第14話
◇ ◇ ◇
翌朝、珖璉や禎宇とともにおいしい朝食をたっぷりと食べた鈴花は、禎宇を手伝って片づけを終えたところで、無意識に深い溜息をついた。胃が重く感じるのは、ご飯をお腹いっぱい詰め込んだから、だけではないと思う。たぶん。
「今日も、昨日のように各部門を回られるんですよね?」
菖花の手がかりを得るために力を尽くすことは、鈴花にとっても本望だ。が、昨日、嫌というほど投げつけられた憎悪の視線を思い出すと、出発する前から憂鬱な気持ちに襲われる。
「当たり前だ。すぐに出発するぞ。宮女と宦官を合わせれば数千人はいる。主だったところを調べるだけで、まだ何日も……」
鈴花を促して立ち上がった珖璉が、ふと口ごもる。
「……鈴花。お前、掌服に術師がいると言っていたな?」
「へ?」
言葉の意味が摑めず、間抜けな声をこぼす。掌服に術師なんていない。だが、《気》を纏っているのが術師なのだとしたら、思い浮かぶ人物は一人だけだ。
「夾さんのことですか? 確かに夾さんは《気》を纏っていますけれど、術師かどうかまでは……」
答える途中で、はっと気づく。
「もしかして、夾さんが泥棒じゃないかって疑ってるんですか!? 夾さんが盗みなんてするはずがありません! 私なんかにも優しくしてくださるすごくいい方なんです!」
鈴花の抗弁を無視して、珖璉が廊下に控えていた朔に、夾を調べよと命じる。短く応じる朔の声が聞こえた。次いで珖璉が禎宇を振り向く。
「禎宇。夾とやらを連れてこい」
「珖璉様!? ですから、夾さんは泥棒なんかじゃないと……っ!」
卓の向こうに回り込んで訴えるが、珖璉の返事はにべもない。
「ならばむしろ、変な疑いをかけられる前に、潔白を証明したほうがよいだろう?」
「ですが……っ」
「下手な警備兵に目をつけられてみろ。無実にもかかわらず、拷問で自白を引き出されて、下手人に仕立て上げられるやもしれんぞ?」
「そ、そんなこと!」
珖璉の言葉に、鈴花は息を吞んでぶんぶんとかぶりを振る。
「そんな無体なこと、官正である珖璉様がお許しになりませんでしょう!?」
「っ!?」
たった二日仕えただけだが、珖璉の言動にはきっちりと一本芯が通っていると、ちゃんと知っている。真っ直ぐ見上げて告げると、珖璉が鋭く息を吞んだ。
「……何にせよ、後宮に入る宮女や宦官は、術師であるならば申告せねばならぬ規則がある。お前のように、自覚がないという可能性もあるが……。術師やもしれぬ者をそのままにはしておけぬ。調べはわたしと禎宇で行う。お前は立ち会わずともよい」
「いえっ! お願いですから私も立ち会わせてください!」
鈴花が夾の名を不注意に出してしまったせいで、疑いがかけられているというのに、放っておくことなどできない。鈴花は頭を下げて珖璉に懇願した。
鈴花には何刻ものように感じられる時間が過ぎた後、最初に珖璉の私室に戻ってきたのは朔だった。
何も手につかず、うろうろと部屋の中を回っていたせいで、卓で書類仕事をしていた珖璉に、「目障りだ。床でも磨いておけ」と命じられた鈴花は、朔が入ってきたのを見て、あわてて雑巾を置いて立ち上がる。
「珖璉様」
鈴花を無視して珖璉に近寄った朔が何やら耳打ちするが、鈴花には聞こえない。
「あの……っ」
瘦せぎすの朔が薄く開けた扉の隙間から音もなく出ていき、鈴花が意を決して珖璉に尋ねようとしたところで、夾を連れた禎宇が戻ってきた。
「いったい、あたしに何の用だって言うんですか。こちとら十三花茶会の準備で忙しいんですよ。余計なことをしている時間なんて──」
ぶつぶつと禎宇に文句を言いながら入ってきた夾が、珖璉を見とめた途端、無言になる。ぽぅっと珖璉に見惚れる表情は、瞬きすら忘れたかのようだ。そばに鈴花がいると気づいてさえいないに違いない。惚けている夾に、珖璉が単刀直入に斬り込んだ。
「お前が装飾品を盗んだな?」
冷ややかな声音に、現実に引き戻された夾の顔が凍りつく。と、弾かれたように首を横に振った。
「き、急に何をおっしゃるんですか!? 証拠もないのにそんなことをおっしゃるなんて、いくら珖璉様でも……」
「下手な芝居は要らぬ。お前の荷物から、盗まれた簪などをすでに見つけている」
斬り伏せるかのような珖璉の言葉に、夾の唇が色を失ってわななく。と、そこでようやく鈴花の存在に気づいたらしい。夾が刺すような視線で鈴花を睨みつけた。
「違います! あたしは犯人じゃありません! 犯人はこの小娘ですよ! こいつが盗んで、あたしに罪を着せようとして隠したんだ!」
「ち、違……っ」
憎悪のこもった視線に射貫かれ、震える声でかぶりを振る。珖璉がはっ、と呆れ果てた冷笑をこぼした。
「言い訳ならもっとましなものにするのだな。方向音痴の此奴が、妃嬪の宮まで行って、迷わず帰ってこられるわけがないだろう? お前が術師だというのも調べがついている。おとなしく罪を認めたほうが身のためだぞ?」
珖璉の言葉に、夾が嚙み千切りそうなほど強く唇を嚙みしめる。鈴花を睨む瞳には、憎悪の炎が燃え盛っていた。
「あんたが! あんたがあたしを売ったんだね!?」
殺意すらこもった視線に、身体が震えて声すら出せない。
「鈴花はお前を
珖璉の言葉は、夾の耳に入らなかったらしい。
「
「っ!」
身体の震えが止まらない。昨日も宮女達からさんざん嫉妬や憎しみの視線を浴びたが、鈴花を名指しで放たれた夾の怨言は、比べ物にならない。
声も出せずに震えていると、不意に視界が陰った。椅子から立ち上がり、夾の視線を遮るように鈴花の前に立った珖璉が、夾を見下ろす。
「それは別の話だ。世話になったからと言って、罪を犯した者を庇う必要はなかろう」
珖璉が庇ってくれるとは思いもよらなかった鈴花は、驚いて広い背中を見上げる。同時に、固まっていた頭がようやく動き出した。
「ど、どうして……っ!? どうして盗みなんてしたんですか!?」
「おい!?」
珖璉を押しのけるようにして前へ出る。
「あとひと月ほどで年季が明けるって言ってたじゃないですか!? そうしたら、娘さんを引き取って一緒に暮らすんだって……っ!」
「その前にあの子が死んだら意味がないじゃないか!」
血を吐くように叫んだ夾が、糸が切れたように床にへたり込む。
「今も鈴花は病に苦しんでるんだ! あたしがお金を持って行ってやらなきゃ……!」
「鈴花?」
珖璉がいぶかしげな声を上げる。
「夾さんの娘さんです! 私と同じ名前で……っ」
早口に説明しながら、鈴花は思わず自分も床に膝をついて、くずおれた夾の手を取る。
「娘さんが病気なんですか? それで、薬代のために盗みを……?」
「だったらなんだいっ!? あんたが黙ってりゃあ、ばれなかったのに……っ!」
目を怒らせた夾がばしんと鈴花の手を振り払う。じん、と指先にしびれが走った。
「夾よ。お前は蟲招術を用いて盗みを働いた、で間違いないな?」
一歩踏み出した珖璉が刃のように鋭い声で問う。夾が震えながら頷いた。
「蟲招術だなんて……。あたしが使えるのは《
「縛蟲か。なるほど、細長いあの蟲ならば、人が入れぬ隙間からでも忍び込めるな。鈴花。此奴の《気》の色は何色だ?」
「う、薄茶です! 黒じゃありませんっ!」
珖璉の意図を察した鈴花は声を張り上げる。
「あ、あの、珖璉様……。夾さんはどうなるんですか……?」
禁呪使いでないとはいえ、夾が盗人なのは確かだ。不安を隠さず問うと、珖璉が冷ややかに答えた。
「盗品はまだ売っておらぬようだが、妃嬪の物を盗んだ犯人を見逃せば、陛下の威信に関わる。よくて縛り首、悪ければ死ぬまで笞打ちだ。どちらにしろ、死刑は免れん」
「死刑……っ!? じゃあ、娘さんはどうなるんですか!?」
まさか、そこまで重い罰だとは思ってもいなかった。
身を乗り出した鈴花に、だが、珖璉は表情ひとつ変えない。
「そもそも病から回復できるかもわからんだろう? 生き残ったところで、稼ぎ手を失えば遠からず困窮する。結果、
「そんな……っ!?」
このままでは、夾だけでなく娘まで死ぬことになる。珖璉の宣言を聞いた夾はがくがくと震え続けている。紙よりも白い顔色は、早くも死人になったかのようだ。
「な、なんとかならないんですか!? 夾さんは盗品をまだ売ったりしていないんでしょう!? 返したら減刑とか……っ!?」
「妃嬪の持ち物に手をつけただけで大罪だ。減刑など、あるはずがなかろう?」
氷のような声で告げた珖璉が、ふと考える表情になる。
「そうだな……。そこまで言うのなら、ひとつ方法がないこともない」
「何ですかっ!?」
「鈴花。お前には褒美を得る権利がある。盗難事件の犯人を見つけた褒美に、菖花について調べてやろうかと考えていたが……。どうする? 姉の行方を調べる代わりに、此奴の助命を嘆願してみるか?」
「そんなことができるんですかっ!? ではお願いします! 夾さんと娘さんの命を助けてあげてください!」
間髪入れずに即答すると、珖璉の眉がきつく寄った。
「返事をするなら、ちゃんと考えてからにしろ。こいつは赤の他人だろう? しかも盗人だ。そんな奴のために、姉の情報を得る貴重な機会を使うとは……。正気か? お前は姉を捜しに後宮へ来たのだろう?」
珖璉の鋭いまなざしに
「ですが、お世話になった人が私のせいで死刑になるなんて、そんなの見過ごせません! それに……」
迷いを断ち切るように固くつむった
『あなたは噓なんて言わないわ。鈴花がいい子だと、ちゃんと知っているもの』
噓つきだと村の子ども達にいじめられるたび、菖花は鈴花の頭を撫でながら慰めてくれた。姉が信じてくれたから、鈴花は世を
鈴花はまぶたを開けると、強い意志を込めて珖璉を真っ直ぐ見上げる。
「ここで夾さんを見捨てて姉を見つけられたとしても、姉さんの前に堂々と立てるとは思えません! きっと、姉さんも私を𠮟ると思います。ですから……。どうか夾さんをお助けください! お願いします!」
床に額をこすりつけるように深く頭を下げる。
そのまま、どれほど待っていただろうか。珖璉が洩らした吐息が沈黙を破る。
「よかろう。そこまで言うなら、夾を助けてやろう」
弾かれるように珖璉を見上げる。なぜか、珖璉はひどく苦い顔をしていた。
「女の術師は貴重だからな。泂淵預かりにして労役で罪を償わせることにすれば、死刑にはならん。……まあ、問題は泂淵がそんな面倒を引き受けるかどうかだが」
「では、私からも泂淵様にお頼み申し上げます!」
「ならん!」
告げると、予想以上に強い声で制された。
「お前が頼めば、泂淵に言いくるめられてどんな無茶な約束を取りつけられるか、予想もつかん。泂淵への話はわたしが通す」
と、珖璉が涙を浮かべて震え続けている夾に視線を移す。「夾」と名を呼んだだけで、夾の身体が大きく震えた。自分の身に起こったことが信じられぬと言いたげに
「とんでもないお
低い声は氷片をちりばめたかのようだ。夾ががくがくと壊れた人形のように頷く。
「ひとまず、此奴を
珖璉の命に、禎宇が夾を連れて部屋を出ていく。
夾の命が助かった安堵で緊張の糸が切れて、身体に力が入らない。鈴花は床にへたりこんだまま、夾と禎宇を見送った。
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