第5話 菅原道真

「あっ!」


 佐藤は慌てて橋の下を覗いた。


「い、いない……?」


 飛び込んだ河童が見つからないのか、首を左右に振りながら探している。

 佐藤が無人の川に気を取られている間に去ってしまおうと、加奈はひっそりと歩き出そうとした。


「ねえ! 加奈さん! あの河童、どっか行ったんたけど!?」


 がっしりと、制服を掴まれた。


「……手ぇ離してくんない?」


 関わりたくない。

 関わりたくない。

 加奈のスタンスは変わらない。

 むしろ、佐藤が先ほどの河童と関わりがあるのであれば、尚のことだった。


「河童、いたよね?」

「は? 河童とかいるはずなくない?」

「いや! たった今一緒に見たでしょ!」


「さっきの軽トラ、煙草ポイ捨てしてたじゃん。マジむかつく」

「話逸らさないで!」

「佐藤の傘めっちゃかわいいじゃ~ん。センス良すぎ~」

「お父さんのなんだけど」

「……」

「……」


 流石に無理があると、加奈は諦めた。


「あー、ハイハイ、見ました、見ましたよ? なんか、何? 河童? 変なのいたね」


 ただし、ぼかす感じに。


「さっき、加奈さんが唱えてた呪文?みたいなの、あれで河童逃げ出したでしょ? あれってなんなの?」

「呪文? ううん? 何それ~? 加奈わかんな~い」

「あれ? 一人称そんなんだっけ?」

「……」


 加奈はどの程度であれば説明しても自分に害がないかそろばんを弾き、菅公かんこうの話であれば別段問題ないと判断した。


菅原道真すがわらのみちざねって知ってる?」

「え? えっと……、学問の神様?」

「まあ、私もよく知らないんだけどさ。平安時代の人で、死後怨霊化したのを鎮めるために天神として祀られたとかなんとか」


「そういえば、さっきの呪文で言ってた菅原って……」

和漢三才図会わかんさんさいずえっていう、江戸時代だかの事典に菅公が詠んだ歌があって、これを口にすれば河童の災いを避けられるだって」

「やっぱり詳しいじゃん!」

「これは昔、じいちゃんに聞いた話! そもそも、昔はこの辺にも、菅公を祀った神社があって、その神主とじいちゃんが仲良かったから、知ってるだけだっつーの」


 加奈は鞄から出したノートの端をちぎって、制服のポケットに入れていたボールペンで先ほどの歌を書き、佐藤に手渡した。


「はい、これ。歌書いてあるから、それでいいでしょ」

「あ、ありがと」

「ただし、私、幽霊とか妖怪とか、そういう話嫌いだから、私の前ではそういう話は禁止。いい? それじゃ」


 佐藤に背を向けて、これで本当に立ち去ろうとしたところで、今度は手首をがっしり掴まれた。


「……手ぇ離してくんない?」


 睨みつけて、加奈は佐藤を威嚇した。


「……手ぇ貸してくれない?」


 一方で佐藤は、困った表情を顔に貼り付けつつ、上目遣い気味に懇願した。


「嫌だけど」

「お願い! ハーゲンダッツ奢るから!」


 最大限の報酬と言わんばかりの態度で、佐藤は両の手を合わせた。

 確かに、中学生の少ないお小遣いでハーゲンダッツは高級品だが、嫌なものは嫌だった。


「絶対に嫌」

「ハーゲンダッツ二つ!」

「……」

「三つ!」

「…………」

「よっ……、よ、四つ……」


 苦しそうな表情で、ハーゲンダッツを絞り出す佐藤。

 ハーゲンダッツで、世の交渉のすべてをまとめられるとでも思っているのだろうか。


「多いわ。腹壊すでしょ」

「うぐぐぐ」

「唸るな」


 加奈は大きくため息を吐いた。


「あの河童……、あんたの母親と関係あんの?」

「……顔が、似てる……」

「娘の前に化けて出るような心当たりは?」

「…………ある」


 加奈は少し考える。

 加奈は見えるタチであっても、妖怪について知識が多い訳ではない。

 たとえ見えたとしても、関わらないように生きてきたためであった。

 ただ、神社の神主や祖父は加奈が見えるタチだと知っていたため、彼らが知っていることの一部を教えてもらっていた。先ほどの菅公の歌もその一つだ。


 少なくとも、その知識の中に、死んだ人が河童に化けて出るという話はない。知らないだけの可能性は十分あるため、調査する必要はあるが……。

 いや、そもそも、どうして自分が佐藤を手助けする必要があるのか。

 と考え、直ぐに自分の行動に思い当たった。


 最初に、自分から佐藤を助けてしまったからだ。


 無論、助けなければ佐藤は酷いことになっていただろうことは想像に難くないし、佐藤を助けることができたのは良かったとは思っている。

 しかし、もし事前に、佐藤が彼岸のものと関わりがあると知っていれば助けていただろうか。


「……どちらにしても、結局助けたか……」

「……?」


 流石に見殺しは後味が悪い。

 ここで加奈が佐藤の頼みを断れば、昨日、加奈が佐藤を助けたのも無駄になりかねない。

 佐藤はあの河童が母親に似ているといい、自分には母親に恨まれる何らかの心当たりがあるという。

 加奈が見捨てた結果、河童に川に引きずり込まれることをヨシとされては敵わない。


「……条件」

「え?」

「三つ条件を守れるなら、協力してもいい」

「……うん」


「一つ目、人のいるところでは幽霊とか妖怪とか、そんな話はしないこと。二つ目、私が幽霊とか妖怪とかを見える人だと人に言わないこと」

「うん、うん。言わない。大丈夫」

「最後、三つ目は……、私に、ハーゲンダッツを奢ること」

「ハーゲンダッツ!」

「クリスピーサンドね」

「任せて!」


 約束を交わして佐藤と別れた直後、加奈は早速後悔し出した。

 早まったかもしれない、と。

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