第二章 亀裂
第1話
山間の街ラーベスクは、ブルゴブルクの東に広がる丘陵地帯を越えた先にある。彩色の薄れたなだらかな山肌にひっそりと建てられたこの街は、古くは王の療養地であり、辺鄙ながらも活気にあふれた場所であったが、その繁栄は廃れて久しい。
ラーベスクの栄枯盛衰に拍車をかけたのは魔女狩りだ。遠方へ働きに出た住人が不幸にも異端の烙印を押されて不帰になったり、火刑のために森林が伐採されたりと、猖獗を極めた時代に荒波に飲まれてしまったのだ。
かつて王が愛した地ゆえ、そこに潜んでいた魔女はとりわけ厳しく罰せられ、もっとも穢れた神敵として冒涜的叛逆者と称された。これを裁いてこそ、上古の槌というもの。ヤーケンチカール各地の〈鉄槌隊〉は、ここが管轄内にあるブルゴブルクを羨んだが、果たしてそれが恵まれた幸せであるかどうかは、これから先の未来と対峙すれば自ずと分かってくることだった。
ニオを筆頭に総勢十二名の分隊がラーベスクに到着したのは、魔女エレトの拷問の翌々日の朝である。本当はすぐにでも出発したい心持ちであったが、此度の遠征では隊長のみならず副隊長も不在になってしまう手前、留守を任せる隊員を慎重に選ぶ必要があったのだ。大前提としてスタンの説得もしなければならず、あれよこれよと準備しているうちに、日が暮れてしまったのである。
また、ニオはなんとなしに不吉な予感がしていた。そしてそれは、実際にラーベスクに赴いてみて、虫の知らせだったのだと悟った。
「閑散としてますね」
ニオの腹に手を回して馬に跨るアンリが呟く。革鎧に着替えていたが、彼女に乗馬を教える時間はなかった。
「早いからか? にしたって人っ子ひとりいないとは……」
並列するスタンが周囲を見渡しながらに訝しむ。アンリの件はまだ納得しきれていない彼であるが、公私混同はしっかりしているらしく、ここまでの道のりで苦言を呈すような真似はしなかった。現に、彼女の独り言に反応している。
「副隊長。前に来た時もこうだったのか?」
「うらぶれてはいたが住民はいた。半年も前のことだが、みな死んだのか?」
「それなら御の字だな」
門戸を閉ざしたラーベスクの家々は四角い窓に暗闇があるばかりである。円形の広場に出てみても、商いの天幕はあれども商人はおらず、閑古鳥が鳴いていた。肌寒い風が吹いては落ち葉をどこかへ運んでいく。広場の噴水の底には灰が沈殿していた。
街ごと捨てられた。その可能性は充分にありえたが、骨折り損のくたびれ儲けであろうとなかろうと、目的はラーベスクの安否確認ではなく協力者ヘリオトの捜索なので、ひとまずニオは命令を下した。
「各員、小隊に分かれて魔女を探せ。壁を蹴破ってでも見つけ出すんだ。俺は町長を訪ねてみる、何かあればこちらに来てくれ。以上!」
返事はなかったが、それが〈鉄槌隊〉の習わしである。これを知らぬアンリだけが声を上げていた。して、一斉に頭巾を被った隊員たちは三々五々に散っていった。
広場には輸送用の馬車と第一小隊――ニオとアンリとイシュハイムが残った。
「よお嬢ちゃん、息災そうじゃあねぇか。聞いたぜ、なんとかっつう魔女をとんでもねぇ方法で仕留めちまったんだろ?」
紅一点との久方ぶりの見交わしに、イシュハイムは強面を綻ばせていた。
「いえいえ、マーシュンさんのおかげですよ。わたしはただ、教えて頂いたことを応用したのです」
「ははっ。利用されて成果をあげられちゃあ、あいつも取り付く島がねぇってもんだ。やけ酒に溺れるのも頷ける。こりゃあ期待の新人ですねぇ隊長」
「あいつまた酒をやったのか」
思い返せば、今朝からマーシュンは心ここに非ずだった。てっきりアンリに出し抜かれたことを引き摺っているのかと思っていたが、酔いが醒めていないだけだったのか。さて、どうしてくれようか。約束を反故にしてやるか。
「にしても、嬢ちゃんの鎧ぶかぶかじゃねぇか。もっといいのなかったんですか?」
「無茶言うな」
寸法を一から図って装備を拵える時間はなかったゆえ、アンリが着ている革鎧はあの若き門番から借りたものである。体格的に彼が一番近しかったのだ。それでも、留め具をきつく締めてやっと密着するする程度に大きくて、何より男性用なので胸の辺りが圧迫されてしまっていた。
それと、アンリを除いた全員は革鎧ではなく鎖帷子と黒無地のサーコートを腰のベルトで留めている。これがいわゆる〈鉄槌隊〉の正装なのだが、当人から申し出がなかったので用意しなかった。それよかむしろ、彼女は長頭巾に重きを置いているらしく、被っては脱いでを繰り返しては、手で癖毛を後ろへ梳いていた。
それを見てか、「おっといけねぇ」とイシュハイムも頭巾を被った。
「ニオさん、ニオさん。聞きそびれたことがあるのですが」
「なんだ? ……ふっ」
「今笑いました?」
「笑ってない」
上手い具合に頭巾の尖った部分に癖を納めたアンリは満足そうであったが、服に着せられていて、子供が面をつけているみたいで、世辞にも似合っていなかった。イシュハイムがそっぽ向いて俯いているのは、そういうことなのだろう。
「あの魔女がヘリオトって言った際にマーシュンさんが慌ててましたけど、その、無知は承知なのですが、そんなに大ごとなんですか?」
「知らないのか。きみは敬虔なんだな」
「はあ、ありがとうございます?」
「ヘリオトロープは異端の祖だ。魔女たちの信仰対象でもある。俺たちが上古を神とするように、奴らも奴らで神を持っているんだ」
「そうなのですね。でも、くだらないですね、神は上古しかいません。そのヘリオトロープとやらは邪神では?」
「あ、ああ、そうだな。なんであれ、問題はヘリオトがヘリオトロープなのかだ。エレトの件があるんだ。よもや幻想を否定できまいて」
ですね、とアンリは頷いた。
緩やかな勾配の目抜き通りに差し掛かったところで、黙ってふたりの会話を聞いていたイシュハイムが、そういえばと口火を切る。
「いるいないはともかくとして、町長んとこ行くつったって何をするんです? まさかなんの捻りもなしにヘリオトはどこだって言いませんよね?」
「町長の家なんぞ知るか」
「は?」
イシュハイムが大げさに驚いた。では、どこへ向かっているのかと、至極真っ当な質問をアンリが投げかける。
「ヨハンス老夫妻。エレトを告発した彼らに用があるんだ。会って確かめたいことがあってな。金も渡さねばならん」
ニオはサーコートの内側から布袋を取り出した。じゃらりと貨幣の音がした。
「ついでにエレトの遺産も回収しなければな。スタンの野郎、忘れてきやがったんだ。財政難なのに温情をかけやがって」
ぼやきつつもニオは小袋をしまった。しっかりと謝礼を用意するのは矛盾している気もしたが、アンリは指摘しないことにした。
「なんか……ニオさん、副隊長さんにだけ当たり強くないですか?」
「昔っからあんなもんだよ」
「昔ですか。イシュハイムさんはいつから〈鉄槌隊〉に?」
「おう、それをここで聞くかい。……ううん覚えてねぇなあ。俺ぁもともと猟師をしてたんだが、両親がおっちんじまってからは放浪の身でな。のらりくらりしていたら、いつの間にか魔女狩りが苛烈になっちまって、飯ぃ食えるんならってんで……けっ、そんなもんだ。嬢ちゃんほど立派じゃあねぇよ」
イシュハイムはばつが悪そうに腰にぶら下げたクロスボウを撫でた。今しがた自分で語ったように、彼の得物は剣よりもこれで、ある種のよすがなのだ。
「ご立派ですよ。ニオさんもそう思いますよね?」
「言わせるな。あのな、お前らそんな歯の浮くような話は俺がいない時にしてくれ」
「照れてるんですか?」
「そうじゃない。ほら、もう着くぞ」
言って、ニオは角を右折した。
段々状に建てられた木造住宅の群れ、娼館、それらは大抵が平屋であるが、一棟だけ二階建てのものがあった。ヨハンス老夫妻が営む宿屋である。
やはり人の気配はなかったが、下馬した一行は構わず敷居を跨いでいった。一階部分の酒場は薄暗い。しかしながら、全席空席なれども存外に埃臭くなくて、朝ということもあってか開店前のような雰囲気だった。
「なんだよ、普通にやってそうじゃねぇか。寝てんじゃねぇのか?」
「客がいないのが妙だが、そもそも利用されていないのか」
「そういうわけでもなさそうですよ」
ニオの傍らにいたアンリが円卓に掘られた窪みを指差した。
「微かにですが、蕪の……スープでしょうか? 分かりませんが、香ばしい匂いが染み付いています」
どれどれと、イシュハイムは頭巾を脱いで窪みに鼻を近づけた。のみならず、手を押しつけてもみて、吟味するかのように唸った。
「柔いな。こりゃ昨晩のか」
「やっぱり寝てるんじゃないんでしょうか」
「上ぇ行きますか?」
イシュハイムがそう提案したが、すでにニオは階段の側に佇んでいた。頤に手を当てて、突起した釘に引っ掛けられていた箒に眉をひそめている。
「どうかしたのですか?」
「これは何の素材を使っているんだ? 竹でも草でもない。毛か?」
手箒にしてはやや大きく、通常の箒としては持ち手が短くて扱いにくい。おまけにニオが指摘したように、掃く部分が毛のようで、しかも亜麻色で……
その時である。
「どちらさまだい……」
しわがれた声がして、三人は一斉に顔を上げた。
階段を軋ませておりてくる音がする。まもなく現れたのは、顔の肉が垂れてしまって眠たそうな表情の、鼻に赤く腫れた面皰のある老人だった。
「なんだ。その格好、魔女狩りさまじゃないか。ああこりゃ、いけない、ようこそいらっしゃいました」
足腰が悪いのか、老人がおりてくる速度はひどく遅く、おまけに手すりがないので片足を段差につけては腰を曲げて背面を晒し、這うような体勢になっている。すかさずアンリが助けに入ると、こくりこくりと頸を縦に振って礼を述べていた。
「はは、いやはや、ようやっとですな」
「ヨハンスさんですか」
ニオは頭巾を脱いで尋ねた。
「ええ、そうです。貴方は……随分変わりましたな、もっとがたいがよかったかと」
「人違いですよ。わたしはニオ、〈鉄槌隊〉の隊長です。そちらはアンリで、この男はイシュハイムと言います」
「ああ、そうでしたか。それはすみません。どうも目がよく効かないものでしてね」
「そうなのですか。こちらこそ、慮れず申しわけございません」
ニオは深々と頭を下げた。似つかわしくないへりくだった態度に、イシュハイムは思わず苦笑いしてしまった。
「時に、隊長さまが直々にいらしたということは、そういうことですな?」
「はい。ここに」
ニオは礼金が入った布袋をヨハンスに見せた。すると、待ってましたと言わんばかりに老爺は、おおっ、と胸をなでおろした。
ヨハンスがそれを受け取ろうと手を伸ばす。が、「ただし」とニオが遮った。
「ふたつほど条件があります」
「と、言いますと?」
「魔女エレトに関する情報を提供して頂きたいのです。貴方が彼女を引き取って、罪を暴くに至るまでを詳らかに語ってくだされば、これはお渡ししましょう」
わざとらしく謎の箒を撫でて続ける。
「魔女の遺産を我々が補完するのはご存じですね? これに狂いがあってはなりません。何故なら魔女の遺産は異端の種だからです。お恥ずかしいことに、先方の不手際で回収し忘れてしまったのですが、それも含めてどうかご協力を」
話と違うじゃないか、そう非難しかけたヨハンスは、しかし口を噤んだ。
騒がしさに起こされたのか、結えた白髪を肩にかけた老婆がおりてきた。ヨハンスの妻のベーガーだ。夫が〈鉄槌隊〉に囲まれている光景に絶句し、あたしらは無実ですと訴えてきたので、アンリが頭巾を脱いで事情を説明した。
ベーガー夫人のことは彼女に任せ、ニオはいまだ沈黙を破らないヨハンスに箒を握らせた。
「どうしたのです。嫌なのですか? それとも何か後ろめたいことが?」
「そうではねぇのですが……」
「ご安心ください。エレトはもはや生きた屍です。度重なる拷問の末の自白でしたので、焼かれて死ぬまで動くこともままなりません。たとえ貴方を恨んでいようとも、悪魔にすら見放された魔女がどうして危害を加えましょうか」
「しかしですな、隊長さん。あれはただの穀潰しでございますゆえ、たいしたものは残っていないのです」
「構いません、魔女が触れたものであれば。金品でなくとも」
物腰柔らかに、かつ泰然に、さも弄ぶかのようにニオは寛容たる風呂敷を広げた。エレトが無一文かは重要ではない。これは譲歩であり誘導だ。遺産がないだって? 嘘吐きめ、そこにあるじゃないか。
ヨハンスは尻込みして俯いてしまった。そんな夫の姿に苛立ったベーガーが、濁った声で叫ぶ。
「お前さん、さっさと渡しちまいなよ。なんだってぐずぐずしてるんだい!」
「ご婦人はご協力してくださるのですね」
「当然だよ。その薄汚い箒はねぇ、あの醜女が自分の毛で拵えものなんだよ。捨てちまえってあたしゃ言ったのに、大事そうに離さなくてねぇ!」
「だ、だってお前、これはあの子の形見なんだぞ。そ、それに、本当に俺を殺そうとしたか分かってないじゃないか」
「やめな! 死にたいのかい!」
ニオはやにわに眉根をよせた。形見だと?
「まあまあ奥さん。ここは一旦保留にしましょうや」
イシュハイムが老夫婦の間に入り、場を鎮めんと努めた。ヨハンスの発言について問い詰めようとしていたニオは期を逃してしまった。
「俺たちが来たのは遺産がすべてじゃねぇ。他にも聞きてぇことがあんだ。あとな、朝っぱらから夫婦喧嘩ってのはむかむかするぜ」
彼の指摘に反論する者はいなかった。
一同は椅子に座って円卓を囲んだ。偶然にもあの窪みのある席だった。仲介役を買って出たイシュハイムが左右に老人を添えて、居丈高に腕を組んでいる。
「なあ爺さんよう。この街は一体どうなっちまったんだ? 流行り病にやられちまったみてぇにがらんどうじゃあねぇか。へん、ここまで結構な道のりだったんだが、誰も見かけなかったぞ。それともなんだ? みんな死んじまったんか?」
「とんでもない。生きていますよ。数は少なくなりましたがな」
「そりゃ結構。魔女の巣窟になってたってわけだ」
「昔はね、もっと栄えていたんですがな。しかし魔女相手に接客していたとは、なんとも度し難いですなぁ……。おかげさまでこの有様ですわ。ええ、ええ、ですから、貴方がたには感謝していますとも」
ヨハンスの淀みない言葉にベーガーも頷いた。ニオとアンリは黙って聞いている。
「へえ、生きてんのか。なら寝てんのか?」
「ここらはみな年寄りばかりですからな。きっとそうでしょう。ああでも、下はどうなってるんでしょうな」
下、とは山の標高を基準にラーベスクを上層、中層、下層と分けた際に下層に当たる区域のことである。下層には商業施設が密集しており、人口がもっとも多かったが、ここに来るまでに見てきたように、在りし日は遠く、寂れていた。
イシュハイムの問いには答えかねた。というのも、彼ら夫妻の宿屋は上層に建てられているため、下層におりるのは老体に鞭打つのと同義なのだ。それに、そうしなければならなくなったら、駄賃を餌に遣いを頼んでしまった方が賢明と言えよう。
「へえ、ここらにはいるのかい。となりゃあ好都合ですなぁ、隊長」
イシュハイムは斜向かいのニオを見たが、しかし彼は何か思い悩むように頬杖をついてぼんやりとしていた。アンリが肩を叩こうとするも、やめてしまった。
そんなアンリが、今度はヨハンスに尋ねる。
「どんな些細なことでもいいですから、変わったことってありませんか? この街をよく知りませんけど、〈鉄槌隊〉が来たのに誰も出迎えないなんておかしいです」
「はは、そりゃ無理ってもんだぜ嬢ちゃん。これから行きますだなんて教えちゃあ、魔女狩りなんてできっこないだろう」
「それはそうですけど、でも……」
正論に負かされてアンリは二の句が継げなかった。
「まあ、出迎えがねぇのはいいんだが、誰もいねぇってのはやっぱり納得いかん。嬢ちゃんの面子を保つわけとは違うがよ、ちっとは心当たりがないもんかね。どんな片言隻語でもいいぜ、それこそ噂でも大歓迎だ」
「ふぅむ、噂ですか。しかしですなぁ、いかんせんわたしたちはここを離れませんので、下のことはさっぱりなんです」
「本当に?」
イシュハイムは身体の向きを変えて眼光鋭くヨハンスを睨んだ。強面のそれに老爺は慄いて視線を彷徨わせたが、辛うじて頷いた。
ところが、二秒と経たずに、「そうだ!」と声を荒げたのだった。
「随分前のことですが、おかしな旅人がやってきたのを思い出しました。もしかしたらそいつが何かを唆したのかもしれません。な、なあ?」
助け舟を出してくれと乞うように、ヨハンスはイシュハイム越しにベーガーに顔を覗かせて話の手綱を託した。反射的にイシュハイムも老婆の方に頸を回した。
「あんた何言ってるんだい、まるで他人事じゃないか」
「ああ? どういうことだそりゃあ」
「聞いておくれよ魔女狩りさん。この男はね、しらを切る気なんだよ。そいつの言う旅人ってのはおそろしい魔女さ。あたしゃこの目で見たんだ。魔女狩りは悪だって、正しいのはわたしだって説法しているのをね!」
「おいおい、とんでもねぇな。知ってるのはそれだけか?」
「いいや、まだあるよ。あたしゃあの老いぼれと違って歩けるからね、余所者に感化された馬鹿どもに喝を入れてやろうとしたのさ。そしたらねぇ、揃いも揃ってやれ浅知恵だのひょうろく玉だの貶してきたんだ。みんなすっかり堕ちちまったんだよ! たかが石ごときに惑わされちゃってさ!」
「石だって?」
イシュハイムは合点がいったように目を丸くする。実際に現場にいなかったとはいえ、件の拷問のあらましは出発前に耳にした。とりわけ無痛の魔女の根源は信じがたきものであったが、それが真実だったのならば、ベーガーの証言は無視できるものではない。
しかし結果として彼の疑問はニオが代弁することとなった。
「その石は、黒色の氷ではありませんでしたか?」
「氷? どうだかねぇ。ああでも、黒かったね、黒曜石みたいだったよ」
「名は?」
「ヘリオト、だったかね」
ニオはイシュハイムではなくアンリに目配せした。彼女は一瞬ぽかんとしていたが、すぐにハッとして頷いた。
「どうして黙っていたのですか?」
ニオはヨハンスに尋ねる。追い詰められて声が出ないのか、口をぱくぱくさせていた。
代わりにベーガーが呆れたように説明する。
「うちの醜女がその魔女に酔っちまったからね」
「告発理由はそれですか」
「ああもう、なんだっていいじゃないか。それよか知ってることは喋ったよ。さ、その金を渡してもらおうかね」
言い淀み、開き直ったベーガーはふてぶてしく手を差し出した。
虚偽の報告は看過すべきではない。が、瞳を瞑って刹那主義に転んでみれば、ヘリオトの存在の確証と比べれば、毒殺したかどうかなんて些事であろう。
従って、ニオはベーガーに小袋を渡したのだった。
「ほら、あんたもいつまで持ってるんだい」
エレトの髪で作られた箒をヨハンスはずっと抱えるように握っていた。
もうこの時点でニオは魔女の遺産がそれしかないと察しており、だからと言って空手で帰るほどに寛大な心は持ち合わせていなかった。
「こ、これだけはどうか……お願いだ、これはやめてくれ……」
「取り上げろ」
ためらうことなくニオはイシュハイムに命じた。また、彼もためらうことなく強引にヨハンスから箒を奪った。
「ご婦人。その魔女はまだこの街に潜んでいるのでしょうか」
「いるはずだよ。片目に布を巻いた変な女さ」
ベーガーの視線は小袋の中身に注がれていた。がめつく硬貨の一枚いちまいを検めて、皺だらけの頬を緩ませている。夫も夫でしょぼくれて廃人さながらであった。
このくらいか、そう悟ったニオは部下を連れて宿屋を後にした。
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