第15話

◆   ◆   ◆



 夾の助命のため、夜更けに珖璉は、ひとり私室で泂淵への文をしたためていた。


 宮廷術師の筆頭である蚕家は宮中でも特殊な立ち位置で、かつ大臣にも肩を並べる権力を持っている。その泂淵から夾の罪を労役で償わせたいと要望すれば、盗難事件が後宮外にまで洩れていない現状であれば皇帝も否と言うまい。


 後で泂淵からどんな無理難題を言われるやら、と苦笑とも嘆息ともつかぬ吐息をこぼした珖璉は、かすかに耳に届いたすすり泣きの声に、筆を持つ手を止めた。


 一瞬、皇帝のちようあいを失って悲観し命を絶った妃嬪の霊だの、他の妃嬪に嫉妬され毒殺されたきさきの怨霊などの噂が脳裏をよぎるが、違う。声が聞こえるのは、鈴花に与えた隣室からだ。


 だが、いつも能天気な顔で嬉しそうにご飯を食べる少女と、泣き声という組み合わせが、どうにも結びつかない。風に舞う蝶のようにくるくると表情が変わる鈴花だが、怯え震えている表情は見たことがあっても、泣き顔は記憶にない。


 珖璉は筆を置くと、立ち上がって隣室に通じる内扉へ歩み寄った。



「鈴花?」



 扉の向こうへ呼びかけるが、返事はない。が、すすり泣く声は続いている。



「入るぞ」



 ひと言断ってから扉に手をかけ、押し開ける。


 部屋の中は暗かった。背後から差し込む明かりが、珖璉の影を床に長く落とす。部屋の片隅にあるのは、日中、禎宇に命じて運び込ませた寝台だ。侍女として仕えさせるというのに、さすがに長椅子で寝ろというわけにもいかない。


 寝台の掛け布団はこんもりと人の形に盛り上がっている。が、ここからでは様子まではわからない。足音を忍ばせ、寝台に歩み寄った珖璉の目に飛び込んだのは。



「姉さん……」



 愛らしい面輪を切なげにゆがめ、眠りながらはらはらと涙をこぼす鈴花の姿だった。



「姉さん、どこ……?」



 聞く者の心まで軋むようなかなしげな声に、くぎを打ち込まれたように珖璉の胸がずくりとうずく。同時に、強い罪悪感に襲われた。


 昼間、姉について調べる代わりに夾の助命を持ちかけたのは、悪戯心からだ。あれほど必死に取引をもちかけてきた鈴花ならば、迷わず夾より姉を選ぶだろうと。後宮は甘い世界ではないのだと世間知らずの娘に教えてやろうと、その程度の気持ちだったのに。


 まさか、鈴花が迷いなく夾の助命を願い出るとは、思ってもいなかった。


 珖璉はまじまじと眠る鈴花を見つめる。


 本当に変な娘だ。他の宮女なら、珖璉に何としても近づこうと獲物を狙うきつねのように機会をうかがうというのに、鈴花ときたら侍女になれたことを喜ぶどころか、姉のことがなければ、辞退したいと言わんばかりだった。しかも、珖璉に仕えられて一番嬉しいのは、豪華な食事と菓子が食べられることだという。


 まったく、これほど変わり者の娘には、今までの人生で一度も会ったことがない。


 夕べ、結局禎宇がとってきた茶葉でれた茶を飲みながら、満面の笑みで菓子をほおばっていた鈴花を思い出すと、無意識に口元がほころぶ。あまりに嬉しそうに食べるものだから、珖璉の分をひとつやると、こちらが驚くほど感激された。


 本当に、読めない娘だ。怯えているかと思えば、時に驚くような行動力を見せる。能天気に笑っているかと思えば、一人きりでひそやかに泣き……。



「姉、さん……」



 湿った声で呟いた鈴花が、姉を求めて手を彷徨わせる。考えるより早く、珖璉はその手を取っていた。途端、ぎゅっと驚くほど強い力で握り返される。



「よかったぁ……っ。見つけたぁ……」



 ふにゃ、と鈴花がとろけるような笑みをこぼす。思わず魅入ってしまう、あどけなく愛らしい笑顔。



「鈴花」



 そっと呼びかけ、手を引き抜こうとするが、鈴花はいやいやをするようにさらに強く握りしめると、涙で濡れた頰をすり寄せてくる。姉を見つけた夢でも見ているのか、珖璉がもう片方の手で涙をぬぐってやっても、嬉しそうににやけたままだ。


 が、珖璉とて一日中働き通しで、いい加減眠い。しかし、無理やり指を引き抜いて幸せそうな鈴花の笑顔を曇らせる気には、どうしてもなれなかった。



「おい、鈴花」



 今までより強い声で呼ぶが、すよすよと寝息を立てる鈴花は起きる気配がない。


 仕方がない、と珖璉は大きく吐息した。



「……言っておくが、引き止めたのはお前だからな……」



 絶対に聞こえていないだろう鈴花に告げると、珖璉はもう片方の手で掛け布団をめくりあげ、寝台に身をすべり込ませた。





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