第12話

◇   ◇   ◇



 日もとっぷりと暮れた夜。珖璉が帰ってこないので、先に禎宇と二人で夕食をとった鈴花は、片づけの終わった卓にぐでっと突っ伏した。


 昨日と同じく豪華な夕食を詰め込んだ胃は、心地よい満腹感を奏でている。身体が重い。もうこのまま動きたくない。目を閉じたら、一瞬で眠りの沼に沈めるだろう。



「かなり疲れたみたいだね」



 鈴花の様子に禎宇が苦笑をこぼす。



「すみません。お行儀が悪いってわかってるんですけれど……」



 優しい禎宇しかいないのをいいことに、突っ伏したまま、もごもごと詫びる。卓のひんやりした冷たさが、疲れた身体に心地よい。



「珖璉様はいらっしゃらないから、わたしに気を遣う必要はないよ」



 穏やかに笑った禎宇が、



「一日歩き回って、術師は見つかったかい?」



 と尋ねてくる。



「それがさっぱり……。っていうか、珖璉様って何者なんですか!? もう、どこに行っても宮女達の反応がすごかったんですけど!」



 珖璉の人気っぷりはどこの棟でも変わらぬすさまじさだった。姿を見た瞬間、歓喜の悲鳴を上げる者、感動のあまり涙ぐむ者、見惚れて仕事が手につかなくなる者……。


 宮女も宦官も、珖璉の一挙手一投足を見逃すまいと熱視線を送るさまは、異様な空間としか言いようがなかった。


 しかも、当の本人は涼しい顔でその中を通り過ぎて行ったのだから、恐れ入る。付き従っていた鈴花は、嫉妬と怒りに満ちあふれた視線に晒され続けて、今にも倒れそうなほどへとへとだというのに。


 びたびたと両手の平で卓を叩きながら訴えると、禎宇がぶはっと吹き出した。



「ああ。珖璉様が後宮内を歩かれると、いつもそんな感じだよ。珖璉様は、今まで侍女をそばに置かれたことはなかったから、余計に目立っただろうしね。初めてお供を務めたのなら、じろじろ見られてさぞかし疲れただろう」



 いたわるような優しい口調に、思わず情けない声が出る。



「そうなんですよ~。しかも、珖璉様は足を止めずにあちこち行かれるし……」



 昼食以外ずっと歩き回ったせいで、ふくらはぎがぱんぱんだ。



「そういえば」


「へ?」



 ふと声を落とした禎宇を、視線だけ上げて見る。



「ずっとお仕えしているわたしや朔はともかく、他の者は珖璉様を見ると、見惚れて何も手につかなくなる者ばかりなんだが……。鈴花は平気みたいだね」


「いえ、珖璉様のお顔がとんでもなくお美しいのはわかりますよ!?」



 禎宇の言葉に、あわてて首を横に振る。



「ただ、私の場合、銀の光を纏ってらっしゃるので、薄ぼんやりとしかお姿が見えなくて……」


「ぶぷっ! こ、珖璉様を薄ぼんやり……っ! だ、だめだっ、腹筋が……っ!」



 見事にツボに入ったらしい。禎宇がお腹を抱え、大きな身体を二つ折りにして大笑いする。そんなに変なことを言っただろうかと思いながら眺めていると、ひとしきり笑い転げていた禎宇が、ようやく身を起こした。



「いや~。こんなに笑ったのは久しぶりだよ。最近は気がることばかりだったしね。何かお礼を……。あ、お菓子があるんだけど食べるかい?」


「お菓子ですかっ!?」



 思わずがばりと顔を上げる。お菓子なんて、最後に食べたのはいつだろう。たぶん、一年前の昇龍の祭りの時に、小さな焼き菓子をひとつ食べたくらいだろうか。



もらい物だけれどね。いまお茶を……。あ」



 茶筒を開けた禎宇の動きが止まる。



「しまった。お茶の葉を切らしてたんだった」


「じゃあ私、掌食へ行ってもらってきます!」



 勢いよく立ち上がる。



「いや、悪いからわたしが行くよ」


「いえっ、ただでお菓子をいただくなんて申し訳なさすぎますから! 行ってきます!」



 扉へ駆け寄り、開けようとしたところで、はたと気づく。



「あのぅ、掌食まではどう行ったらいいのか、教えてもらっていいでしょうか……?」






「えっと、真っ直ぐ行って二つ目の角を右に曲がって、三つ目を……。あれ? 三つ目だっけ? 四つ目だっけ? ってあれ? 私、いくつ角を……?」



 禎宇に教えてもらった道順をぶつぶつ呟きながら、棟と棟をつなぐ渡り廊下を歩いていた鈴花は、はたと立ち止まって小首をかしげた。振り返ってみるが、いま自分が通ってきたはずの廊下なのに、まったく覚えのない場所にしか見えない。



「ここ、どこ……?」



 またやってしまった。ここがどこなのか、さっぱりわからない。禎宇に教えられた道順を思い返そうとするが、右か左か、いくつめの角だったか、思い返そうとすればするほどあやふやになる。


 誰か通りかからないかと、一定の間隔で蠟燭が灯された廊下を見回して。



「あっ、博青様!」



 渡り廊下の向こう、夜の闇が沈む庭に、薄青い《気》を纏う瘦せぎみの立ち姿を見つけた鈴花は、思わず大声で名前を呼んだ。驚いたように博青の肩がびくりと震える。



「あ……。鈴花、だったかな?」


「はい。よかった、私、博青様に会いたいって思っていたんです!」



 庭へ降りるきざはしを見つけ、博青に駆け寄る。



「博青様は見回りをなさってたんですか?」



 片手に灯籠を持つ博青に尋ねると、



「ああ、念のためにね。そういうきみは、どうしてこんなところに?」



 といぶかしげに問い返された。



「私ですか? 掌食にお茶の葉をもらいに行くところです」


「掌食? ここからは遠いけれど……?」


「えぇっ!? 禎宇さんに道を教えてもらって出てきたんですけれど……」



 いったい、どこでどう間違ってしまったのだろう。



「あの、それよりも。私、博青様に聞きたいことがあるんです!」



 ぐっと両の拳を握りしめて身を乗り出す。



「二か月前、菖花姉さんとどんなことを話されたんですか!? 私、行方不明になった姉さんを捜しに、奉公に来たんです!」


「菖、花……!?」



 尋ねた瞬間、博青の目が驚きに瞠られたのが、夜の闇の中でもはっきりわかった。



「博青様は姉さんのことを知っているんですよね!? いったい姉さんとどんなことを話したんですか!? どんなささいな手がかりでも欲しいんです! 教えてください!」



 縋りつきたい気持ちをこらえ、身を二つに折るようにして頭を下げる。博青の気配がためらうように揺れた。



「その……。きみは姉さんに、見気の瞳のことを話していたんだろう?」



 博青の問いに、戸惑いながら頷く。



「え? はい……。見気の瞳って呼ぶというのは、夕べ、珖璉様に教えていただいて初めて知ったんですけれど。姉さんだけなんです。色が見える人がいると私が言っても、馬鹿にせずに信じてくれたのは」



 鈴花の言葉に、博青が申し訳なさそうに吐息した。



「すまないが、菖花と話したのは大したことじゃないんだ。妹が人に色がついて見えると言っている。宮廷術師のわたしなら、その原因がわかるんじゃないかと相談されてね。その、わたしもまさか、見気の瞳の持ち主だとは思いもよらなくてね。本人を見てみないことには何とも言えないと答えるだけになってしまったんだが……」


「姉さんがそんなことを……」



 奉公に来てまで故郷の妹のことを気にかけてくれていたと知って、じんと胸が熱くなる。後宮を出たのが本当だとしても、そんな姉が故郷へ戻ってきていないなんて、やっぱりおかしい。絶対、姉の身に何かよからぬことが起こったのだ。



「あのっ、博青様は姉さんがどこにいるのか知ってらっしゃいますか!?」



 わらにも縋る思いで尋ねると、「いや」と首を横に振られた。



「まさか菖花がいなくなっているとは、今、きみに聞くまで知らなかったんだ。話したのも、ほんの数度なんだよ。そうか、きみが菖花の妹なのか……。確かに、言われてみれば、姉妹だけあって顔立ちが少し似ているね」


「いえ、私なんて、姉さんにまったく似ていない役立たずなんです」



 とんでもないとかぶりを振るが、博青は信じてくれない。



「見気の瞳を持っているのに何を言うんだい? けれど、姉が行方知れずだなんて、心配なことだろう。無事に見つかることを祈っているよ」


「ありがとうございます」



 いたわりに満ちた言葉に、もう一度、深々と頭を下げる。



「もし他に姉さんについて何か思い出したことがあったら、教えていただけますか?」


「ああ、かまわないよ。ただ、あまり期待はしないでくれると嬉しい。わたしも十三花茶会の準備やら何やらで忙しくてね」


「はいっ、それはもちろん。お忙しいのに夜も見回りされているなんて、博青様は本当にすごいですね!」



 こくこくと頷いた鈴花は、照れたように笑う博青をおずおずと見上げた。



「ところで、もうひとつ教えていただきたいことがあるんですけれど、あの、掌食の棟にはどうやって行ったらいいんでしょうか?」



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