第2話 母の影
五年ぶりの故郷は濡れていた。
しとしとと降りしきる雨が、田んぼの苗や
菜々美は、引っ越してきてからずっと続いている雨で気が滅入っていたが、今日の出来事で更に気分が落ち込んでいた。
今日は、
河之辺町は大きな町ではないため、中学校のクラスには、小学校の時のクラスメイトが多く在籍していた。
昔の記憶と照らし合わせると、皆成長していたものの、大方一目で名前と顔が一致した。
小学校で仲が良かった彩花という少女と再会し、その上、給食や掃除のグループまで一緒だった。
そのため、あまり気負うことなく馴染めると思ったが、クラスメイトの菜々美に対する印象は、既に噂によって決定されていた。
「佐藤さんって、心の病気で入院してたってほんとなの?」
給食の時間、向かい合ってパックの牛乳を飲んでいた高田が、初対面で不躾にもそう聞いてきたため、菜々美は面食らった。
「ちょっと、止めなよ」
彩花が三つ編みの髪を揺らしながら止めに入ってくれたが、高田は止まらなかった。
「大っきな病院に入るために、ここから引っ越したって聞いたけど?」
高田の若干ウェーブがかかった髪を見て、先生に注意されないのかな、と場違いな感想を頭の隅で考えながら、目の前の問題に取りかかった。
「どうして、そんな話になってるの?」
「佐々木だよ、ほら、覚えてる?」
小学校の時に妙に突っかかってきていた坊主頭の野球少年の顔が思い出された。
女子にバッタや毛虫などの虫を見せびらかして、怯えさせるような奴だった。
ある時、菜々美のスカートのポケットにコオロギを入れてきたので、思い切り顔を引っぱたいて大泣きさせたことがあった。
「菜々美が小学校から転校して直ぐにそんなこと言い出してさ。そんで、今度菜々美が町に戻ってくるからって、その話を蒸し返してんの。ああ、でも、大丈夫。そんな広まってる訳じゃないから。せいぜい、このクラスだけだから」
菜々美は別グループで給食を囲っている佐々木を見やると、思いかけず目が合った。
菜々美が眉をしかめて睨みつけると、佐々木は慌てて目を逸らした。
「じゃあ、佐々木のホラなんだ」
高田が「なーんだ」とつまらなそうに言った。
「単純に、お母さんが亡くなったのと、お父さんの転勤が被っただけ」
「あ……、そうなんだ。なんか、ごめん」
「五年も前の話だし、いいよ。っていうか、悪いのは佐々木」
そうしたやり取りが昼休みにあり、妙に暗い気持ちになっていた。
噂の内容そのものはあまり問題ではなかった。菜々美の気分を落ち込ませるのは、噂話が母親のことを思い出させたからであった。
「ああ……、いけない、いけない」
余計なことを考えそうになった頭を振って、菜々美は早く家に帰ろうと歩調を早めた。
転校初日の帰り道は一人きり。
彩花も高田もバスケ部の練習があるらしい。
真っ直ぐの二車線の道路から脇道に逸れて、急勾配な短い坂道を登る。
坂道の先にある石造りの橋を渡っていたところで、誰かが呼ぶ声がした。
「菜々美」
思わず足を止めて、声の方向を見るが、橋の
念のため、後ろを振り返るが、車一台半ほどしかない狭い橋は、菜々美しか歩いていなかった。
「……ちょっと、やめてよね」
気のせい、気のせい、と自分に言い聞かせて、菜々美は大きく息を吐いた。
そして、足首を誰かに掴まれた。
「あ……」
びっしょりと濡れた手の感触が靴下越しに感じられたと思うや否や、強い力で引っ張られた足が掬われて、菜々美は横倒しになった。
傘を手から落とし、水たまりに顔から突っ込んだ。
コンクリに打ち付けられた肩と手の平に鈍い痛みがあった。
髪と頬が水と泥に濡れて気持ち悪かった。
足首を掴んだ手は、更に菜々美を引っ張った。
腹這いになれば人が一人通れる欄干の隙間に、菜々美の成長途中の小さな体が吸い込まれていった。
遂に橋から落ちそうになったところで、菜々美は反射的に欄干の手すり子に腕を回した。
「……っ! だ……誰か! たす……」
助けを呼びかけたところで、菜々美の引っ張っているものが何か口にした。
「どうして……?」
それは、菜々美の母の声だった。
思わず、手すり子に回した腕の力が弱まった。
「ちょっと! あんた大丈夫!?」
欄干の向こうから、菜々美と同じ中学校の制服を着た茶色がかったセミロングの女子が顔を出した。
女子は、菜々美を見下ろすと、怯えたように目を見開いた。
「な、何……それ……」
彼女が怯えたのを見て、菜々美は、自分の足を引っ張っているものが、何か尋常ではない存在だと思った。
びしょびしょに濡れた手、死んだ母親に似た声、足を引っ張って川に引き込もうとする行為……。それこそ、ホラー映画に出てくる幽霊のような……。
「……い、いにしへの……」
女子はぼそぼそと口を動かして何かを喋りだした。しかし、声が小さすぎて、菜々美の耳には届かなかった。
「……だち男……氏は……」
彼女の口が止まると、不思議と菜々美を引っ張る力がなくなったのを感じた。
「ほら、手ぇ伸ばして!」
「あ……」
差し出された彼女の手を取り、引っ張り上げてもらい、欄干の手摺りを掴ませてもらうと、後は自分の力で橋の上まで戻ることができた。
「はぁ、はぁ……」
息を切らして、濡れるのも構わず菜々美はへたり込んだ。
「あ、あの……、ありが……」
引っ張り上げてくれた彼女にお礼を言おうとしたが、彼女は既に傘を差して橋を渡りきろうとしていた。
「え? え? ちょ、ちょっと待って……!」
菜々美の制止も聞かずに橋を渡りきった彼女は、そのまま十字路を左に曲がって見えなくなった。
「…………な、なんなの……?」
一体彼女は誰だろうかと考え始めたところで、菜々美は自分が震えていることに気がついた。
雨に濡れて寒いからか、恐怖からか。
自然と、先ほどまで掴まれていた足首を撫でている自分がいた。
菜々美は欄干にしっかり掴まりながら、そっと、橋の下を覗いた。
橋の下には増水した川が流れているだけで、誰かの影を見つけることは叶わなかった。
死んだ母親とそっくりな声の、誰か。
「……幽霊……」
母親の幽霊に引っ張られたと考えることと、菜々美を待ち受けていた誰かに橋の下から引っ張られたと考えることと、どちらが現実的だろうか。
菜々美への執着という意味だと、後者の方が怖い気がした。
人気の無い田舎なのだから、普通に誘拐しろよ、嫌がらせか? と思った。
「くしゅっ」
くしゃみが出たところで、菜々美は思考を止めて、代わりに足を動かした。
答えの出ない問いかけよりも、今は熱いシャワーとはちみつを落としたホットミルクの方が重要だった。
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