左遷太守と不遜補佐・23

椀に唇を宛てる瞬間、彼の口端が穏やかに笑った。


それを見た瞬間、赤伯は寝巻のまま飛び出した。

寝巻のまま飛び出したのは二回目。ひどい民の有り様を目にしたとき以来だ。


「あっ、たいしゅさまだー!」


通りがかりの幼い少年が言う。

一瞬肩を竦ませたが、集う民が声にするのは太守の体を案ずる言葉ばかり。


「みんな……なんで」

「なんでって、私たちのために、一人で倒れるまで農場作りをしていたんでしょう」

「それを見て見ぬふりなんて、出来やしませんよ太守様」


背後から、青明は赤伯の肩に自らの羽織を掛け、まだ万全でないその体を支える。


「さあ太守さま、これから一層お忙しくなりますよ」

「……ああ、そうだな。頼むぞ、青明」

「はい。補佐として、尽くしょう」



それからというもの、民の協力により農場の開発、流れ者の受け入れが進行した。

主に農場の管理は赤伯が行い、流れ者の身分整理は青明がした。


何より新たな発見としては、空白地に染め物に適した花が群生していたことだった。

これにより力弱い者や子供たちも仕事を得られ、中間部との商いの強化も始まった。


人々の生活が活気づいていくのが、日に日に、目を通して実感できた。


「はあ……うまくいきすぎてこわいくらいだ」

「そんなことは、こちらの書簡を片付けてからおっしゃってください」


外に出て動くことが好きとはいえ、赤伯も太守だ。

本来は太守館のなか、(赤伯にとっては)小難しく面倒な仕事と向き合わねばならない。


青明が腕に抱えた書簡を見て、赤伯は筆を鼻の下に挟む。


「はしたないですよ、太守さま」

「はいはい。早く視察に出掛けたいよなあ?」

「わたしに同意を求めないでください。それに、『はい』は一度で結構でございますよ」


筆を外すと赤伯はにやりと笑った。


「図星か? 図星だからか?」

「いい加減になさい」

「痛ぇー、おい、仮にも太守だぞ俺は」


書簡で軽く頭を叩かれる。つんとした様子の青明だが、どこか浮かれていることは分かった。

いや、彼の場合、意外と分かりやすいのだ。初対面が最悪だっただけに。


「小さな草花も、集まればすごいだろ?」

「はいはい……」

「『はい』は一回じゃなかったか?」

「太守さま!」


執務室内に赤伯の笑い声が響き渡った。そして追うように、青明も控えめに笑みをこぼす。


「……お前が補佐でよかったよ」


その言葉にはっと顔を見る。赤伯の顔はその名前以上に赤い。

しかし、自分も同じなのだろう。こんなに熱くなったことが人生で一度たりともあったか。


真剣に仕え、こんなに楽しい日がやってくるとは。家のためではなく、自らのために職をまっとうしている。

今は補佐という家系に生まれたことを、いや……自らが仕えるべき太守が赤伯だということに胸を張れる。


「太守様、こちらに補佐様もおいででしょうかっ?」


不意に投げられたその言葉が、穏やかな空気を拐っていった。なんだか外がばたばたと騒がしい。

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