1話――奔逸の令嬢
どんな味なのかなぁ。」
黒髪と薄暗い部屋を青く照らす液晶は、両腕で抱えるほどの大きさと重さの映像媒体のもので、ついさっきまで映像文学が流されていた。普通のテレビはもう少し薄くて軽いものだが、これは高級品で、200年前のテープやディスクすら見られる優れものである。普通のだって平民の月間生活費くらいの値段なのに、これはその3倍ほど値が張る。100年200年前の古典の時代であれば、もっと安くて小さくてどこでも見られるような媒体があっただろうが、今の世では無理な話である。そういう安価で高品質な大量生産大量消費はインターネット社会の
テープやディスクも高級品である。城郭内の図書館や書店に行けば借りられる場合もあるが、奔は何度も何度も同じ物を見返すので、買ったほうが幾らか安上がりだ。それに、貸出延長で金も時間も取られるくらいなら、買ったほうがやはり良い。映像古典の中でもアニメドラマはシネマドラマに比べて長いので、奔にとっては尚更のことだ。
文学のなかでも有数に金がかかる映像古典を、弱冠17の井蛙の娘が趣味にできるのは、彼女が名門貴族の娘だというのがあるだろう。それ以外にも知的好奇心というのも挙げられるかも知れない。部屋にこもってアニメばかり見ていると言われば、なんと陰気なやつだと思われるかも知れないが、なにも産道を通ったときからそういうわけではない。
奔は誓暦22年(再起暦122年)の5月3日、帯剣貴族として名高い万網家の娘として生まれた。幼少期は大変世話が焼ける少女だったようで、見たことのない本があれば、棚から出して広げてみるし、そこで見たことのない蝶が飛んでくれば、本をしまわず追いかけるようなおてんば娘だった。それもその年頃の少年少女であれば普通のことか。いや、ほとばしる知的好奇心がそうさせたなら尚のこと納得である。
他方、家の名誉を重んじる側面もあったようで、この点はいかにもお嬢様である。万網家は世襲貴族の座にあって、支配階層の十二貴族に準ずる権門勢家というのだからとんでもない。十二貴族は、貴族連合建国に携わった功があって、貴族連合をほしいままにしている。同じように、万網家も功を立てたが故にそれほどの実権を持っている。どんな功を立てたかといえば、逓信網の整備だ。再起暦60年、大陸人民軍との戦争が激しさを増した時代のことである。戦争は一見して有利に進んでいるように見えたが、大陸と貴族連合を繋ぐ
尤も、奔が家の名誉を重んじるという意識は、そういった歴史や伝統によって裏付けられたものではない。奔の記憶が正しければ、それは歳が一桁の頃からの、父への尊敬にあったはずだ。万網家は有数の貴族だったから、訪問客も多かった。特筆すべきは来訪者に比較的平民が多かったという点にある。好奇心旺盛な小娘だから、そういう来訪者が来ると興味を持って近づいていった。
「ねえ、あなたはどちら様ですか?」
「君のお父さんの戦友だよ。」
平民の来訪者は皆口を揃えて同じことを言うので、さらに次を聞きたくなる。
「ふうん。じゃあ……パパはどんな兵隊さんだったんですか?」
「勇敢な人さ。敵の包囲網から僕を助けて下っさった、英雄だよ。」
初めのうちは英雄という言葉にピンと来なかったが、その物言いがみんな揃って喜びに満ちて言ったから、すごいのだな、と抽象的に感じるようになっていく。父親がすごいと褒められれば、娘としてもまんざらではない。
「英雄ですか。英雄。ふふん。」
聞き慣れぬ二文字が耳馴染み人なった頃には、来訪者が来ると「英雄」の二文字をを引き出しては満足気に客間から出ていったというから、なるほど世話に手を焼いたというのも納得だ。
映像文学にのめり込むきっかけも、父の戦友にあった。奔が13のとき訪れてきたその男は、腹には脂肪を、口には髭を蓄えた貴族だった。一代貴族にありがちな、成金らしい振る舞いが鼻につく中年である。その男がアニメドラマをもってきて、試写会を開いたのだ。その男は会の途中でうたた寝をし始めたから、きっと古典を、自分が貴族であることを喧伝するための骨董価値のあるアクセサリーくらいにしか思っていなかっただろうが、奔はこれに心を打たれた。アニメとは、絵を動かしているのだ。動いているのではない。一枚一枚が人の絵によって描かれているのだから、ここに偶然は起こり得ない。石ころ一つ転がるのに意味が与えられ、それが物語を紡いでいる。きっと、すべてに意味がある。
(なるほど、文学……ね。)
そう気づいた時にはもう虜だった。時代地域を問わず作品を発掘したかったが、流石に子供には限界がある。だから、同じものをを何度も何度も見返すようになった。毎周毎周発見があって面白い。次第に部屋にこもりがちになるし、髪も切らなくなる。
そうして、気付けば十七歳である。
「どんな味なんだろ。」
皆が将来のことを気にするこの歳で、彼女はスクリーンの向こうで吸われている煙草の味ばかりを気にしていた。最後の一服といってまで吸うのだからよっぽど美味いのだろう。どんな味かと、父に聞いてみても、返ってくるのはいつも同じような答えで、体に悪いだの受動喫煙の危険性だの、否定的なことばかり言ってくる。コネだけで政治を専横する、本土の
皆が将来の事を考えているといったが、奔は進路をとっくに決めてた。文学が勉強できて、煙草もあわよくば吸えて、なにより憧れの仕事につけるだろう進学先だ。そろそろ、受験勉強を始めなくてはならない。たとえ名門貴族の生まれであろうと、馬鹿の入学を許すはずがない。過去問も触ってみたが、確かに難しく、スラスラとは解けない。試験時間は他校と比べて長いはずだが、それでも時間が足りないくらいに問題が多い。だんだんと不安になってきて、手がつかなくなってくる。士気を揚げようとアニメを見ても、焦燥感で楽しめたものではない。どうしようかと暫く悩んで、参考書を買いに行こうと思い立った。
件の高級品の電源を落として、暗い部屋を出る。貴族の家らしい広い廊下を寝間着でペタペタ進んで行くと、居間から音がした。
「お父さん、あの……」
「どうした、奔。困った顔をして。」
「その、お金を…少しだけ。」
「何に使うんだ?」
「参考書を、買いたくて」
こんな真面目な金の無心があるものか。昔から、傑作集だの長編小説だの、小遣いをせびるのはそんなことばかりだった。親としても関心なことで、貴族くせに倹約家の父も、こういうときは羽振りがよかった。口調も当然も柔らかくなる。
「なんだ、勉強に使うなら、パパが買ってやろう。」
「いいよ、ひとりで買ってくるから。」
「パパとじゃ恥ずかしいか?」
「まあ、それもあるけど。」
父が長財布から紙幣を出そうと上着を取る。私はお父さんって呼んでるのに、いつまでもパパって言うのはやめてほしいな。でも、私の自慢のお父さんだから。すこしだけ、打ち明けたって良いかも知れない。
「……あたしもお父さんみたいに、軍隊に入ろうと思ってて。」
これを聞いた瞬間、父の顔が曇る。
「奔、どういう料簡だ。」
急に父は眉をひそめて声色が険しくなった。しかし、奔は照れくさい告白のさなかに居て、妙な高揚に包まれているから、気づかない。
「武門用兵学校なら、文学も学べるし。卒業後も六等官として任官できるから、仕事に就くにも魅力的なところだと思う。」
今は照れくさいけど、もう少し時間が経ったら、お父さんに憧れたって言えるかな。そんな健気な姿を差し置いて、
ぴしゃり。
呑気でゆるんだ頬元に、父の平手が飛んだ。奔の口先からつぅと血が流れる。その威力は、振り向きざまであるだとか元軍人の腕っぷしだからとか、考えられる物理的原因を織り込んでも、強すぎる。
「軍人なんて、馬鹿な真似はやめなさい。」
そういって部屋から出ていき、バタンと戸を締めた時には、まだ奔は何が起きたのかがわからなかった。呆然と打たれた頬さすりながら、上着のかかっっていた椅子を見つめる。床に散った参考書代を拾って自室に戻り、寝床に潜っても尚、茫然自失の状態だった。翌朝、食卓に向かっても父はいなかった。仕方がないから、ひとりで朝食を食べた。
新しい感情がふつふつ湧き上がってきたのは、昼頃のことである。奔からしてみれば、初めて殴られたのだから「それほど兵士になってほしくないのだな」とは分かったが、父が頑なに説明しないので釈然としない。狙撃兵が重責と業を一身に背負う役職であることを踏まえれば、父の判断に親心の息吹を感じなくもないが、親が子に察するよう強いるのはやり健全とは言えないし、不適切である。少なくとも、当時の奔はそれを察するほど繊細な人物ではなかった。それどころか、かえって志願の気持ちは強くなる。いっそ(娘の門出を祝えないとは、ひどい親だ)と、傲慢にも思っていた。
夕方、書店に寄って参考書を買った。武門用兵学校の傾向と対策についての本である。学科によって異なるが、奔の目指す操縦士科は倍率40倍を超える。うじうじ悩んでは居られない。決意を胸に手を握りしめると、指先に金属の硬さが当たる。今まで釣り銭を親に返さなことはなかったが、そういう従順さも、もう捨てるべきか。そう思って、手の平に残る釣り銭でソーダを買った。いつもより炭酸が強い気がしてラベルを見たが、普段と同じソーダだった。
誓暦三九年、路傍の金木犀が香る十月のある日のことである。心地よい清涼感がどこか淋しさを伴って、一日がまた過ぎていこうとしていた。
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