第3話
その夜、〈鉄槌隊〉はヨハンス老夫妻の宿屋で祝杯を挙げた。たった一日で二十人に迫る数の魔女を捕らえたのは、発足当時の黄金期以来の快挙だったからだ。資金面の苦しさが燻ったままとはいえ、〈祭典〉への道のりに潤滑油が塗られた手前、隊員たちへの労いも含めて今夜ばかりは無礼講ということでニオもスタンも許したのだ。
明日を憂うのは命あってこそ、そんな心持ちで酒場は溢れていた。どんちゃん騒ぎでブルゴブルクさながらの賑やかさであったが、いずれにしろ、ヨハンス老夫妻にとっては願ったり叶ったりだった。昔日の繁栄を垣間見て、かつ儲かって、あわよくば庇護下に置かれるかもしれなくて……。人手不足ゆえ手配した近所の孤児や友人がぞくぞくと酒と料理を運んでいる。さて、こやつらへの報酬は気持ちだけで足りるだろうか。
穀潰しではないことを示すべくアンリは厨房に立っていた。山中ゆえ食材は肉や山菜が主であり、とにかく量を要したので味付けにこだわっていられなかったが、ずぼらなそれはむしろ隊員たちに好まれた。酒が進めば、それでいいのだ。
煮炊きのさなか、アンリはニオを探したが、彼はどこにもいなかった。夕刻まではここにいたのに、ふっといなくなってしまったのだ。昼間の私刑のこともある。果たして大事ないだろうか。服を捲し上げた腕で額の汗を拭い、そんな風に心配したが、忙しくなってくると隊長を思う余裕はなくなってしまった。
ある程度料理が行き渡ると暇ができたので、囃し立ててくる酔っ払いどもに苦笑しつつアンリは外に出た。ラーベスクの夜は、宿屋の凄まじい熱気が嘘みたいに涼しくて、息を吸って吐けば体内が浄化されるかのようであった。ひとりでに心地よくなっていると、路端に停めてある馬車を見張る隊員がいたので、恥ずかしくなってしまった。
軒下の框に腰かけてぼんやりと夜空を見上げた。むろん、雲に覆われていて星々が輝いているはずもなかった。アンリは耐え切れず、「あの」と見張りに声をかける。
「ご飯……持ってきましょうか?」
見張りは一瞬こちらを向いたが、返事はなかった。
「わ、わたし代わりますよ。手空いてますし、やったこともありますし。せっかくみなさん楽しんでるのに退屈でしょう」
大勢の魔女を乗せた馬車を見張るのはなるほど欠かせない仕事だ。だが、アンリと違って隊服を着ているのにも拘わらず、特に今夜は無礼講なのに、まるで厄介ごとを押し付けられたかのように孤独でいるのは哀れなものだ。
ならば新参であるアンリがその役を引き受けるのが自然だろう。
「お構いなく」
アンリが立ち上がろうとすると、見張りはそう呟いた。頭巾で顔は見えなかったが、かなり若々しい中性的な声だった。
「ですが……」
「苦ではありませんので。ご心配ありがとうございます」
名も知らぬ相手にアンリは圧倒されてしまった。しぶとく何かを口にしようとしたが、次なる言葉は思いつかず、喉も震えなかった。
再び框に腰をおろしたが、休もうにも休めなかった。厨房に戻りたくても、徐々に余計な罪悪感が芽生えてきてしまい、本日二度目の居場所のなさを覚えた。
「……貴方は、弟に会ったのですか?」
俯きかけていたアンリはハッとした。姿勢も顔の向きもそのままに、不意に見張りが尋ねてきたのだ。
「お、弟さんですか?」
「ブルゴブルクで門番をやっています。隊長が美人を連れてきたと、嬉しそうに教えてくれたのですが」
「び、美人?」
生まれてこのかた言われたことのない表現にアンリは頬を赤らめた。
「そこは個人の感性ですから気にしないでください。それよか弟のことを知っているのですか?」
「はあ、知ってますが……話したことはないですよ」
「そうですか。ならよかったです」
淡々とした口調ながらも見張りは胸をなでおろしていた。少し違和感があった。どうしてですか、とアンリが問う。
「貴方と関わると迷惑こうむるからですよ」
「え……」
「まさか、分かっていないのですか? 本来ならば、女である貴方が入隊するなど、極めて異常なことなのですよ。どうして隊長が、いえ、グレゴリウスさまが許したのか理解できませんが、魔女と疑われても仕方ありません。部を弁えてください」
アンリは唖然とした。
けれども、彼の指摘が差別だとは捉えられなかった。これが普通だ。大衆の共通認識なのだ。女性は男性よりも遥かに劣っていて、下卑であって、欲深くて、搾取されるのみ。ニオという後ろ盾があるから偽りの平穏を享受しているものの、彼がいなくなれば、アンリという女は低俗な田舎娘でしかない。
ずっと、本当は分かっていたのに、目を逸らしていたのだ。
「入隊儀式の時、わたしはね、隊長を殺してやりたかったんですよ。あの人は暴君だ。上古への敬いがこれっぽっちもない」
見張りの愚痴、もとい吐露は終わらない。
「ご存じですか? 何故あんなにも不安定な人が隊長に就任したのか」
「……いえ」
「本物の魔女を狩った栄誉、ですよ」
「ええっ!」
アンリはつい声を出して驚いてしまった。見張りは鬱陶しそうに睨んでいる。本物の魔女だって? ニオさんが? 審問官さまじゃなくて?
「まあ、副隊長さまの受け売りですけどね。にしたって胡散臭いですよ、本物も何も我が国は魔女で溢れているのに」
見張りは嘲笑するかのように鼻で笑った。が、どうもアンリは困惑の靄が晴れず、齟齬が生じている現状がもどかしくなり、問い質さずにはいられなかった。
「……すみません、ひとつお聞きしても?」
「なんです」
「審問官さまを見たことありますか?」
非常識な馬鹿げた質問だった。弄ばれているようで、呆れて苛立ったのか、見張りは舌打ちをしたのち溜息をこぼした。
「まったく低俗な……。ええもちろん、あるに決まってます」
「どのようなお姿でしたか?」
「ふざけているのですか? 一介の庶民があの方の御身をご覧になれるとでも?」
「え、ならどうして見たと?」
「瞼を閉じた暗闇に耳を傾けたのです。なんでもかんでも聞くのはやめてください」
アンリは顔をしかめて思案した。
ますますこんがらがった。さも当然のように語っているけど、じゃあどうしてわたしはまみえたのか。そもそも、あれは審問官さまだったのか。〈魔女の宿痾〉……もしかして、あれが本物の魔女?
グレゴリウスは魔女である。視野の狭いアンリにはこれが限界だった。真実を追い求めるほどに雁字搦めになってしまうのだ。
「無痛の魔女。あれは――」
「話し過ぎました。ああ、お目当ての方がいらっしゃいましたよ」
ぞんざいに話を遮った見張りはつんと黙ってしまった。
そして、彼と入れ替わるようにニオが角を曲がってこちらにやって来た。昼間に付着した血痕を除けば、彼の身なりに別段変わりはなかった。
「探しましたよ、どこに行っていたのですか」
アンリが尋ねると、それに答えるよりも先にニオは隣に腰をおろした。見張りの若者のことは興味の外にあるらしい。
「ちょっとな。待っててくれたのか?」
「突然いなくなるんですもの」
「そうか。ありがとうな」
アンリは妙にこそばゆかった。やけに素直だなと思ったが、ついさっき見張りが口にした不安定な人という蔑称が的を射ている気がして、複雑な心境になった。待ってはいたが何かをするつもりはなかったので、会話は途切れてしまった。
ちらちらと、ほとんど無意識にニオの横顔や褪せ焦げた瞳を窺う。鼻筋が綺麗だ。無精髭のせいで老けて見えていたが、案外顔の輪郭は丸くて幼さがある。あとは伸びた髪さえ整えれば、きっと、もっとよくなるのに。
妄想に耽りそうになった矢先、ニオと目が合った。
「なんだじろじろと」
「あ……ごめんなさい……」
またしても恥ずかしくなってアンリは顔を伏せた。身体じゅうが宿屋とさほど変わらぬ熱気を帯びているのが嫌でも知れた。夜風では冷めそうになかった。
やっぱり厨房へ戻ろう、そう思った時である。
「なあ、アンリ。これでよかったんだよな」
「よかった、とは?」
ひと呼吸置いてからニオは独白するように述べる。
「今回捕らえた魔女は、どうして魔女として捕まったんだ? 誰がどんな罪を犯したんだ? 俺はまだ彼らの事情を把握していない。だのに、〈祭典〉のため、ただそれだけのために投獄しようとしている」
「はあ、迷っているのですか? らしくないですよ」
「肝心の目的は達成されていないのにも拘わらず、みな満足している。寝て起きれば口を揃えて言うはずだ。豊作なのにまだ求めるのか、って」
「いくらなんでもありえませんよ。というか失礼ですよ。みんな大切な兄弟だって、誇ってたじゃないですか」
「……兄弟。兄弟か。そうだな、そうだといいな」
ニオは明らかに精神が弱くなっていた。突発的な事態であるが、この女々しさの根底にあるものに、心当たりのないアンリではなかった。
「殺めてしまったあの人を、ちゃんと埋葬したんですよね」
「……ああ」
ニオは項垂れるように頷いた。仔細は口にしなかった。すぐそこの荷台で血縁者が生きているゆえ、さらりと告げてしまうのは、この上ない苦痛だったのだ。
「だったら、もういいじゃないですか」
ニオの心境をうっすらと察したアンリは話題を替える。
「お腹、空いてますよね? いっぱい食べればくだらないって忘れますよ」
「くだらない、か。確かにその通りかもな」
「そうですとも。凛としていましょうよ。正しいのはわたしたちなんですから」
アンリはにっと無邪気に笑ってみせた。
凛としていろ――かつて彼女に強要したそれを、よもや美化して励ましに使われるとは想定外の展開であった。前向きな姿勢には斯くありたいと憧れる反面、無垢を汚してしまった自責の念にも駆られたニオは視線を逸らした。
アンリの表情が曇った。しかし、やにわにふたりのもとに招かれざる客がやってきて、鬱々たる雰囲気を壊してしまうのだった。
「おや、おいおい、貴方たち。ふぅむ、しんみりとしてますねぇ! ケッ、つまらない野郎なんだなぁ隊長は!」
アンリもニオも同時に背後を振り返った。そこにいたのは酩酊したマーシュンであった。いったい何杯飲んだのか、ただでさえ大きな腹が破裂しそうなくらい膨れていて、顔も真っ赤で茹でたみたいで、目の焦点も定まっていない。
「えっ魔女?」
アンリの呟きは聞こえていなかった。聞こえていたのなら、怒り狂っただろうに。
膝を曲げたマーシュンは両の腕でふたりの肩を抱いた。酒臭く、汗だくで、熱のこもった彼の身体が押し付けられる。
「隊長、真面目ぶっても駄目ですよ。蕩けるのが素晴らしいんです!」
「分かったから離れてくれ」
「嘘おっしゃい! くたばれ痴れ者め!」
対話は成り立ちそうになかった。ニオは思い悩んだのち、かなり力を入れてマーシュンの胸元を肘で打った。おぐぅふ、と情けない声を出して巨体は後ろに倒れたが、「痛いじゃないですか!」と平気そうだった。
「鬱憤が溜まっているのなら、ほら、存分に発散してこい」
言って、ニオは札付きの鍵を投げ渡した。無学なアンリはきょとんとしていたが、それを受け取ったマーシュンは黄ばんだ歯を露わにして立ち上がった。
「坂を下って左手側だ」
「有り難いなぁ! やっとですかぁ!」
ニオが指差した方向にマーシュンは走っていった。さらには興奮気味に甲高い奇声を発して飛び跳ねており、奇行にも走っていた。
片頬を引き攣らせて眺めていたアンリがふと尋ねる。
「あれ、なんですか?」
「娼館の鍵。女あてがったんだよ」
〝恭順で瑞々しい女を抱かせてやる〟それが、アンリに拷問を教える際に交わした約束の内容であった。お堅いマーシュンの情欲は淫魔に勝とも劣らず、信仰の殻に封じていても常として蠢いている。だから気兼ねなく解放できる機会を与えてやったのだ。
「は、はしたない! まさかそれの予約で遅くなったんですか?」
「否定はしない」
「心配して損したかも!」
ぼやいたアンリは勢いに任せて厨房に戻っていってしまった。
果たしてそんなに不味かったかとニオは頸を捻ったが、腹の虫が鳴いたので、考えあぐねて不安が滞るのがくだらなく思えた。欺瞞だらけの平和でも、他に居場所があるはずもなく、ましてや生きていられるのなら、それでいいじゃないか。
そうだ、それでいいんだ。
すっきりとした心持ちで、ニオは兄弟たちとともに夜に溶けていった。飲んで、歌って、騒いで、食べて、まっさらになって酔いしれて、幸せに溺れていった。それはまさしく夢見心地であった。
惨殺されたマーシュンを、その瞳に映すまでは、ずっとそうだった。
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