時代の奔流、煙草の死神

@HeirMuffin

序開き――巻毛の浮浪者

「だれかいるな?」

 桜が青々と茂り、日差しが強さを増す誓暦せいれき50年の五月半ば、貴族連合の衛戍地でタバコを吸いに外に出た五等官は、木陰からの気配を感じた。眩しさゆえに日陰を恋しく思い、クヌギの生える倉庫裏に向かったら、知らない顔がいた。肋骨服に腕を通してから10年以上もここの釜で腹を満たしているので、本来であれば当基地の入営者の顔なら知らないはずがない。

(国有地だぞ、ここは。)

 国家が十二貴族の傀儡となって久しい貴族連合にも、国有地の概念くらいある。一〇〇年続く戦時下ゆえに数を増やし続ける衛戍地もその例外ではなく、関係者以外立ち入り禁止の国有地である。だから、見知らぬ人間がいるのはおかしい。粉を吹いた鉄扉には、火気厳禁の白字がかすれて残っていたが、そこに背をもたさかける女はオイルライターをチャキチャキ鳴らしている。

 近寄ると、ぷぅんと鼻をつまみたくなる臭気がした。原因の一端はきっと不衛生によるもので、近づいても蝿の羽音がしないのが不思議なくらいである。

 様相も変だ。なぜか被っている鉄帽ヘルメットから垂れる黒髪も、「伸ばしている」と言うよりは婆娑羅髪ボサボサと言うべきで、脂で照っている。女性の美しいつやめいた黒髪を『濡烏』と形容するが、この女はカラスよりもよっぽど汚いだろう。はだけた服はよく見ると官給品の軍装だが、こころなしかカーキが普通よりくすんでいる気がする。洗っていないに違いない。乱れた襟からの下着が見えているが、胸は控えめなうえに強調する風でもないので売淫が目的というわけでもなさそうだ。

 乞食か。まあ、兵役満了で受けられる恩給も雀の涙の寒い時代である。乞食の兵隊など、珍しい光景でもない。しかし、にしてはと構えたふうだ。とても乞食とは思えない、力強い雰囲気を纏っている。服から覗く肉体からは、鍛錬のあとがうかがえる。

「貴様、無筆か?ここは軍の敷地内であるから、乞食は他所でやれ。」

 関係者以外立入禁止の看板を指して言ってやったが、女は動く気配を見せない。この際、顔もしっかり覚えてやろう、と長い巻毛に隠れた顔を覗き込むと、光を吸い込むような墨黒の大きな瞳がギロリと睨みを効かせていた。こちらがたじろぐのを見て気に召したのか、女はヘラヘラしながら小指で歯をいじり始める。やはり浮浪者だから歯を磨かないのか。だとしても、普通ならこのタイミングでは無いだろう。やはり只者ではないと思えたが、関心するべきか、呆れるべきか。そうやって呆然としいると、右手の甲にヒタリと冷たい感触がした。心当たりのない感触を不審に感じたが、それが何か分からない。立てた小指に、口をすぼめて息を送っている女を見て、やっとそれが女の歯カスだと分かった。虚を突かれただけに、激憤した。

「身の程を知れよ、狂人が」

「ふふん。知るかよ、ばぁか。」

「ようやく口を利いたか」

 くたばれ、下賤。そう心のなかで呟いては、抜刀しようと鞘を引く。しかし、その時すでに女は円匙シャベルを片手にすくっと立ち上がっていた。恐ろしく敏捷なのだ。背中にでも隠していたのであろう軍用のそれは、重く鋭くかつ取り回しの良いもので、掘るも埋めるも惨殺するも自由自在の優秀な多機能用具マルチツールである。刀を抜こうと柄に添えられた男の右手に、円匙が大きく振り下ろされた。切っ先が皮を裂き、肉を断って骨を砕く。

 一滴でも血が流れば、相手が動かなくなるまでもう後には引けない、というのは喧嘩の常道である。円匙を袈裟に振り下ろしては、そのまま突き上げる。後先を考えていない渾身の一撃を、繰り返し繰り返し振り下ろすので、どんどん遠心力が加わっていく。士官の方はそれで両腕を耕されるのだから、その痛みは尋常ではない。吹き出た血がダラダラと腕を伝って行って、手のひらでも抑えきれずボタボタと滴る。このザマでは、たとえ剣を抜けたとて、手がぬめって下段に構えることも難しいだろう。浮浪者相手に膝を屈し、涙と血が止まらない士官など前代未聞である。許しを乞うような叫び哭きを聞いて浮浪者にも仏心が現れたのか、とどめの一撃は刃を立てて砕くようなやり方ではなく、刃を横にして首をトンと叩き、気絶させた。

 動きが止まったと判るやいなや、女は円匙をほっぽって、士官の佩いていた刀を金具ごと獲り、刃が無事かを確かめる。損傷がないどころか、きれいに磨かれたものだと分かるとホッと息を着いた。

 士官の胸ポケットをまさぐると、手のひらにスッとおさまる箱を見つけた。思わず口角が上がる。引っ張り出してみて、案の定。

「ふふん」

煙草だ。思わず綻ぶ顔を抑えようと、一本咥えて火をつけた。箱にはまだまだ入っていたので、シガーケースに移し替える。これで当分困らない。そう思うと、至福の一服だった。

でやめときゃ良かったのに、しちまったのが運の尽きだぁねえ。」

「死人にゃいらんだろうし貰ってくよ。なあに、線香代わりと思えば贅沢品さ」

 そう言ったとか、言わなかったとか。


 詳細に差異はあれど、こんなような話が万網奔よろずあみはしるの武勇伝として革命期に口伝えに広まった。根も葉もない噂だ、と本人が革命後に否定しているし、多くの研究者が背びれ尾びれの付いた話と一蹴するが、貴族連合の事件簿を引いてみると誓暦50年の五月には某衛戍地で強盗事案が発生した旨が記されている。士官の軍刀とタバコが無くなっていたから金品目的の強盗ということになるが、果たしてはじめからそれが目的だったのかは分からない。はしるの来歴を遡って当時の境遇を鑑みると、単に抱え込んでいた負の感情を誰かにぶつけたかっただけなのではないか?という気すらしてくる。このささやかな事件の実態を明かすには、彼女の生い立ちから振り返ってみる必要があるだろう。

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