第2話

◇   ◇   ◇



 数千人が暮らす後宮の洗濯場は、ちょっとした池なみに広い。乾いた洗濯物を雨が降り出す前に運ぼうと、手早く畳んで籠の中へ入れていく同僚達に混じって、りんは宦官用のお仕着せを丁寧に畳んでいた。


 と、「新入り!」とたたきつけるように呼ばれ、はじかれたように立ち上がる。



「は、はい! 何でしょうか」



 新入りと言われたら、半月前にしようふくに入った鈴花しかいない。ぱたぱたと小走りに自分を呼んだ先輩格の宮女達の元へ駆け寄ると、



「用があるから呼んだに決まってるでしょ!?」



 と苛立たしげに吐き捨てられた。



「洗いおけ。あんたがちゃんと片づけておきなさいよ」


「え……?」



 鈴花は広い洗濯場を見回す。確かに、そこここに使い終わった大きな洗い桶がそのままになっている。だが。



「あのぅ、洗い桶は、自分が使ったものをそれぞれで片づけるんじゃ……」



 確か、入った当初にそう教えられたはずだ。



「はぁっ!?」



 おずおずと返した瞬間、宮女の一人が足元にあった桶を蹴りつける。がんっ、と響いた大きな音に、鈴花は思わず身をこわらせた。



「いっつもあんたのせいで迷惑をかけられてるのよ!?」


「だったら、びとして代わりに片づけるくらい当然でしょう!?」


「ほんっと気が利かないんだから、この役立たず!」



 嘲りを隠そうともしない声音に、唇をみしめる。周りの同僚達も、触らぬ神にたたりなしと、ちらりと視線をよこしただけで、黙々と手を動かすばかりだ。


 故郷の村でも、『役立たず』と何度罵られてきただろう。


『出来のいい姉と同じ腹から生まれたとは思えないほど、どんくさい娘』


『使いに出せば迷って帰ってこない、村一番の役立たず』


『わけのわからぬモノが見えるなんて言う不気味な娘』


『あんなのの面倒を見てやらなきゃいけないなんて、姉のしようもとんだ厄介者を背負わされたもんだ。気の毒に……』


 故郷の村でさんざん言われ続けた陰口が頭の中を駆け巡り、痛みをこらえるように、さらに強く唇に歯を立てる。


 抗弁なんて、できるわけがない。鈴花が役立たずなのは、まぎれもない事実なのだから。それに先輩宮女達の機嫌を損ねては、鈴花が後宮へ奉公に来た意味がない。少しでも先輩宮女達やしようふくちように気に入られて、早く有益な情報を得られるようにならなくては。


 ──後宮に奉公に来たまま、消息不明になった姉の菖花を捜し出すために。



「気が回らなくて申し訳ありません。ちゃんと片づけておきます」



 深々と腰を折って謝罪する。



「そうよ! わかればいいのよ」


「じゃあ、後はよろしくね」



 頭を下げる鈴花の横を通り過ぎていく先輩宮女達に、あわてて声をかける。



「ですが、掌服の棟までどうやって帰れば……?」


「は?」



 振り返った先輩宮女の声は氷よりも冷ややかだった。



「本気なの? 半月も経ったのに、毎日通ってる道をまだ覚えられないわけ?」


「そ、それは……」



 情けなさに、両手でぎゅっと自分の衣を握りしめる。鈴花は、超がつくほどの方向音痴だ。特に、よく似た建物が並ぶ上にあちこちに木々や茂みが配され、故郷の村よりも広い後宮は、何度行き来しても覚えられない。



「もしかして、その首の上についてるの、頭じゃなくてうりか何かなんじゃなぁい?」



 嘲笑混じりの声に、周りの宮女達からも、どっと笑い声が巻き起こる。



「ひとりで帰ることもできないなんてねぇ。十七歳って言ってたけど、ほんとは七歳の間違いなんじゃない」


「じゃあね、瓜頭。ちゃんと片づけておかないと承知しないからね」


「今日は、夕食までに帰ってこられるかしらねぇ」


「あんまり遅くなると、また掌服長がおかんむりになるわよぉ~」



 くすくすと笑いながら、先輩宮女達が自分の担当分の着物を入れた籠を抱え、ぞろぞろと洗濯場を出ていく。



「私も早く自分の分を畳まなきゃ」



 とりあえず、片づけよりも先に洗濯物を畳まなくては、せっかくれいに干したのに変なしわがついてしまう。はっと我に返ると、鈴花はぱたぱたと自分の籠へ駆け寄った。


 鈴花が片づけを終えて洗濯場を出た時には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。重く垂れこめた黒雲からは、今にも雨粒が落ちてきそうだ。間違っても、籠の中のお仕着せをらすわけにはいかない。


 おぼろげな記憶を辿たどり、掌服の棟を目指して足早に進んでいくが。



「どこ、ここ……」



 はたと立ち止まり、鈴花は情けない声をらした。見覚えがあると思って曲がった角なのに、曲がった瞬間、見知らぬ景色が広がっている。いつもそうだ。この道だと思って進んでも、いつも目指す場所と違うところに出てしまう。



「早く戻らないといけないのに……っ」



 焦ってきょろきょろと周りを見回す。だが、辺りはしんと静まり、湿り気を帯びた空気に桃の甘い薫りが漂うだけだ。


 誰かいないだろうか。宮女でも宦官でもいい。誰か道を教えてくれる人に出会わなければ、いつまでも掌服の棟に戻れる気がしない。


 祈るような気持ちで視線を巡らせた視界の端が、かすかな光を捉える。


 まだ日は沈んでいないとはいえ、この暗さだ。誰か灯籠でも手にしているのだろうか。


 とにかく助かったとあんしながら、籠を抱えたまま、薄ぼんやりと明るい茂みの向こうを目指して早足で進む。がさりと茂みに袖をこすらせながら回り込み。



「っ!?」



 目の前の光景に、思わず息をんで立ち尽くす。


 灯籠の明かりだと思い込んでいたが、違う。


 鈴花の視線の先にいたのは、天上から舞い降りた神仙と見まごうような、全身に淡い銀の光をまとう、文字通り光り輝く美貌の青年だった。


 昔から鈴花の目には、まれに人や物が色づいて見えることがあった。原因はわからない。物心ついた時には見えていたので、おそらく生まれつきなのだろう。


 淡い青だの、薄墨色だの、浅緑だの……。鈴花の目には見える色が、家族はもちろん他の村人達の誰ひとりとして見えないものだと知った時にはもう、『見えないモノを見えると言う不気味な娘』という評判は、揺るがぬものになっていた。


『そう。私には見えないけれど……。鈴花には見えるのね。きっと鈴花の目は特別なんだわ。こんなに大きくてくりくりしたわいい目だもの』


 村の子ども達にうそつき呼ばわりされていじめられるたび、優しく慰めてくれたのは、姉の菖花だけだった。両親ですら、『わけのわからぬことを言う娘』『見えないものを見えると噓をつくわ、使いにやれば道に迷って帰ってこないわ……。出来のいい菖花と比べて、何と役立たずなんだろう』と疎んじていたほどだ。


 洗濯物の籠を抱えて立ちすくみ、鈴花は魅入られたように美しい青年を見つめる。


 色を纏った人を見たことは何度もある。けれど、内側から光があふれ出すような白銀の光を纏う人物なんて、見たのは生まれて初めてで。



「綺麗……」



 青年から目が離せぬまま、ほうけた声を洩らした鈴花は、青年もまた、いぶかしげに自分を見ていることに気がついた。役職こそわからないが、青年が纏う高価そうな絹の衣は、下級宮女の鈴花などよりはるかに高い身分だと一目瞭然だ。



「も、申し訳ございません! 失礼いたしました」



 我に返った鈴花は籠を脇において地面に両膝をつき、あわててこうべを垂れる。


 青年の神々しいほどの美しさに、魂が抜かれたようにれてしまった。無礼者と𠮟責されるかと、びくびくしながらうつむいて身を強張らせていると。



「掌服の者か。おぬしの名は? なにゆえここへ参ったのだ。掌服の棟とはずいぶん離れておろう」



 美貌に違わぬ耳に心地よく響く声で、青年が問いを発した。天上の調べを連想させるような響きの低い声に、あ、やっぱり男の人で間違いなかったんだ、と鈴花はのんきなことを思う。着ている衣や引き締まったしなやかな長身から、男性だろうと推測していたものの、顔立ちがあまりに整いすぎていて、ひょっとしたら男装した女人の可能性もあるかもしれないと考えていたのだ。


 下級宮女の鈴花は妃嬪のご尊顔を拝謁したことなどないが、もし華やかな女物の衣を着ていたら、確実に妃嬪の一人だと誤解したに違いない。というか、銀の光のせいで薄ぼんやりとしか見えない程度の鈴花でも、思わず見惚れてしまう美貌なのだ。もしはっきり見えていたら、老若男女問わず魅了していたに違いない。



「聞こえなかったか? なぜ、ここに来たかと聞いておる」



 圧を増した声音に、不可視のむちで打たれたように身体が震える。下手な言い訳をしたら、即刻クビになって後宮を追い出されそうだ。それだけは何としても避けなくては。



「申し訳ございません! 掌服の担当で鈴花と申します。後宮に勤めてからまだ日が浅いため、道に迷ってしまったのです。そのっ、銀の光が見えたので、道を教えていただけないかと思いまして……」



 口に出した途端、しまったと悔やむが遅い。噓を申すなと𠮟責されるに違いない。



「あの……」



 とっさに言い繕おうとした瞬間、不意に肩をつかまれ、乱暴に引き起こされる。肩に食い込んだ指先の力は、い破るかのように強い。



「お前……っ! 何を見た!?」


「ひぃっ!」



 無理やり持ち上げられた眼前に光り輝く美貌が迫り、見惚れるより先に、恐怖に悲鳴がほとばしる。刃のようにきらめく黒曜石の瞳は、鈴花を刺し貫かんばかりに鋭い。



「銀の光だと!? お前はいったい何を……っ!?」


「ち、違うのです! その、光り輝くご容貌がですね……っ」



 恐ろしさのあまり口からでまかせを言うが、肩を摑む青年の手は緩まない。



「痛……っ」



 みしりと骨がきしみ、思わずうめくと、我に返ったように青年の手がわずかに緩んだ。


 その隙を逃さず、地面に置いた籠を拾い上げる。鈴花の何が青年のげつこうを招いたのかわからない。だが、この場に留まっていては危険だと、本能が警鐘を鳴らしている。



「すみません、失礼します!」


「おいっ!? 待て!」



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