第11話 嘘つき

 加奈は佐藤の小さな手を取った。

 手をしっかり握ると、佐藤は弱々しく握り返してきた。


 手を繋いで歩き出し、潰れた神社の横を通り、獣道のような雑草が生い茂った荒れた道を進んだ。木々が枝を伸ばして太陽の光を遮った道は、暗く、水が溜まっていて、たまに吹く風が唯一の清涼だった。


 しばらく歩くと、川が流れる音が聞こえてきた。

 今まで降り続いた雨のせいでぬかるんだ地面を踏みしめ、ついに川まで辿り着いた。川の傍で、甲羅を背負った河童がしゃがみ込んでいた。


 河童が振り返った。

 三十路過ぎの女性の顔をした河童は、ぎぎっと妙な声をこぼした。


「お、お母……」

「違う! あれはあんたの母親じゃない!」


 熱と肉を持った小さな汗まみれの手を、加奈は痛いくらい強く握った。


「菜々美……。どうして……?」


 河童が濁った笑みと見開いた眼を向けて歩いてくる。


 ぺたり。

 ぺたり。

 ぺたり。


「だ……だって……、顔が……」


 佐藤は目を背けた。前髪で視界を隠し、俯き、泥濘に視線を落とした。


「ちゃんとよく見ろ! お前の母親は、本当に化けて出るほど、娘を憎んでいたの!? 水難避けのお守りを買ってきて、溺れたら命がけで助けに行って、それで嫌ってると、恨んでいると、本当に思ってるの!? 違うでしょ! あんたが目を背けているのは、母親に対してなんかじゃない!」


 ぐにゃりと、河童が歪んだと思うと、それは姿を変えた。


「あれは、あんたの穢れ。菜々美という子供が、背負い続けることから逃げ出して、放り出した、母親に対する罪悪感……」


 河童は、泣きじゃくる、菜々美の子供姿へと変貌した。


「あれは、菜々美自身だ」


 顔を上げて、自分自身を見た佐藤は、崩れ落ちて膝と手をついた。


「…………だ、だって。大好きだったお母さんが、自分のせいで死んだなんて、思いたくなくて……。いっそ、私が死ねばよかったって、お母さんに、連れて行ってもらいたかった……!」


 泣きじゃくった声で、弁明するかのように言う佐藤は、駄々をこねた子供のようだった。


「でも、あんたは抵抗した。でなきゃ、あんたが橋から落ちかけた時、私の助けは間に合わなかった」


 加奈がそう指摘すると、菜々美はびくりと、怯えたように震えた。

 罪悪感から逃れたいためだけの逃避行こそ、河童の正体であり、何も本当に死にたいわけではない。

 苦しさから逃げたいだけで。


「あんたは、生きたいんだよ。生きたいなら……、ちゃんと、拾いに行け」


 佐藤は泥で汚れた袖口で涙を拭いつつ、泣き叫ぶ子供の自分に近づいていった。

 Tシャツに短パン姿の小学生の手を取ると、その姿はかき消え、後には濡れた形代だけが、


 ひらり、

 ひらり、


 と宙を舞った。


 形代は意思を持っているかのように、佐藤の手の平の上に落ちた。

 ぼうっと、形代を見つめていた佐藤は、突然座り込んで、さきの子供のように、わんわんと泣き出した。


「お母さん……! お母さん……! ごめん、ごめんなさい……」


 みっともなく泣き叫ぶ佐藤を見て、加奈は自分と同じなのだと思った。

 自分に嘘を吐き、本質から眼を逸らし続けてきた。

 それは、加奈も同じだった。


 人には見えないものが見える加奈は、見えないふりをすることで、避け続けてきた。

 しかし、実際に見えている以上、今回のように巻き込まれることは往々にしてあるだろう。


 自分を騙し、瞼を閉じようとも、彼岸は変わらずそこにある。彼岸のものらと此岸の人間とが邂逅してしまう事実は消えない。

 だからといって、彼岸のものと積極的に関わるつもりはない。今回はたまたまうまくいったが、浅知恵で素人が下手に手を出せば、更に事態が悪化することだってある。

 ただ、見ないふりをするのではなく、見えた事実を真摯に受け止める努力はするべきだろう。


「とりあえず、まずは……」


 あの泥と涙と鼻水だらけの空気の読めない友達を、風呂にでも突っ込もうと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る