第4話

 恐怖と緊張でうまく息ができない。本降りになった雨の湿気が鈴花の胸に忍び込み、溺れるような心地がする。


 ぬかるみの中を歩いているように足がもつれる。いっそのこと、転んでしまえばこれ以上、進まなくていいのかもしれないが、数歩前を行く珖璉に見えない糸で引っ張られているかのように、身体は勝手についていく。


 人気のない廊下はしんとしていて、宮女達の悲鳴と怒りの声が渦巻いていた食堂とは別世界だ。しとしとと降る雨が、すべての音を吸い込んでしまったのかと思う。いったいここがどこなのか、これからどこへ連れて行かれるのか、鈴花には見当もつかない。


 食堂を出る際に「ついてこい」と命じたきり、珖璉は無言のままだ。


 これからどうなるのか気になって仕方がないが、恐ろしくてとても聞けない。


 珖璉は「側仕えにする」と言っていたが、間違いなく噓だろう。そう言って連れ出せば、鈴花が掌服へ戻らなくても、疑問に思う者は皆無だ。


 珖璉に無礼を働いた罪でせつかんされるのだろうか。いや、折檻だけならいい。こんな無礼者は雇っておけぬと後宮を追い出されたら……。


 考えるだけで、全身からぞっと血が引く。何があっても後宮から追い出されるわけにはいかない。追い出されたら、行方不明になった姉の菖花を捜せなくなってしまう。


 菖花が後宮へ奉公にあがったのは約二年前だ。村一番の器量よしで気立てもよく、頭の回転も速かった菖花は、村長からぜひにと推されて、村に課された賦役を減じる代わりに宮女となった。許嫁いいなずけがいる姉は渋ったが、村長も諦めなかった。


 三年の奉公が終われば、十分な結婚資金もまる。何より、これは村のためなのだ。ここ数年の不作で、村の蓄えは底をついた。課された税を納めるのもやっとだ。このままでは離散する家族が出るやもしれん。娘をげんに売る親も……。そういえば菖花、お前には妹がいたな。出来のよいお前と違って、役立たずの妹が。あの娘は見目だけなら悪くない。よそから来た女衒なら、きっといい値をつけてくれるんじゃないか?


 村長がそう言って姉を説得しているのを偶然聞いた時、鈴花はすぐさま飛び出して姉の不安を打ち払いたかった。けれども、鈴花が役立たずなのは明白な事実で、どうしても足がすくんで動けなくて……。


 大好きな姉がどんな思いで奉公を決意したのか、鈴花は知らない。だが、鈴花さえいなければ、姉はきっと村長の説得にあらがっていただろう。


 鈴花が知っていることはただ、優秀な姉は宮女を徴募しに来た役人にも気に入られ、村の賦役が大幅に減じられて、村人全員が喜んだという事実だけだ。


 奉公に出てからも、姉は月に一度は給金の仕送りと一緒に、鈴花に手紙を送ってくれた。後宮はどれほど華やかなところか。同時に、どれほど気を遣って妃嬪に仕えねばならないか。優秀な姉は、妃嬪の宮の掃除や調度を整えるしようしんという部門に配属されたらしい。妃嬪のご尊顔を拝謁する機会もある部門だ。


 そんな姉が誇らしくて、いつも鈴花を気遣ってくれる優しさに満ちた文面が嬉しくて、姉からの手紙は、寂しい村での暮らしを照らす、たったひとつの光だった。なのに。



「もう後宮から出られないかもしれない」



 二か月前、仕送りの中に人目を避けるように隠されていたたった一文だけの手紙。書かれていた文字は、いつも綺麗な姉の字とは思えないほど乱れていて。


 姉の身によからぬことが起こったのだということはすぐにわかった。


 けれど、両親に相談しても、鈴花のゆうに過ぎないと。もし奉公の途中で帰ってきたら仕送りがなくなってしまうじゃないか、滅多なことを言うなと𠮟責され……。


 姉の許嫁にも相談したが、無駄だった。許嫁は心から姉を心配してくれたが、王都から離れた片田舎で、いったい何ができるのかと。もし、王都に行ったとしても、宮女か宦官、限られた商人くらいしか入ることのできない後宮にいる菖花のことを、どうやって調べるのかと正論で説得された。


 けれど、鈴花は諦められなかった。いつも迷惑ばかりかけている姉が、初めて鈴花を頼ってくれたのなら、何としてもそれに応えなくてはと……。


『私が宮女として後宮に奉公して、姉さんを捜し出してみせます!』


 そうたんを切って、後宮へ来たのだ。


『お前なんかに後宮勤めができるはずがないだろう!? 徴募役人はうまくごまかしたみたいだが、働けば、すぐに化けの皮がはがれるに決まってる』


『お前のせいで村への賦役が増えたら、どう責任を取るつもりだい!? あたし達に迷惑をかけたらタダじゃおかないよ! ったく、こんなことを言い出すなら、さっさと女衒に売っ払っちまえばよかったよ。どうせ、あんたなんかを嫁に欲しがる男なんざ、この村じゃいないんだし』


 姉を捜しに後宮に行くと告げた途端、悪鬼のような形相で鈴花に食ってかかった両親の雑言が脳裏によみがえり、鈴花は強く唇を嚙みしめる。


 何があろうと、後宮から追い出されるわけにはいかない。石にかじりついてでも残らなければ。でなければ、姉を捜せない。


 土下座でも何でもして、珖璉に許しを請おう。掌服にいられなくなってもかまわない。どぶさらいでもかわや掃除でも何でもするから、後宮に残してもらおう。意を決して、詫びようとした瞬間。



「入れ」



 足を止めた珖璉に出鼻をくじかれる。珖璉が宵闇の暗さでも全面に美しい彫刻が施されているのがわかる扉を開けた。雨で湿た空気にかすかに揺蕩ったのは、珖璉の衣にめられているのと同じ薫りだ。おそらく珖璉の私室なのだろう。しよくだいともされているのか、部屋の中は薄明るい。



「失礼いたします」



 命じられるまま、室内に足を踏み入れる。一目で高級品とわかる調度品に感心する余裕もない。



「珖璉様! 誠に申し訳──」



 ばたりと扉を閉めた珖璉を振り返り、土下座しようとして。


 それよりも早く、強く肩を摑まれる。無理やり起こされた眼前に、端麗な面輪が迫り。



「お前は、何を見た?」


「ひっ!」



 刃よりも鋭い視線にかれ、思わず悲鳴を上げる。



「な、何も見ておりませんっ!」



 見てはならぬものを見た記憶なんてない。それとも、下級宮女は珖璉の姿を見ることすら禁忌なのだろうか。


 それなら今も罪を犯していることになる、と鈴花はあわてて固く目をつむる。



「申し訳ございません! 本当に何も知らないのです。お願いですから解雇だけはお許しを……っ」


「噓を申すな! 確かに見たのだろう!?」



 珖璉が何を言っているのかわからない。逃げたいのに肩を摑む手は万力のようで、締め上げられた骨が軋む。じりじりと後ずさっても、その分距離を詰められる。と。



「ひゃっ」



 不意にがつんと膝の後ろに硬いものがぶつり、鈴花は尻もちをついた。勢い余って倒れ込んだ拍子に、部屋の隅にあった長椅子にぶつかったのだと気づく。


 だが、珖璉の手はまだ離れない。


 ぎっ、と鳴った音にまぶたを開けると、鈴花に覆いかぶさる珖璉と視線が合った。銀の光を纏う面輪の中で、黒曜石の瞳が切羽詰まった光を宿してけいけいと輝いている。


 まなざしに締めつけられたように、きゅぅっと心臓が痛くなる。端麗な美貌から目が離せない。



「言っていただろう、銀の光と。お前はいったい何を見──」


「珖璉様、いったい何事でございますか!? 急に宮女を連れ帰られるなど、掌服だけでなく後宮中がすごい騒ぎに……っ!」



 扉を叩くのももどかしいといった様子で、武官らしい鍛えられた身体つきの宦官が部屋に飛び込んでくる。と、長椅子に中途半端に身を横たえた鈴花と覆いかぶさる珖璉を見た瞬間、こぼれんばかりに目をみはった。



「こ、ここここ珖璉様っ!? これはいったい……!?」



 めんどりが蛇を産んでもここまで驚かないのではなかろうか。鶏みたいに珖璉の名を呼んだ宦官が、珖璉と鈴花の間で素早く視線を往復させる。



「落ち着け禎宇。此奴こやつを問いただしていただけだ」



 禎宇と呼んだ宦官を見もせず、珖璉がそっけなく答える。黒曜石の瞳は鈴花を見据えたままだ。今にも獲物の喉笛を嚙み千切ろうとするおおかみのような威圧感に、鈴花の身体が勝手にかたかたと震え出す。



「いい加減、答えてもらおうか。お前はわたしを見て『銀の光』と申したな。──いったい、わたしの何を見た?」



 返答次第では喰い破ると言わんばかりに、肩を摑んだままの手に力がこもる。鈴花は震えながら必死で首を横に振った。



「申し上げた通り、銀の光を見ただけです! 私、昔からときどき人が色を纏っているのが見えるんです。それで珖璉様の銀の光が見えただけで……っ! 他には何も一切見ていません!」



 叫ぶように告げると、珖璉の動きが止まった。



「何だと……?」



 信じられぬと言いたげに目を瞠った珖璉が、かすれた声を洩らす。



「お前はわたしの《気》が見えるというのか!?」


「き? 『き』って『器』のことですか? いえ、私は掌服なので掌食みたいに器は扱いませんけれど……」



 勢い込んで尋ねた珖璉にきょとんと返すと舌打ちされた。



「《気》が何か知らんのか?」


「も、申し訳ございません」



 知らぬものはどうしようもない。これ以上、機嫌を損ねぬよう、身を縮めて詫びる。



「……知らぬというのなら、ひとまずは信じよう」



 身を起こした珖璉が、ようやく鈴花の肩を放してくれる。強く摑まれていた肩は、熱を持って痛いほどだ。



「お前には、わたしが銀の光を纏って見えるのか?」



 立ち上がった珖璉が鈴花を見下ろして問う。鋭い視線は、もし謀れば容赦はせぬと言外に告げていた。長椅子から降り、板張りの床に正座した鈴花はこくこくと頷く。



「そうです。珖璉様は全身にうっすらと銀の光を纏ってらっしゃいます。銀の光を纏ってらっしゃる方なんて、お会いするのは初めてですけれど……」


「珖璉様、これは?」



 二人のやりとりを見守っていた禎宇が、不思議そうな声を上げる。珖璉が考え深げに頷いた。



「おそらく此奴は《けんひとみ》の持ち主だ」


「見気の、瞳……?」



 謎の言葉をおうむ返しにつぶやく。と、その拍子に今まで恐怖に空腹を忘れていたお腹が、不満のうなりを発した。



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