三、老爺は祈る

 広い庭園の隅にまつられている石祠せきし平入ひらいりの正面に捧げられた真新しい御幣ごへいとは裏腹に、切妻屋根には灰緑かいりょく色の百足苔ムカデゴケがこびりついている。その前では、二本のけやきに渡された細い注連縄しめなわと真っ白な紙垂しでが風に揺れる。

 見慣れたその光景を前に合掌し、祈りを捧げる。どうか、返してください。僕の元に返してください。

 どれだけ祈っていただろう。顔を上げると同時に、後ろから声を掛けられる。

「こんにちは」

「ああ、先生かい」

 今時珍しい古風な恰好をした若人だ。取材をするために、この村に滞在しているという。僕が「今日は何を聞きにきたんだい」と問うと、「よろしいのですか」と眼鏡の奥にある柔和な目が、嬉しそうに細められた。

「では、そのほこらについて。いったい何を祀っているのです?」

「これは、オコジンサマを祀っているんだ。狐の神と書いて御狐神様オコジンサマだよ。この辺りは稲作が盛んだろう。だから稲荷神を祀っている」

 相槌あいづちを打つ先生の顔を見て、この余所者よそもの相手にならあるいは……という浅はかな気持ちが芽生える。

「……取材ついでに、この老いぼれの話を聞いてくれるかい」

「ええ、是非ともお聞かせ願いたいです」

 先生はまた、人がい笑顔を浮かべた。

 村の者にはとうてい話すことなど出来ない。しかし墓場まで持っていくには、膨れすぎている心中だ。

「僕には、昔、将来を誓い合った人が居たんだ。もうずっと、何十年も前の話なのだけれどね」

 菜の花のように可愛らしい笑顔と、その頬にある笑窪えくぼを思い出す。よく笑い、よく驚き、大仰な身振り手振りで楽しげに話す素敵な人だった。働き者だった彼女の手は薄汚れ傷だらけだったけれど、とても優しくて暖かかったことを覚えている。

「けれども、時代の流れは残酷だった。わかるだろう。僕は出征することになり、二人は離れ離れになる。それでも、あの人は待っていてくれると言ったんだ」

 栗色の目をじっと見つめて約束したあの日、僕は何が何でも生き残って、あの人の元に帰ろうと誓った。昨日まで共に戦っていた朋輩ほうばいが隣で血に塗れ冷たくなろうとも、僕は決して生きることを諦めなかった。

「しかし、帰ってきた僕を迎えたあの人は、変わり果てていた。僕が居ないうちに、隣村の医者との縁談話が持ち上がったらしい。その頃を境に、狐憑きつねつきになってしまったと聞いたよ。それで縁談を破棄させようという、彼女なりの苦肉の策だったんだろうね」

 なんと、いじらしいことだろう! 健気でいたわしい彼女の全てが、愛おしくて痛々しい。戦地で必死に戦っていた僕と同様に、彼女もみさおを立てるべくあらがっていたんだ。しかし、それが実を結ぶことは無かった。

「フリがいつしかまことになり、昼夜を問わず徘徊しては意味不明な言葉を口走り、最後にはとうとう意識が混濁してしまった。僕のことさえわからない。そんな状態で婚姻が許されるはずもなく、僕は相手方の強い希望によってこの家に婿養子に入ることになった」

 歴史ある旧家きゅうかも、あの人と結ばれる道が閉ざされた僕にとっては棺桶だった。何不自由ない裕福な暮らしも虚しいだけだ。

「その後、あの人は忽然こつぜんと姿を消してしまった。村では、狐の元に帰ったのだと噂になったよ。あの人が自らこの集落を後にしたのか、それとも体裁を気にした家族がどこかへやってしまったのか。今となっては、真相はわからない」

 こうべを垂れ、御狐神様に向かって懇願する。合わせた手は震え、声は情けなく喉に張り付いていた。

家内かないに対して不義理だとは思っている。けれども、僕はやっぱり、どうしても諦めきれなくて、こうして御狐神様に祈り続けているんだ。どうかあの人を返してください、と」

「おじいちゃん! やっぱりここにいた~。先生も来てたんですね、こんにちは」

 語り終えると同時に、曾孫ひまごの声が聞こえハッと顔を上げる。

「今日も御狐神様に祈ってたのね。先生、聞いてくださいよ。うちはこうしておじいちゃんが祈ってくれるおかげで毎年豊作なんですよ~」

 僕は曖昧な返事を絞り出すことしか出来なかった。本当は豊穣なんて祈ってなどいない。ただ自分の、エゴによる祈りだ。家族に対する不義理と偽り、そしてあの人を見捨てたくせに呼び戻そうとしている身勝手さにさいなまれる。

 曾孫は先生を「上がっていきませんか。お茶しましょうよ」と誘ったが、断られたようだ。

「私はこれで失礼します。有意義な時間を過ごせましたよ。ありがとうございました」

 若人は、口元に笑みをたたえ去っていった。




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