第3話
あくる日の昼過ぎ、遠方にブルゴブルクの城壁と南門が見えてきた。
街道沿いには魔女を火刑に処した木が何本も不規則に立ち並んでおり、西から吹き付ける潮風が焦げ屑を彼方へと運んでいった。
積もる灰のかさも一段と増していて、街に近づけば近づくほどに、さながら細雪のごとく地面を覆っていた。空気も煙たく汚れきっており、故郷の澄んだそれに慣れていたからか、アンリは幾度となく目を擦っては濁った咳を繰り返していた。
「大丈夫か」
六度目の咳のさなかにニオが頸を後ろに回した。
「これしき、平気です。ごほ、ごほ、ごほ!」
「魔女は死のうが生きようが害をなす。マーシュンの言う通りだな」
「ええ、ごもっともです。ですが魔女さえいなくなれば、こんなつまらないことに苦しまなくて済むのですよね」
「どうだろうな」
ニオが答えて会話を結ぶ。今さらながらもアンリはショールで口元を隠した。
堀に掛けられた橋梁を渡り、城門の前まで進むと、隊は一時停止した。それに合わせてニオが最前まで出て行き、待っていた若い門番に向かって十字を切った。
「小隊六名帰還した。告発にあった魔女は全員捕らえてある」
「ご苦労様です、隊長。収容の手筈は既に整っておりますので、どうぞこのまま本部までお戻りください」
「いや、俺は審問官殿に用がある。あとはマーシュンによろしく頼む」
「そうですか、畏まりました。審問官様なら礼拝堂かと」
「ああ」
門番との事務的なやりとりを済ましたニオは、後方に待機しているマーシュンに相槌を打った。
「おや、そちらの女性は?」
手綱を握る力を緩めようとした直前に、アンリを見つけた門番が尋ねてきた。
「初めまして。わたしは――」
「またすぐ逢える。紹介はそのときだ」
挨拶をしようとしたアンリの言葉を遮り、ニオは馬を歩かせた。何も意地悪くそうしたわけではない。昨夜マーシュンが危惧したように、ここはもう街なのだから、ともにいる彼女の姿をなるべく住人に記憶されたくなかったのだ。
ブルゴブルクには、〈鉄槌隊〉よりも魔女を糾弾する輩など星の数ほどいる。
それゆえに大通りは避けるべきである。かなりの迂回路になってしまうが、北門付近にある礼拝堂を目指すには、城壁に沿って左回りする必要があった。
「もっと顔を隠すんだ。……アンリ?」
返事がなかったので振り返ると、彼女は街並みの異質さに心を奪われていた。
ひび割れ、敷き詰められた石畳はやはり灰色に染まり、篝火が燃え、ところどころに足跡が窺える。さらに、その傍らには簡易的な火刑がいくつか放置されており、薪束に支えられた太木に三人から四人の異端者が縛り付けられ絶命している。
うねるように連なる焼き煉瓦造りの建物群はぬかりなく門戸を閉ざしていて、家々を繋ぐように干された洗濯物が侘しく微かに揺れていた。いつしか舗装されていない路地から野犬がふらふらと現れたが、吠えることなく別の路地へと去っていった。
片手で収まるほどではあるが、すれ違う人はいた。しかし誰もが俯いていて、巡礼の旅に憔悴した信徒のようであり、俗世の救いたる部隊の長に平伏する者などいなかった。アンリは彼らを目で追ったが、そのうちのひとりが跛行していたのを知ると、居た堪れない気持ちになって舌を噛んだ。
ブルゴブルクでこの地区はとりわけ暗澹とした窟である。ゆえに信仰の廃れ具合も深刻で、北端から扇状に広がる教会の権力が届きにくく、異端者も生まれやすい。
「あれは?」
ショールを巻き直したアンリが興味を示した先、それは宿屋の軒下にぶら下がった鉄の籠である。鳥籠というにはやや大きく、かといって獣用にしては小さい。
「なっ――」
おそらくは影に隠れていて認識し辛かったのだろう。その籠に近づくにつれて、徐々に中身が明らかになっていき、蠅のたかる遺体をアンリは見たのだ。
「私刑の跡だ。この辺りでは珍しくもない」
「し、私刑……。軒下に魔女がいるなんて、考えただけでもぞっとします」
「違うな。魔女の骸があるからこそ、自らが優れていると誇示しているんだ。そういう意味で言うと俺たちは甘いのかもしれない」
「と、言いますと?」
「〈鉄槌隊〉では魔女を焼く時に温情をかけることがある。たとえば拷問の際に潔く自白して、かつ他の魔女の名も吐いたのならば、それは温情をかけるに値する」
「温情とは?」
「燃やす前に殺す。なるたけ即死できるよう、こちらも努めねばならない」
即死とはすなわち断頭である。あまりにも寛容的過ぎる制度であり、慈悲とも捉えられなくもなかった。実際、この説明を聞いたアンリは顰め面になっていた。
そんな彼女の心情を察してか、ニオはこう付け加える。
「しぶとく無実を主張する奴もいるさ。爪を全部剥されようとも、脚が真っ赤に腫れていたとしてもな。その場合には温情はいらない。燃えにくい湿った木を使う」
「はあ、なるほど。確かに先の私刑と比べると、甘い気もします」
「きみはどうだ?」
「え?」
ちょうど南東の望楼下までやってきたところでニオはそう尋ねた。
ここまで来ると往来の不気味さは多少緩和されており、談笑する主婦たちと、その衣服を掴む子供の姿があった。
「きみならどうやって魔女を裁く?」
「ううん、そうですね。二度と産まれてこないようにします」
「ほう。無茶苦茶だが悪くない。詳しく言ってみろ」
「魔女の血筋を絶やすのです。両親、兄妹、親戚、分け隔てなく、みんな裁いてしまえばいいのです。そうすれば、そこから魔女は産まれてきません」
「葉を摘むのではなしに根を掘り起こしてしまうのか。面白い発想だが、種子はそこらじゅうに舞っているぞ。きりがない」
「そうでしょうか」
「魔女はいつもどこにでも潜んでいる。後ろとかにな」
言われて背後に目を遣ると、数歩離れた位置に、しおれた帽子を被った老人がぎょろりと浮き出た瞳でこちらを凝視していた。しかも、徐々に歩を進めてきている。
「なんです、あれは」
「異常者だよ。普遍的には魔女に分類されるが、悪魔に魂を売ってはいない、要するに信仰を忘れた不心得者さ」
「殺しますか?」
「阿呆か、もっとつぶさに観察しろ」
背中の剣の柄に手をかけたアンリをニオは制する。
街路樹の裏、路地、窓から覗く匹夫匹婦……。異常者と称される存在は老人だけではなさそうであった。この地区の住民がぞくぞくと、しかし身をやつして、ニオたちを睨んでいたのだ。刃の綻んだ惨めな凶器を持っている愚者もいた。
「どうします。まさか、放っておくのですか」
「いいや、泳がせておく」
「えっと、それはどういう――わっ!」
アンリが訝しんだのも束の間に、ニオは馬の腹を蹴って疾駆させた。
嘶きが響き、小石が飛ぶ。なだらかな登り坂に人がいても構わず――それらは慌てて避けていったが――薄気味悪い一郭をひたすらに駆けていく。
あまりに唐突。幸いにも落馬を免れたアンリはニオの胴に腕を回し、目を瞑り、全身を襲う振動に耐え続けていた。
「やっぱり放っておくんじゃないですか!」
「無駄だ、あれはもう人ではない。一目で分かっただろう、みんなまともじゃないんだ。いずれ環境が殺してくれるさ。それに、あれはあれで利用価値がある」
「り、利用価値?」
ニオは答えなかった。いや、口はわずかに動いたのだが、アンリの耳には届いていなかった。消え入るような声で、ほとんど吐息同然に、「いけない」と言ったのだ。
まもなく、駛走が功を奏して北東の望楼を通り過ぎた。ここまで来れば教会が権力を滞りなく振える範囲内なので、ニオは腿を絞めて馬を減速させた。
ふと、酒場から芳ばしい肉の香りが漂ってきた。弦楽器の軽快な音楽に合わせて吟遊詩人が歌っており、喧しくも賑やかであった。相も変わらず煙たくて、むせ返るような環境ではあるものの、窮屈さを感じることはなかった。
総じて人々の瞳には光が宿っていた。別世界のような光景だ。感激したのかアンリは大人しくこの一帯を眺めていた。と、そのとき不意に、灰が掃けられた路傍に座り、木板を抱える煤まみれの少年が目に留まり、彼女は馬を停めるよう促した。
ニオの手を借りて馬を降り、少年のもとへ歩いていく。木板には拙い文字で「恵みを」と書かれていた。アンリはショールをほどいて微笑し、膝を折って手を差し伸べる。
「こんにちは。迷っているのなら、どうかわたしに聞かせてください。わたしは上古の槌であり、貴方を導く使命があります」
たちまちニオは歯がゆくなった。とんだ猿芝居であった。少年はきょとんとしていたが、ハッとして、「ずっと何も食べていないのです」と丁寧に答えた。
「お腹が空いているのですね、可哀想に。お父様とお母さまはどうしたのですか」
「いません。ぼくはいつもひとりです」
天涯孤独なのか、それとも死別してしまったのか。定かではないが、少年の境遇を聞いてしまったアンリは驚愕し、親近感を憶え、わなわなと震えた。
「おい、その辺にしとけ」
呆れ交じりにニオは忠告した。けれどもアンリは懸命に少年を哀れんでいたので、彼はばつが悪そうに頬を掻き、日和見することに決めた。
「きっと、これは天啓なのでしょう。貴方とわたしは似ています。ですから、貴方の苦しみはわたしの苦しみでもあります。さあ、これをどうぞ」
アンリは衣嚢からあるだけの硬貨を取り出して、少年に握らせた。それほど多額ではなかったが、ライ麦パン一斤なら買える量だった。
「こんなにも……。ありがとうございます、ありがとうございます……」
「貴方に幸あれ。上古の祝福があらんことを」
満足げにアンリは戻ってきた。その背後では少年が立ち上がって何度も頭を下げていた。……のだが、一定の距離が開いた途端に木板を投げ捨てて、「儲けたぞ」と呟きつつ南の方へ走って行ってしまった。かなりの速度であった。
やはりな、といった風にニオは溜息を零す。
「え、あれっ、これは……? へっ?」
ふたりは傍観していた民衆にくすくすと笑われていた。
何故こうなってしまったのか、これっぽっちも納得いかず、アンリはきょとんとしたままニオを見上げる。
「異常者だよ、あの子供も。綺麗に騙されたな」
「あ、あの子が? 冗談ですよね? だって……ええ?」
「まったく。こんな初歩的な罠にかかってどうする。こっちが恥ずかしい」
これがアンリだけなら滑稽な無知で済んだのかもしれない。だが、〈鉄槌隊〉の隊長が着いておきながら、このような過失を犯したのならば、それはすべからく肥大化し、異常者の溜飲が下る話題になってしまう。
誇り高き魔女狩りさまが、よもや一介の糞餓鬼に詐欺られてしまうとは。
「だったら最初から教えてくださいよ」
「止めはしたぞ。まあ、欠片も疑わないとは思わなかったんだ。純粋と言うべきか、蒙昧と言うべきか」
「素寒貧なのですが」
「金と信仰の価値は一緒なのか?」
「……ありえませんね」
皮肉とも呼ぶべき説教に反駁はなく、アンリは馬に跨った。今もなお野次馬が集まりつつあるため、すぐに出発し、小径に潜り込んで家々の裏手を進んでいく。
これでアンリは住民に記憶されてしまっただろう。彼女を一瞥すると、もはやショールを巻き直そうともせずに、鼻を啜っていた。
失敗だった。こんなことになるのならば、いっそう遠回りになってしまっても、壁外に出て北門から入ってしまえばよかったと、ニオは悔いた。
折しも大聖堂の鐘の音が響き渡った。雄々しき波動は曇天を晴らすかのようだった。
「正午か。そろそろだな」
ニオはひとりごちた。正午を告げるのみならず、礼拝堂は大聖堂の内部にあるので、目的地が近いのを知らせる役目も果たしていた。
「アンリ。ここらで教えておくが、審問官殿――聖グレゴリウスは、お前以上に魔女を恨んでいる。それでいて、この街の最高権力者だ」
「心得てます」
「無礼のないように、なんて改めて言わない。留意すべきはふたつだけだ。ひとつは下手に敬慕したり、阿ったりするのはやめておけ。かえって怒らせてしまう」
「自然体で接すればいいのですね」
「そうだ。魔女への憤りを余すことなく吐露すればいい。品のない言葉遣いは、それが魔女に対するものであるのなら、彼にとっては甘美な蜜になるからな」
「素晴らしいお方です!」
上ずった声でアンリは期待を膨らませた。
会ってから判断しろ、とニオは否定しようとしたが、矢継ぎ早にアンリがふたつ目の留意事項を尋ねてきたので、誤魔化すように咳払いをした。
「もっとも重要なんだが――」
と、ここでニオは口を噤み、留意点を述べることを何故か憚った。
「どうしました?」
「……いや、大丈夫だ。もうひとつは、実際にその瞳で知るべきだな」
「はあ、なんだか複雑そうですね」
「それを知り、きみがどうするのか興味あるだけだ」
「わたしがですか。ぜひとも懺悔でもしてみたいものです」
「懺悔だと?」
ニオはアンリの言い回しに違和感を覚えた。むろん、異端審問官に懺悔すること自体にはなんら問題はない。役職が異なるだけで聖職者なのだから。しかし、この言いぶりではまるで彼女が今まで懺悔したことがないように受け取れるのだ。
「きみは懺悔せずに生きてきたのか?」
「だって、罪を犯してもいないのに、どうして詫びる必要があるのでしょうか」
「なら、いったい何を懺悔するつもりなんだ」
「何もありませんよ」
微妙に会話が噛み合わなかった。
頸を傾げたニオは不意に羨望が芽生えてくるのを感じずにはいられなくなった。
罪科を告白するということは、それこそが小さな罪であり、何もしないでいられるのが真っ当だと彼は信じている。しかしそれは不可能な理想であり、誰もが罪をとともに生きていかなければならない。なのに、アンリは堂々と、己が無罪であると言ってのけた。
罪を知らず生きてきた。それだけで、堪らなく羨ましいのだ。
「ふん、おかしな奴だ」
ほとんど強がりであったが、小馬鹿にしつつ手綱を握り直した。かつて彼女に斬られたところが痛んだが、嫉妬に呑まれて和らいでしまった。
そんなニオの攪拌された心境はそのままに、大聖堂前の往来に出た。
右手側に聳える荘厳な石造りの建築物は、ブルゴブルクを俯瞰するように双塔を伸ばしていて、聖堂全体を支えるべく、飛び梁が等間隔に並んでいる。また、放射状に広がる正面のバラ窓、その四方に国花であるダイヤモンドリリーの装飾が施されていた。
「すごい……」
感嘆の声をアンリが漏らす。
「アルコーディ大聖堂――教会の権威の象徴。この街の住人は明朝と薄暮にこれに向かって祈るが、まあ、そんなしきたりはどうだっていい」
「どうだっていいとは不敬ですね」
「グレゴリウス殿は日がな一日、礼拝堂に籠って祈祷している。書面上では〈鉄槌隊〉の管理者は彼なんだがな。都合のいい職務放棄だ。これも不敬か?」
「ご冗談を。祈りを捧げることが不敬なものですか。……ああでも、魔女を狩るのは天命であって……そもそも、責務を全うしないのは人として……」
「悩むなら忘れておけ」
しどろもどろになった手前、ぴしゃりと言われてアンリは黙った。
やがて聖堂の敷地内に入った。数十人もの参拝者たちの横を通り、尖頭アーチ状の扉前までやってくると、ニオは腿を占めて馬を停めさせた。
神聖不可侵なるこの場所で、四日間の遠征の末に染みついた臭いをまとうふたりは、冷たい視線を浴びるように思われたが、そんなことはなく、むしろ会釈されていた。それもそのはずだ。この地区の人々はすべからく魔女を憎んでおり、敬虔で、〈鉄槌隊〉に絶対の信頼を寄せているのだから。
ゆえに彼らは尊ぶだろう。魔女の腐れをもろともしない、その勇姿を。
例によってアンリの下馬を手伝った直後、彼女はよろめいて、自分でも不思議そうに尻もちをついた。
「しっかりしてくれよ」
「すみません。どうもここは……空気がひどくて」
言って、彼女は咳込んだ。
かの暗澹たる窟から遠ざかったとはいえ、ブルゴブルクの各所では反魔女の思想が渦巻いている。従って、私刑や火刑の跡は、どこでも様々な形で残っており、結果として泥のような空気が蔓延してしまった。
皮肉なことだ。魔女を裁くがゆえに街は汚染し、それを率先している教会のみが綺麗なままであるのは。
「きみの故郷は澄んでいたな」
「でもそれだけです。それ以外は何もありませんから」
「戻りたいか?」
「今更やめてください」
アンリが顔を伏せた拍子に青の耳飾りが揺れて頸筋に触れた。愚問を投げた自らに忸怩たる思いを抱いたニオは、「すまなかった」と呟いて、聖堂の扉を押した。
軋みを響かせて、鉄製の扉はおもむろに開かれる。途端に冷たい静けさが、吹き付けるかのようにふたりを包んだ。仄暗い堂内に灯る燭台の火。大理石のあしらわれた床には、身廊へ延びるカーペットが、長椅子の合間を貫くように敷かれている。
穹窿を支えるいくつもの柱は、そのすべてがダイヤモンドリリーの彫刻に囲まれていて、さながら蔦が絡まっているかのようであった。また、最奥のステンドグラスにもこの花は描かれていたので、国花というよりは、聖遺物にも相応しき扱いであるのが窺えた。
主祭壇へ向かわず、ニオは南翼廊を目指した。しかし、アンリが着いてこずに出入り口付近で心奪われていたので、溜息交じりに腕を組んだ。
声をかけることはできなかった。ここでは沈黙のきまりがあるのだ。
なのでニオは仕方なく引き返した。足音で気づいたのかアンリは頭を下げたが、とみに扉が開いて参拝者たちが入ってきてしまい、慌てふためいていた。
「ご、ごめんなさい……」
なんとか人海を掻き分けてアンリはやってきた。申し訳なさそうに腰を低くしている。ニオが怒ることはなかったが、何も知らない彼女が謝罪を囁いていたので、人差し指を口に当てて、静かにしろと教えた。
改めて翼廊に折れると、地下へ続く螺旋階段があり、ふたりはそれをおりていった。
穿たれた壁の穴に皿燭台が置かれていて、蝋燭により視界は確保されていたが、深く深くに進んでいくと消えてしまっているものが多くなっていった。
このせいで壁が迫りくる錯覚に陥ってしまい、アンリはニオの腕を掴んだ。言葉を発することが許されないので、精神的な不安は増すばかりだった。
ある一定の地点に達すると、先がまったくの深淵になってしまった。ニオが近くの燭台を手に取り足元を照らすと、血痕が映し出されて、ついにアンリは声を上げた。
「あっ、すみません……!」
「いいや、もう喋って構わない。ここはいかなる干渉も受けないからな」
「礼拝堂ではないのですか?」
「俺たちはそう呼んでいるが、実際は霊廟だ。本当の礼拝堂は別にある」
「じゃあ、審問官様はどうしてここに?」
「すぐそこだ」
問いかけに対する答えになっていなかったが、ニオは十字を切って歩を進めた。そして、七歩おりると段差はなくなり、錆びた鉄格子が現れた。施錠はされていなかった。
がらんどうの廟内はいくつもの棺桶で埋め尽くされていた。年代も素材もまちまちだが、名だたる聖職者や殉教した聖人たちが、この棺に眠っていた。
「グレゴリウス殿。いるのでしょう」
瞬間、アンリはどきっとした。ニオの口調が優しくて別人のように思えたのだ。彼の顔を見上げて眉根をひそめ、それから正面に向き直すと、今度はぎょっとした。
何かがいる。
ぼんやりとだが、枯れ枝のような影を蝋燭の灯りが映し出したのだ。
「返事をしてください。グレゴリウス殿。ニオは帰ってきました、新たな夜明けもともにあります。夢から覚めてください。此度は四人の魔女を捕らえました。家畜を殺し、あまつさえ無辜の幼子の命までも奪った邪悪を、我々は終わらせたのです」
独特な言葉遣いでニオは影に歩み寄っていく。アンリはほとんど彼に抱き着くような姿勢になっていた。
やがて影が明らかになる。それは紛れもなく人だった。ミイラのように痩せ細った剃髪の老爺が、爛れた裸体をあまさず晒し、石のカウチに横たわっていたのだ。
およそ異端審問官とは思えぬ頽廃的な容貌にアンリは絶句した。とろけたような皮膚には黒い斑点が無数にあって、たちまち吐き気を催したが、えずくだけにとどまった。
「俺たちの父祖、グレゴリウス殿だ」
「この方が……。ご存命、なのですか?」
「当然だとも。とうの昔に瞳は潰されてしまったが、聞こえているし、意志もある」
「……」
「そうでしょう。グレゴリウス殿」
ニオは膝を曲げてグレゴリウスのあばらに手を添えた。すると、「ああ、うう」と呻きに似た声が零れて閉じた瞼が震えたが、生きた屍と称しても遜色なかった。
「ニオさん……あの……」
「審問官殿は〈魔女の宿痾〉に犯されている」
「え……」
「彼はかつて本物の魔女にまみえ、打ち倒し、呪いを背負われたんだ。緩やかに朽ちていく肉体、だが死ねず、今もこうして蝕まれている」
「本物の……魔女?」
「彼は英雄だ。宿痾に犯されてなお、祈りを止めることはなく、魔女の殲滅を果そうとしている。さあ、彼の抱擁に委ねるんだ」
異質、奇怪。されどニオの誘いに応じるかのように、グレゴリウスは身体を起こして手を伸ばし、そばかすのあるアンリの鼻を撫でた。
彼女は溜まった唾を飲んだ。氷のようにおそろしく冷たかった。
吸い込まれてしまいそうな、ぽっかりと空いた眼孔が迫りくる。アンリに細腕が巻き付いていくさまを、ニオはむず痒くも感動的な心持ちで眺めた。無垢なる田舎娘がおぞましきものとひとつになって静止する。ああ、なんて奇蹟であろうか。
「う、あ……」
抱擁から解放されると、アンリは小さく喘ぎ、弾かれたように後ろに倒れた。呼吸が整っていない。頬も火照って額に汗が滲んでいる。
ニオは彼女を起こそうとしゃがんだ。が、グレゴリウスに指をさされたので、そちらを優先することにした。
「いかがしましたか」
ニオが近寄ると、グレゴリウスはただ一言、こう耳打ちしてきた。
――〈祭典〉は。
「ご心配ありませんよ。つつがなく執り行う予定です。ですが、ええ、貴方が憂いているように数がやや少ないかと」
グレゴリウスは頷き、再びカウチに横になった。
至近距離にいるはずなのに、アンリにはグレゴリウスの声が届いていなかった。四つん這いになって大人しくていると、ニオが垂れた前髪をかき上げて戻ってきた。
「おめでとう。これできみも我々の兄弟だ」
突然にそう祝されても、アンリに実感は湧いてこなかった。あるいは、時が飛んでしまったかのような感覚であった。
それでも確かなことはあった。ニオの口調が、また、変わっていたのだ。
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