第7話
夜が更けてもアンリは戻らなかった。
溜りに溜まった四日分の書類、そのほとんどを処理し終えたニオは、うんと背伸びをして背骨を鳴らし、羽根ペンをペン立てに差した。
このまま寝るか、拷問室の様子を窺いに行くか悩んだが、折しも扉が三度叩かれたのでニオは応じた。
「まずいことになってます」
訪ねてきたのは真っ青な顔のマーシュンだった。返り血も脂汗も拭わずに駆けてきたのか、肩で息をしている。
「何があった」
「歩きながら説明します」
冷静沈着なマーシュンが焦っている。ただならぬ事態が起こったと悟ったニオは、座りっぱなしで痺れた臀部をさすりながら隊長室を後にした。
「隊長がいなくなってすぐ彼女は拷問を開始したのです。わたしが教えたように柔らかな物腰で問を投げかけ、哀れむ仕草をしてもいました。どんな言葉をかけていたのかはなにぶん距離があったので聞き取れませんでしたが、至って凡でした」
「それで」
「暇ができたので近寄ってみたのですが、彼女は器具を用いることのない、いわゆる精神的な拷問で魔女に迫っていました」
やはり膂力は足らなかったかと、ニオは呟いた。
「わたしはね、正直心中で軽蔑しましたよ。一介の田舎娘の想像力じゃこれが限界かって。実際、あの魔女も興味なさそうに欠伸してましたから」
「要点を簡潔にまとめろ」
「ああ、すみません。字でも言葉でも詳らかにしたくなるもので。まあ、とにかく彼女の拷問は拷問ですらなかったんですよ。ですがある時、魔女を降ろしてくれないかってわたしに頼んできたのです」
「ほう、降ろしたのか?」
「権限は彼女にありますからね、従いましたよ。で、あの魔女なんですが、地に足をつけた途端に倒れてしまったんです。死んではいませんよ」
「あの足じゃあな」
「そう、痛みを感じないだけなんです。まったく恥ずかしいことですが、木馬に乗せたまま放置していましたから、これに気づきませんでした」
己の盲目さに苛立ったのか、マーシュンは隣で舌打ちした。
「まともに立てない魔女は産まれたての小鹿でした。失敗する度にあの子は――アンリさんは、協力者がどうなってもいいのか、と脅して笑っていました。それからしばらくしてやっと立てたと思いきや、今度は壁と壁を行き来するよう命じたのです」
「面白い発想だな。だがそんな屈辱を魔女は受け容れたのか? 立った時点で違和感があったんだが、あの魔女が言いなりになるのは考えにくい」
「わたしもそう思ったのですが、協力者を出汁にすれば逆らいませんでしたよ。よほど大切名なのでしょうね。まあ、正体は依然として謎ですが」
「ふぅむ。で、それのどこがまずいんだ? 名案じゃないか」
「まあ、そうなんですが……聞こえませんか?」
婉曲に尋ねたマーシュンは黒ずんだ指を唇に当てて口を噤むよう促した。
ニオは訝しげに頸をひねった。が、静寂に包まれた廊下に耳を傾けてみると、かすかに何かが聞こえた気がした。そしてそれは気のせいなどではなく、拷問室に近づくにつれて、くぐもってはいるが大きくなっていき、しまいには獣の咆哮と化した。
地下牢では獄の魔女たちが頭を抱えて蹲っていた。絶叫は止んでいない。三人の看守は突然の出来事に戸惑っており、隊長に助けを求めてきたが、ニオは彼らを掻き分けるように足を速めてまっすぐに進んだ。
「アンリ!」
ためらうことなくニオは扉を押す。
アンリもエレトもがらんどうの部屋の一隅にいた。この日の拷問はすでに終わっているので、彼女らだけがここに残っていた。
「はぐ……えぅ、い、があッ! いッ……いだいッ! いだいッ!」
言わずもがな慟哭の主はエレトであった。這いつくばって痛みを訴え、あるいは身体をくねらせて、血と嘔吐と涙と尿で藁に模様を描いている。
「なんだ……これは……どうなってやがる……」
未曽有のおぞましさにニオは絶句した。喉の奥が詰まりそうだった。蠢くエレトを跨いでアンリがやってきた際には、あろうことか無意識に一歩後退してしまっていた。
「ニオさん! やってやりましたよ。魔女は呪物を隠し持っていたんです! これが痛みを感じない原因です!」
胸を張ってアンリは成果物をニオに渡した。ひんやりと冷たく、黒く、それでいて結晶のように鋭利で透き通った氷であった。
「この氷を舌の裏に隠していたんです。痛みは感じなくとも疲れは溜まるみたいなので、心が折れるまで歩かせてたんですが、ぽろっと落ちてきて、途端にぎゃあぎゃあと喚き出してうるさくて……ニオさん?」
瞬間、アンリに悪寒が走った。
ニオが過剰なほどに焦げた瞳を晒し、半ば放心状態で〈黒い氷〉を凝視していたのだ。やがて彼はそれを握り締めると、のたうつエレトの腹を踏みつけて尋ねた。
「教えろ。協力者は誰だ! 誰がお前にこれを預けた!」
エレトはかぶりを振った。白目を向き、唇の端に泡を浮かべ、声にならない声で呻いる。畜生、くたばってくれるんじゃないぞ。
「言えばお前は殺さない。これも返してやる」
しかしエレトは拒絶する。口から血が流れている、舌を噛むつもりか!
「そいつの名は、ネィリネじゃないのか!」
うんともすんともエレトは答えない。
ニオの焦り、初めて聞く名――。傍観していたアンリとマーシュンは、まったく理解が追いついていないのか、顔を見合わせていた。
「違うのか! じゃあ誰だ、誰がお前の側にいるんだ!」
矢継ぎ早に言うには。
「どうして魔女が生きているんだ!」
エレトの腹から足をどけたニオは彼女の髪を捻るように掴み上げた。憐れにも少女の身体は不規則な痙攣を始めており、絶叫も控えめになりつつあった。
「……へ……お……」
不意にエレトが何かを発した。譫言にも思えたが、いずれにせよ手遅れになる前にと、ニオは彼女の頸に〈黒い氷〉を刺した。
すると、たちまちエレトの痙攣は治まっていき、こんな言葉が零れてきたのだった。
〝へりおと〟
ついに屈してしまったエレトは嗚咽を漏らして滂沱の涙を流した。あらゆる痛みはもう感じていないはずゆえ、純粋が壊れた証なのだろう。
かたやニオは、ひいてはマーシュンも今しがた出た言葉に驚愕を覚えていた。
「ヘリオト、ヘリオトですって?」
「……マーシュン。イシュハイムを叩き起こせ、拷問もやめだ。ラーベスクに発つぞ」
「こんなあからさまな嘘を信じるのですか?」
「お前は俺を信じないのか?」
これにはマーシュンは苦笑いするしかなかった。いつものだ、いつもこの人は無茶ぶりをする。まあ、わたしは約束を守って頂ければそれでよいのですがね。
「いいえ、承知しましたよ。部隊編成をお願いしますね」
「四人一小隊で三部隊だ。ああ、それと、スタンも連れて行こう。この魔女を捕らえたのはあいつだからな」
「何を言っても無駄でしょうから。任せます」
この諦めは、マーシュンなりの信頼でもあった。彼が出て行ったのを見届けたニオは、置いてきぼりにされているアンリを一瞥し、エレトを放した。
「きみも疲れたろう。ゆっくりと寝てくれ」
「あ、はい……」
「お手柄だったな。きっと審問官殿も喜んでくれるさ」
こちらを向かずに、心の籠っていない賛辞を述べたニオも退出していった。
そうしてひとりになったアンリは、あの人の世界にわたしは映っているのだろうかと、不安とも不満とも定め難い感情を抱いた。とはいえ、褒められてこそばゆいのも、また事実だったので、これは希求であることに決めた。
アンリが自室に帰ろうとすると、三人の看守が肩身狭そうに入って来て、拷問器具の片づけを始めた。その一環として、倒れ伏していたエレトも担ぎ上げられていったのだが、彼女とのすれ違いざまにアンリは確かに耳にした。
――ごめんね。
そんな、魔女の最後の嘆きを。
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