第3話

 制止の声を振り切り、鈴花は身を翻すとだつのごとく駆け出す。


 そこから、どこをどう走ったのかわからない。途中、出会った宮女や宦官に道を教えてもらい、鈴花がようやく掌服の棟に着いたのは、曇天から雨が降り出す寸前だった。


 洗濯物を濡らす前に帰ってこられてほっとする。もし濡らしていたら、夕飯抜きは確実だ。いや、片づけをしていたとはいえ同僚達よりかなり遅れてしまったので、夕飯にありつけるかは甚だ怪しいが。


 道に迷いましたと説明しても、掌服長は納得してくれまい。加えて、どなたかはわかりませんが高位の宦官にお会いして、制止を振り切って逃げてきたんです、と正直に話せば、どれほどの大目玉を食らうか。恐ろしすぎて考えたくない。


 掌服の宮女だけでも数百人はいる。あの美貌の宦官が鈴花を見つけようとしても、そう簡単には見つけられまい。もう二度と会うことはないだろう。摑まれた肩の痛みさえ残っていなければ、幻だと思うところだ。それほどに、あの青年の美貌は隔絶していた。


 所定の位置に籠を置いた鈴花は、すぐに食堂へ向かった。思いがけぬ運動を強いられた身体は空腹を訴えている。


 どうかまだ夕食が残っていますようにと祈りながら食堂へ入ると、目ざとく鈴花に気づいた先輩宮女が甲高い声を上げた。



「やぁだ、鈴花ったら。今まで帰ってこないなんて、いったいどこで油を売ってたの? どうせまた、迷子になってたなんて、下手な言い訳をするんでしょ?」


「新人はいいわよねぇ。迷ってましたと言えば、遊んでても許されるんだもの」


「ちが……」



 反論するより早く、先輩宮女の声を聞きつけた掌服長が「鈴花!」と厳しい声を上げる。頭に白いものが混じり始めた掌服長は、しゆうの腕は超一流だが、厳しいことで有名だ。奉公に来てまだ半月ほどだが、鈴花は怒られなかった日がない。



「またお前なの!? いい加減にしてちょうだい! 『じゆうさんはなちやかい』が迫っていて、猫の手も借りたいほど忙しいっていうのに……っ!」



 目を吊り上げた掌服長に𠮟責され、鈴花は身を縮めて頭を下げる。


 十三花茶会というのは、間もなく後宮で行われる大規模な茶会だ。


 同僚から聞いたところによると、上級妃四人と中級妃九人、および各妃嬪に仕える侍女達が一堂に会するという大変華やかな行事で、衣服を担当する掌服は、新たに糸を染め直して衣を新調したり、刺繡をやり直したり、装身具を整えたり……。と、目が回るほどの忙しさなのだという。


 もっとも、下級宮女の鈴花が妃嬪の衣装にふれられる機会などあるはずもなく、鈴花の仕事はもっぱら、宮女や宦官のお仕着せの洗濯なのだが。


 一度ついた怒りの火は、簡単に鎮火しそうにないらしい。掌服長はたまりにたまった鬱憤をぶつけるかのように責め立てる。



「新人が入って、人手が増えて少しは楽になるかと思いきや、とんだお荷物だよ! この役立たず! 忙しいってのに、あんたの面倒なんて見てる余裕はないんだよ。顔を見てるだけでいらいらする。夕食は抜きだよ! 部屋でおとなしくしておきな!」


「は、はい……」



 くぅ、と抗議するように鳴ったおなかの音は、食堂のざわめきにまぎれてしまう。ここにいても、掌服長に怒りをぶつけられるだけだ。もう一度頭を下げると、鈴花はとぼとぼと大部屋に帰ろうとした。と、宮女達が食事をとる卓をいくつか過ぎたところで。



「ちょっと」



 ぱしっと手を摑んで引き止められる。薄茶色を纏った手に、鈴花は振り返るより先に相手が誰か気づく。



きようさん」



 鈴花の手を握るのは四十がらみの瘦せぎみの宮女だ。鈴花と目が合った夾は、からかうように唇を吊り上げる。



「今日も掌服長にやられたねぇ。どうせあれだろ。片づけを押しつけられたんだろ?」


「ええっと……」



 見てきたように言う夾に、同僚達が大勢いるところで正直に頷くわけにもいかず、口ごもる。



「私が役立たずなのは、その通りですから」



 それに、道に迷ったのは鈴花自身の責任だ。



「だからって、こうも夕食を抜かれてちゃあ身体がもたないだろ。二日前だって抜かれてたじゃないか」



 答えるより早く、空腹を訴えるお腹がくぅと返事をする。ぷっ、と夾が吹き出した。



「身体は正直だねぇ。部屋で待ってなよ。後でこっそり残り物を持って行くからさ」


「いいんですか?」



 小声で告げた夾に、鈴花も小声で返す。正直、この上なくありがたい。けれど。



「夾さんに迷惑がかかりませんか……?」



 おずおずと尋ねた鈴花に、夾はあっけらかんと笑う。



「かまやしないさ。どうせ残り物は出るだろうし、それを持って行ったって罰なんざ当たりゃしないよ。あんたが空腹で倒れたほうが困るしね。何より、実家に残してきた娘と同じ名前のあんたが腹をかせてると思うと、どうにも放っておけなくてねぇ」



 夾の視線が遠くなる。



「もうすぐ八歳になるんでしたっけ」



 夾のまなざしの優しさに、鈴花の心までほぐれていく気がする。夾が鈴花に優しくしてくれるのは、実家に残してきた娘と偶然同じ名前だからだ。夫に先立たれ生活の手段を失った夾は、一人娘を実家に預けて後宮へ奉公に来たそうだ。


 鈴花の問いに、夾が泣き笑いのような表情を浮かべる。



「そうなんだ。ああ、ひと月後の年季明けが待ちきれないよ。今すぐ飛んで帰ってやりたいほどだよ」


「本当に、早く年季明けの日が来たらいいですね」



 後宮の宮女や宦官達は、数年間の年季の間は住み込みだ。故郷に帰ろうにも、年に一度の長めの休みの時しか帰れない。


 鈴花は心からの願いをこめて頷く。同じ名前でも大違いだ。鈴花自身は、両親にこんな風に大切に思われた記憶はない。鈴花にとっては、三つ年上の菖花が親代わりみたいなものだった。



「夾さん、ありがとうございます」



 丁寧に頭を下げ、食堂を出ていこうとしたところで。


 不意に、宮女達がざわめいた。



「珖璉様よ!」


「まあ! 掌服に来られるなんて、どうなさったのかしら」


うれしい! お姿を拝見することがかなうなんて……っ!」


「今日もなんてお美しいのかしら」



 振り返り、同僚達がうっとりと褒めそやす人物を見た途端、鈴花は口からほとばしりそうになった悲鳴を、かろうじて嚙み殺す。


 宮女達の視線を一身に受けて食堂の入り口に端然と立っていたのは、先ほど鈴花が逃げ出してきたばかりの美貌の宦官だった。


 宮女達のざわめきに、鈴花は初めて青年の名前を知る。同時に、彼こそが宮女や宦官達の間で、妃嬪よりも美しいとひそかにうわさされる官正なのだとようやく気づいた。確かに、女人であれ男性であれ、珖璉ほど見目麗しい人物は見たことがない。


 しかも官正とは。官正は後宮内の不正を取り締まる役職である。その地位は、掌服や掌食といった各部門の長よりもずっと高い。絹の衣からして高い身分だろうと推測していたが、そこまで高かったとは。そんな珖璉に無礼を働いたのだと思うと、ただでさえ空腹で悲鳴を上げている胃が、きりきりと痛くなってくる。


 だが、そんな珖璉が、なぜ急に掌服にやってきたのだろう。疑問に思ったのは掌服長も同じらしい。



「これはこれは珖璉様。いかがなさいましたか?」



 珖璉へ駆け寄った掌服長が、両手をもみしだくようにして恭しく尋ねる。先ほど鈴花に怒鳴り散らしていた人物とは別人のような腰の低さだ。



「なに、掌服長にひとつ頼みがあってな」


「まあっ、わたくしに!?」



 掌服長が少女のように華やいだ声を上げる。



「いったい何でございましょう。珖璉様のお頼みでしたら、どんなことでも叶えてみせますわ!」



 掌服長が気合をみなぎらせて告げる。熱に浮かされたように己の半分ほどの年齢の珖璉を見つめるさまは、まるで恋する乙女のようだ。いや、掌服長だけではない。食堂にいる宮女達が全員、魅入られたようにうっとりと珖璉を見つめている。



「大したことではないのだが」



 珖璉がわずかに口の端を持ち上げてみせただけで、宮女達から、ほぅっ、と感嘆の吐息がこぼれる。が、珖璉は己のほほみが宮女達にどんな影響を及ぼしているのか頓着していないようだ。あれほどの美貌の主なら、この程度は日常茶飯事なのかもしれない。



「十三花茶会が近づいていることもあり、人手が足りなくてな。一人、宮女を譲ってもらえないかと頼みに来たのだ」


「っ!?」



 鈴花は一瞬、食堂が揺れたのかと思った。


 それほどに、珖璉のひと言が宮女達に与えた衝撃は激甚で。宮女達が一斉に息を吞んで固まる中、最初に我を取り戻したのは、さすが年の功と言うべきか掌服長だった。



「ま、まことでございますか!? 今まで、かたくなに宮女は側仕えに置かれませんでしたのに……」


「うむ。さすがに近頃は、禎宇だけでは手が足りぬことが多くなってな。あいつに何かあっては困るゆえ」


「なんと思いやり深くていらっしゃるのでしょう!」



 掌服長が感極まったように褒めそやす。



「わたくしめにご相談いただき光栄でございます! 掌服の者は皆、わたくしが厳しくしつけておりますゆえ、珖璉様の側仕えとして申し分のない働きをする者達ばかりと保証いたします。ですが、珖璉様のお側近くにはべるのが生半可な者ではいけません。ここはわたくし自らが珖璉様にお仕えいたしましょう! ええもう、身も心も尽くしてお仕えさせていただきます!」


「あ、いや……」



 掌服長自らが名乗りを挙げるとは予想外だったらしい。珖璉が戸惑った声を上げる。



「心遣いはありがたいが、十三花茶会も近い今、掌服長の位に穴をあけるわけにはいかぬだろう」



 珖璉の言葉に、宮女達がものすごい勢いで頷く。目をらんらんと輝かせ身を乗り出すさまは、次は自分が立候補しようと力みつつ、互いにけんせいしあっているようにも見える。鬼気迫るさまは見ていて恐ろしいほどだ。


 鈴花だったら絶対に関わり合いになりたくない。もっとも、役立たずの鈴花には、天地がひっくり返っても縁のない話だが。


 珖璉に見つかる前にそっと食堂を立ち去ろうと、鈴花は前を向いたまま、じり、と一歩後ずさった。本当は背を向けて脱兎のごとく走り去りたいが、全員が珖璉に見惚れているこの状況では目立ちすぎる。と、珖璉がゆっくりと口を開いた。



「もう、誰を側仕えにするかは決めているのだ」



 宮女達がどよめく。その顔に浮かんでいるのは、もしかしたら自分こそが選ばれるのかもしれないという、隠しきれない期待だ。


 珖璉が水鳥のように優雅な仕草で食堂を見回す。それだけで、広い食堂がしん、と水を打ったように静まり返った。


 なんだかすごく嫌な予感がする。目立ってもよいから駆け去ろうと、踵を返そうとした瞬間。


 珖璉の黒曜石の瞳と、目が合った。


 たったそれだけで、不可視の針に縫い留められたかのように身体が動かせなくなる。


 珖璉の端麗な面輪が淡く笑みを刻んだ。



「鈴花という新人がいるだろう。わたしの侍女として、彼女をいただこう」

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