第2話
本拠地ブルゴブルクへの道程は北に四日と長きに渡る。
ひたすらに膨大な草原を行き、丘陵を超え、路の傍らに街があっても寄らず、食事と休息は最低限のものとし、一行は帰路を辿っていた。
何故ゆえにそう急ぐのか。それはひとえに魔女が存命である事実に起因する。いくら捕らえて自由を奪おうとも、彼らの背後には悪魔が憑き、風に揺れる葉叢のように救いの手を差し伸べる。魔女がひとたびそれに触れれば、脅威になるのは明らかだ。
だからなるべく早くに裁きを、冷たい牢に閉じ込めて、業火で焼かねばならぬのだ。
三日目の夜。馬車を囲むように各々は松明片手に馬を走らせていた。ニオとアンリはしんがりを努めており、部隊を先導するのはかの従順な隊員マーシュンである。
あと半日もすればブルゴブルクであった。ぼんやりと窺える風景はニオにとっても隊員たちにとっても懐かしいものに変わっていた。しかしアンリにとっては未踏の地であるため、微かに恐れており、それを感じ取ったニオは両の腿で馬体を絞めた。
「よぅし、マーシュン止まれ」
名指しではあるが、号令の役も果たしており、全員が一斉に減速していった。やがて完全に停止すると、マーシュンが近付いてくる。
「どうかしましたか」
「今夜はここまでだ。どうせ明日には着く」
「よろしいのですか? むしろ進むべきだと思うのですが」
マーシュンは首を傾げた。長頭巾はすでに脱いでおり、頬骨の張った小太りな顔面を松明の炎が照らし出している。
「まともな睡眠をとっていない。疲れたろう、俺は疲れた」
「はあ、そうですか」
「案ずるな。奴らの監視は彼女にやらせる」
ニオは背中に寄りかかっているアンリを指差した。いきなり呼ばれて驚いたのか、彼女は姿勢を正した拍子によろけて危うく落馬しそうになった。
「わ、わたしがですか?」
「きみはもうよそ者ではないからな」
「そんな」
「これは隊長命令だ」
「……はい、了解しました……」
しぶしぶ馬からおりたアンリはかなり重い足取りで――幾度かこちらを振り返りつつ――魔女の収監されている荷台に向かった。それ見届けたニオは他の隊員を引き連れて道の脇に移動し、馬を横ばいに寝かせ、焚火を起こして車座になった。
リー、リーと虫の音が聞こえてくる。乾燥した地面を触ってみれば、ざらざらとした灰の感触があり、これもブルゴブルクが近いことを意味していた。
「あの、隊員。本当に大丈夫なのでしょうか」
すっかり仰向けになって夜空を眺めていたニオに、彼の斜向かいで胡坐をかいているマーシュンがひとりごちるように尋ねた。
「休む気になれないのか?」
「まあ、それもそうなんですが。違いますよ、あの子のことです。なんの縁もゆかりもない婦女子を入隊させるなんて前代未聞じゃありませんか」
「心配性め。副隊長みたいだな」
「その副隊長が許すと思えないんです」
マーシュンの懸念はもっともだった。〈鉄槌隊〉は神聖なる意志の代行者として、女性よりも人間的に優れた男性のみで構成される部隊である。これは結成から現在まで守られてきた鋼の掟なのだが、ニオはそれを独断で破ってしまったのだ。
「殺しにかかったのは傑作だったな。ともすれば水の泡となるところだった」
「ふざけないでください」
マーシュンは溜息交じりにぼやいた。ニオが茶化したように、アンリの魔女に対する憤怒と厭忌は看過できぬものであった。が、あれはいっときの無意識だったのか、あるいは本性だったのか、充分に見定める必要がある。
ふと、ニオの隣の隊員が、「勤勉な野郎め」とマーシュンを皮肉った。イシュハイムなる強面の壮年である。
「お前にあれができるか? 考えてみろよ、異端を知らない田舎の処女が恨みつらみだけで縊ろうとしたんだぜ。石を投げる方がまともなのによ」
「ハイム。それとこれは別問題です。魔女に対する憎悪はいくらでも降り積もっているじゃありませんか。この灰を見なさい」
言って、マーシュンは地面の灰を掬ってみせた。
「魔女は焼いても焼ききれず、灰となって我々を苦しめる。そして、その魔女のほとんどが愚劣な女性ばかりなのは周知の事実。そんな女性であるあの子が〈鉄槌隊〉に加わったとなれば、どれほどの反感を買うかはお分かりでしょう」
「おいおい、ちゃんと男もいるじゃないか。俺はしっかり記録してるぞ。そりゃあ大部分は女だけどよ、棚に上げるのは頂けないぜ」
イシュハイムは〈鉄槌隊〉に於いて拷問の記録係を担っている。魔女の容姿、性別、悲鳴の詳細に至るまでを事細かに記すため、その信頼性は極めて高く、また、魔女が女性だけではないのを一番心得ているのは彼であった。
さすがに不利と悟ったのかマーシュンは歯噛みしてこう訂正した。
「ええ、男性もいます。間違いありません。しかし女性の方が堕落する傾向にあるのはハイムも存じているでしょう」
「なんだ、あの女が裏切るとでも言いてぇのか」
「なきにしもあらずです」
「へぇ、そうかい。そん時にゃ遠慮なく撃たせてもらおうかね」
イシュハイムはつまらなそうに唾を吐き、傍らに置いてあるクロスボウを撫でて寝転がった。すると今度は入れ替わるようにニオが身体を起こし、大きな欠伸をした。
「くだらないな。副隊長がなんだ、世間体がどうした。彼女は魔女を嫌い、魔女は時代に嫌われている。それでいいだろう」
「隊長……。第一、審問官様がお許しになるとでも?」
「無問題だ。あの方の悲願は〈祭典〉の開催。その準備に精を注いでいる手前、さほどのことなら目を瞑ってくれるさ」
審問官――すなわち異端審問官とは、読んで字のごとく異端を審問する聖職者のことを指し、〈鉄槌隊〉を管理している。ゆえに身分はニオよりも上であるが、彼はこの審問官と古くからの付き合いがあり、信頼関係を築いているため、アンリの入隊を許可してくれるだろうと踏んでいた。
「さほど、ですか」
生真面目なマーシュンは不服そうに、しかしこれ以上の言葉は発さなかった。
ぼやけた月光の夜も更けてきた。ここまで黙って聞いていた他の隊員たちも続々と横になっていき、やがて寝息を立てはじめる。
不思議とニオは眠くならなかった。時たま吹く微風に揺らめく焚き火を瞳に映していると、その炎が徐々に弱まっているのに気付き、立ち上がる。馬車に備え付けられている突き出し燭台に挿した松明を持ってこようとしたのだ。
ついでにアンリの様子も確認しよう、そんな心持ちで足を運ばせると、ここにも寝息を立てている者がいた。アンリが車輪に背を預けて眠っていたのだ。大事そうにニオが与えた剣を抱えている。
これには思わず吹き出してしまったが、不意に彼女が愛おしくなった。
下卑な情欲ではなく、もっと根底にあるところから湧いてくるような、本質的な愛おしさだった。違和感を覚えてかぶりを振り、燭台から松明を抜き取ると、アンリの頭上を照らすように掲げて、「おい」と声をかける。
「こんなにも堂々と職務放棄とは随分肝が備わっているじゃないか」
「ふぁ……、あッ! いえ、これはその!」
「魔女が逃げたらどうするつもりだ」
「す、すみません!」
「冗談だ。交代するからきみは休め」
新人に夜通しで魔女の見張りを頼むのはやはり多少の罪悪感があり、みなが寝静まってしまったからこそ、ニオは謝罪ともなしに休息を促した。が、アンリは一瞬ぽかんとしたのち、「いいです、いいです」と慌てて拒んだ。
「やらせてください。寝ません、もう全然眠くないですから」
「そうか。実は俺も眠くなくてな、少し話さないか?」
暇つぶし、という名目の言質取り。先のマーシュンやイシュハイムの口論がアンリに聞こえていないか、あるいは聞こえてしまっていたのなら、〈鉄槌隊〉の隊長として部下の無礼を詫びる責任があった。
アンリと同じくニオも車輪に背を預けて腰を下ろした。
「さて、何を語ろうか。これからのことはブルゴブルクに着いてから説明するとして、きみから俺に聞きたいことはあるか?」
「ひとつだけ……。あの、わたしでよかったのでしょうか」
「怖いのか?」
アンリはこっくりと頷いた。
「わたしはケリンと一緒なら、それでよかったんです。多くは望みませんでした。変わろうとしなくてよくて、のんびりと暮らせればそれで……」
「ああ、難しい夢だな。だが、分かるよ。運命が停滞してくれればいいのにな。俺も何度もそう思ったよ。けど、愚かだった」
「そうでしょうか」
「この上なく愚かだよ。すべての魔女を燃やしたいと願うくらいな」
過去の自分の発言を嘲笑うかのようにそう言ってのけた。矛盾を孕んだニオに困惑し、アンリの視線があちこちに泳いでいる。その隙にニオは布の巻かれた手をアンリの髪に添え、梳くように動かした。彼女はびくっと肩を震わせて、その手を退けようとしたが、そうするために伸ばされた腕は、力なく地に着いてしまった。
「愚かなら、どうしたらいい。きみはどうする?」
「わたしは……たぶん、愚かなまま生きます。愚かであるのも知らずに」
「そうだ、それでいい。いっそ無知になってしまえばいいんだ。これは経験だが、あらゆる状況での無知は利口な棘になる」
「無知に……」
それはニオが二十九年間の人生で得た教訓でもあった。
「一度まっさらになってみるんだ。弟とともにあったきみは死に、今ここにいるのはまったくの別人。魔女を狩る神の鉄槌として受肉した女だ」
さながら暗示のごとく囁きかけて蒙を啓く。ニオの言葉を反芻しているのか、アンリは口を半開きにして瞼を閉じた。
しばらくして、それがゆっくりと開かれると、炎によって耳飾りが夜に煌めき、翡翠の瞳に迷いがなくなっていた。翻り、無垢を捨てた魂を伴ってもいる。
アンリが不敵な笑みを浮かべている。ニオは訝しんだが手遅れであった。
「……我らの上古の鉄の槌――ふふっ、素晴らしい響きですね」
まじないにかかったかのように、恐怖の色がすっと失せていた。
〝我らの上古〟それはこの国の神の名である。
アンリに対してニオはまたも既視感を覚えたが、もしくはそれは、過去の後悔を偲んでいるだけなのだと、戒めている証なのかもしれなかった。
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