも勝った。

 かくして今に至る。アンリが雨に濡れて額に張り付いた前髪を煩わしく思っていると、ニオが前を向いたままに腿を叩いてきた。

「なんでしょう」

「もし、あれが本当に魔女ならば、お前の身も危ない。だが、本物かどうか吐かせるのがお前の役目だ」

「心配しないでください」

「〈黒い氷〉の情報をちょっとでも聞き出したのなら、そこでやめていい」

「……はい」

 アンリは腿に添えられたニオの手を握った。ごつごつとしていて男らしく、それでいて微かに震えてもいた。

「マーシュンさんはあの夜、誰とまぐわっていたのでしょう」

「俺を疑っているのか。まあ無理もないな」

「そんな、違います」

 ニオが娼館と繋がっていて、ヘリオトを仕掛けた――。アンリは否定したが、可能性のひとつとして無視できない節もあった。

「でも、一応聞きますが、あの魔女とは初対面……なんですよね?」

「もちろんだ。俺はな」

 含みのある言い方にアンリは眉根をよせた。が、ラーベスクでの出来事を思い返せば、なんらおかしくはなかった。ヘリオトが広場にいたのならば、公開処刑を執行した枝分かれの頭巾の男は深く記憶に刻まれているはずだ。

 アンリは後ろを見回した。すると、偶然にもヘリオトと目が合った。

「ただ、既視感があった」

「え?」

 アンリは前に向き直った。

「髪の色がエレトと一緒だったからか? いや、そんな些末な理由では……」

「それも尋問しましょうか?」

「……そうだな、頼む」

 隊は大通りを左に折れた。

路傍では雨天にもかかわらず、住民が軒下に出て拍手を送っていた。魔女を乗せた馬車が横切れば、石を投げて侮蔑の言葉を並べた。まことに敬虔であった。

やがて本部に到着すると、ニオはアンリをおろして大聖堂に赴いていった。マーシュンの訃報をグレゴリウスに報せるためだ。

残された隊員はスタンの指示に従い魔女の拘束をいったん解除した。足枷をつけ、列をなして歩かせて、地下牢に自ら入らせるのだ。ただし、ヘリオトは別であった。彼女の扱いは慎重でなければならず、それゆえ対応は最後に回された。

保守派に代わって監視を任されたのはアンリであった。彼女がヘリオトの拷問を担当するのは事前にニオから全体に伝えられており、副隊長もそれを了承していた。不平不満はあれども、あの晩を鑑みればニオを除いて彼女以外に適任者はいないだろう。

 しとどに濡れたアンリはふとヘリオトを横目で窺った。背丈は同じくらい。眼球に当たる部分の包帯が血で滲んでいる。鼠径部までしかない麻の服に、継ぎ接ぎだらけの布を羽織ったみすぼらしい格好だ。素足ゆえ爪が割れていて、斑点があり、泥にもまみれている。

 視線をつま先に持って行って再び顔に戻すと、ヘリオトがこちらを向いていた。生気のない青白い顔立ちは、しかし月夜の湖のような美しさがあった。

「貴方、とっても哀れね」

 やや鼻の詰まった声でヘリオトは呟いた。

「あの男に随分贔屓にされているみたいだけれど、本心じゃなくて、利用されているだけだって気づいていないもの」

「な、急に何を……」

「わたしは貴方の理解者よ。こんな狭苦しい世界、さっさと逃げちゃいましょう。それとも破滅をお望みかしら?」

「だ、黙れ! 状況を理解してないのですか!」

「そう。孺子なのね。そうやって知識を得ようとしない無知は嫌いじゃないわ」

 ヘリオトは正面に向き直した。

「みんな哀れだわ。貴方も、あの男も」

「その口で、ニオさんを語らないでください。あの人のなんなんですか」

「それは貴方でしょう。あの男の世界に映っているとでも思っているのかしら?」

「な、なんですって?」

 虚勢を張っていたアンリはどきっとした。その疑問を、かつて拷問室に置いてきぼりにされた時に抱いたことがあったのだ。

「彼の人生の登場人物であると思っているのなら、間違いよ。そうね、貴方は積もる灰の一粒でしかない。視界に映らず、踏みにじられ、風が吹けば舞い、誇示しようとすれば彼方に飛んでいってしまう。それが貴方なの」

 アンリは反論しようとするも、ヘリオトの光のない碧眼に息が詰まった。瞳の奥に吸い込まれるような恐怖すらも覚えた。――これが、魔女なのか?

「灰は灰に。何にもなれない哀れな存在」

「……違う」

「ねぇ、貴方。ここに貴方の居場所はあるの? 貴方に、魔女は狩れるの?」

「……やめて」

「わたしに運命を委ねなさい。異端は、すべてを受け容れるわ。わたしは神様だもの」

「黙れ……!」

「だって、貴方に上古は似合わないわ」

 瞬間、怒髪天を衝くほどの怒りに支配されて、アンリの拳は振るわれた。

ヘリオトの鼻に直撃し、まったく抵抗なしに彼女は尻もちをついた。中指の付け根辺りに生温かさがあり、それが血であると分ったのは、ヘリオトの口元が鮮やかな赤色に染まっていて、かつ曲がった鼻を目視してからである。

 ハッとしたアンリは、「ごめんなさい」と謝った。ほとんど無意識であった。

「その、そんなつもりは……全然なくて……あ、いや、えっと……」

「……いいの」

 慌てふためくアンリであるが、立ち上がったヘリオトは無表情を保っていた。

「おかしな人ね。貴方って」

 ヘリオトは羽織っている布で口元を吹いた。驚くべきことに、もう止血していた。常人ではありえない速度である。さらには曲がった鼻を摘まんで矯正してみせて、アンリがぽかんとしているうちに、すっかり元通りになってしまった。

 アンリの頬にヘリオトの右手が添えられる。

「それでいいのよ。感情は死んでいないのなら、貴方は貴方だもの」

「は、はあ」

 いい加減、ヘリオトの哲学的な言い回しにはうんざりだった。おかげで、殴ってしまった罪悪感はなくなった。

 以降、ふたりに会話は生じなかった。

冬の雨に身を震わせていると、ようやく魔女の投獄が終わったとの報せがきたので、アンリは踊り込むように本部へ入っていった。ゆっくりと暖を取りたかったが、ヘリオトの拷問が最優先なので、我慢してまっすぐに廊下を進んだ。

「寒いでしょうに」

「寒いですよ」

途中、そんなやりとりがあった。

地下におりると、例の看守三人組がアンリに声をかけた。

「びしょ濡れじゃないか」

「なんだって拭いてこないんだ」

「仕事増やさないでくれよ」

 そんな無神経な彼らに対し、苛立ったアンリはぶっきらぼうに、「すみませんね!」と叫んだ。だが、これは喜劇ではなかった。獄中の魔女たちの視線が彼女に集まって、新たに囚われたラーベスクの者どもが、ヘリオトに助けを乞い始めたのだ。

 阿鼻叫喚とはまさにこのこと。鉄格子の隙間から伸びるいくつもの手は、ヘリオトの衣服に触れるばかりで届かず、アンリへの雑言が虚しく響いた。

 拷問室は記録係の隊員と、鉄の臭いが漂っていた。ヘリオトは特別中の特別ゆえ、どんな片言隻句も聞き逃してはならない。他の魔女がいては悲鳴が邪魔になるので、スタンが一斉に撤去させたのだ。長らく外に放置されたのは、これが原因である。

「ご苦労様です。準備は整っております」

 記録係は淡々と述べた。顔は頭巾で隠れていた。

 アンリは頷き、ヘリオトの足首を縄で縛って天井に逆さに吊り上げた。右手首に重しをつけたので、やはりというか記録係にも手伝ってもらっていた。

 彼女が本物のヘリオトであるとして、〈黒い氷〉を隠し持っているのならば物理的な拷問に効果は望めない。現に彼女は無表情のままだ。だから、エレトのように精神的に追い詰めるしか術はないのだが、果たしてどうするか。

 アンリはちょっと思案して、敢えての方法を試してみることにした。

「マーシュンさんを殺したのは貴方で間違いありませんね」

「ええ」

「どうして殺したのですか」

「魔女の敵は魔女狩りでしょう?」

 それもそうか、とアンリは相槌を打った。

「では、マーシュンさんとはどういった行為に及びましたか? 当時の状況を詳しく教えてください」

「わたしの裸に息を荒げていたわ。のしかかってきて、心底気持ち悪かったから、さっさと殺したの。行為はしてないわ」

「……確認しますが、娼婦ですよね?」

「ええ」

「ニオさんが予約したのも、貴方ですか?」

「そうなるわね。でも、仕方ないのと思うの。彼はわたしを知らない。何の気なしに選んだ女がヘリオトだったなんて、誰がどうして責められるのかしら?」

「はあ、どうして肩を持つのですか? 共犯したと捉えられてしまうのですが」

「案外彼を信じていないのね」

「いえ、そういうわけではありません」

 アンリはふぅと一息ついた。平常心で努めねば。相手に流されてしまっては、受動的な尋問の意味がないではないか。

「凶器は? 現場に残されていませんでしたが」

「そうね、当然だわ」

「それを教えてください」

「構わないけれど、教えたところで、魔女狩りとして意味はあるの? 貴方の腹の内はわからないけれど、知りたいのはそこじゃないでしょうに」

「……それもそうですね」

 魔女に諭されるとはとんだ笑い話である。外堀から攻めていくように、わずかな証言を集めていくつもりでいたが、これは回りくどかった。

 アンリは記録簿のある机、その上にある匙と鋏を手に取った。

「では、これで貴方の目玉を切除します。何も見えなくなりますが、声帯はありますので、聞かれたことだけに答えてくださいね」

 宙吊りになっていたヘリオトは地面すれすれまで一気におろされた。血が頭まで上ってしまったせいか、立とうとしても、片腕では力が入らないようだった。

「……思い、切ったのね」

「私情ですけど、その瞳が鬱陶しいんですよ」

「そう。慣れてるから、いいけど」

 ヘリオトはいまだに立てずにいた。

これを好機にアンリは彼女を仰向けにして馬乗りになった。こうも直接的な行動は記録係の手を止めて、興をさかした。

「どうせ痛くないんですから、さっさとやりますよ」

「痛くない?」

 アンリは匙をヘリオトの涙袋に添えた。そして、蕪のスープを掬うように眼球を抉ろうとした、その寸前である。

「貴方、もしかして、わたしが痛みを感じないと思っているの?」

「そりゃあそうですよ」

「感じるわよ。貴方に殴られた痛みも、吊るされた痛みも、全部ちゃんと」

「はあ、嘘が下手ですね。痛覚のある人間が表情を変えないはずがありません。そんなに瞳が惜しいですか?」

「盲目を是とする奴がいるわけないでしょう」

「立場を弁えてください」

 台詞とは裏腹にアンリはヘリオトから離れた。

 落ち着いているふりをして、内心ではひどく焦っている。そんな虚飾は、それこそ哀れであるが、それゆえの慈悲で退いたのではない。そもそもの拷問の目的は〈黒い氷〉の情報を聞き出すこと。視力を奪うのは早とちりではないかと悟ったのだ。前のめりになっていた記録係からしたら興醒めであるが。

 ヘリオトは身体を起こして咳払いをした。

「いいわ、教えてあげる。確かにあの氷は痛みを感じなくなるけれど、痛みをなくしているわけじゃないの」

「はあ」

「わたしが肩代わりしているのよ。あれは単なる管に過ぎない。所持者のあらゆる痛みが氷を通してわたしに伝わるの」

「となると、エレトが受けた拷問を間接的に耐えたことになりますね。それに、ニオさんが殺めてしまった人の痛みも……断頭と同等の苦痛を味わったのですか?」

「――待って。エレトを知っているの?」

「貴方を告発したのは彼女ですよ」

 ほんの少し、表情が崩れない程度にヘリオトは目を見開いた。

「あの子は、どこにいるの?」

「牢屋にいますよ」

「無事、なの?」

「どうでしょう。もう、かもしれません」

 ヘリオトは黙り込んでしまった。

 アンリが訝しげに眉をよせると、魔女は不意に肩を掴んできた。

「会わせて」

「……本気ですか?」

「これは貸し、わたしの瞳と交換よ」

 代償の大き過ぎる不釣り合いな提案であった。アンリはたじろいで一歩下がった。室内の松明では凌げぬ寒さからか、肌が粟立ち、溜まった唾を飲んだ。

 もしもこの時、ヘリオトのある変化に気付けていれば、この先の未来に幾ばくかの希望が芽生えたのかもしれないが、動揺したアンリの注意力は散漫であった。エレトとの面会を二つ返事で許可してしまったのだ。

 ふたりは拷問室を後にした。先ほど濡れていると文句を言ってきた看守にエレトの牢まで案内してもらう。かつての無痛の魔女は、衰弱し、身体中が腫れ上がり、ひゅうひゅうと呼吸をするだけの屍に成り果てていた。

 糞尿と藁に横たわる少女にアンリは顔を顰めた。

「まあ、そうなりますよね」

 心なしか、エレトの呼吸がなくなっていった。立ち尽くしていたヘリオトが、そっと鉄格子を握って項垂れた。暗くて表情は窺えない。

「……ごめんね」

 涙を堪えているのか声が震えていた。

「わたしが、しっかりしていれば、こんなことには……」

 ヘリオトは膝をついた。

「……ごめん、なさい……」

 ヘリオトは静かになった。

隣で眺めていたアンリのもとに、野次馬のごとく他の看守もやってきた。彼らは言葉なく事情を問うたが、アンリは頸を捻るしかできなかった。

 とはいえ、ひとまず願いを叶えたのだから、拷問室に連れ帰らねば。

「さあ、もういいでしょう」

 言ってもヘリオトは無視したのでアンリはしゃがんだ。聞いてますか、と尋ねても、反応はなかった。もう一度尋ねようとして、やっと異変に気がついた。

 次に意識したのは、破裂音と、遠ざかるヘリオトだった。

「え……」

 遅れてやってきたのは胸部の鋭い痛み。目を遣ると、黒い氷柱が刺さっていた。たちまち口内に鉄の味が広がっていく。再び視線を前方に移すと、看守が斃れていた。あとのふたりも宙に浮いて……いや、壁に氷柱で磔にされていた。

 何が起こったのか。欠片も解せずに、アンリの視界はぼやけていき、暗転した。

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