第28話
木箱の中には、丁寧に折り畳まれた一枚の紙と20cm程の長さの針が入っていた。
速る気持ちを抑えながら紙を開くと、一番上に書かれた「紐付け針」という文字が裕作の目に飛び込んできた。
紐付け針。父からは聞いたことのないものだった。
裕作は続く文章を目で追った。
「紐付け針を使用すると、使用者の一番大切な縁が失われます」
冒頭に一際目立つ文字でそう書かれていた。
その下には紐付け針の使い方が箇条書きで記載されている。
紐付け針に身体が接していれば、縁切りハサミで切った縁の切れ端が見えること。
互いに忘れて自然消滅してしまった縁は紐付け針を使っても可視化できないこと。
縁の切れ端に紐付け針を刺すと、縁切りハサミで切った縁を元に戻せること。
「一度切った縁は二度と元には戻せません」
これまで幾度となく口にしてきた縁切りの根底。
それを覆す存在に裕作は大きな衝撃を受けて立ちすくんだ。
これを使えば切った縁を元に戻すことができるのだ——一番大切な縁と引き換えに。
裕作の頭の中で、なんでこんな重大なものの存在を教えてくれなかったんだという父に対する憤りと、一体これをどう扱ったら良いんだろうという困惑が一気に膨れ上がったが、その想いはやがて膨らみすぎて破裂してしまった風船のようにしゅんと萎んでいった。
これまで通り、何も変わらない。
縁切りの前には「一度切った縁は二度と元には戻せません」と口を酸っぱくして念押しするし、縁切りの後に依頼人がどれだけ後悔していようと元に戻す術は無いのだと突っぱねる。
それで良いのだろう。
縁切りなんてただでさえ難しい決断をする時に余計な但し書き——但し一番大切な縁と引き換えであれば切った縁も元に戻せます——なんて無い方が良いし、そもそも依頼人に紐付け針を渡して使って貰う訳にもいかないだろう。
かといって裕作自身が依頼人のために使うのかと問われれば。
裕作の脳裏にちょうど一年程前に縁切りした母子の姿が昨日のことのように蘇った。
自身を二十歳だと称する母親は実際にはまだ高校生くらいに見えた。
幼さの残る外見とは裏腹に追い詰められた顔で事務所の扉を叩いた女性の腕の中には産まれたばかりの赤ん坊が抱かれていて、母親の温もりに包まれてすやすやと眠っていた。
どこにも頼る宛が無く、赤ちゃんと一緒に心中しようとしたが、自分の腕の中で眠る小さな命を見るとどうしても死に切れなかったのだと、その女性はポツリポツリと言葉を吐き出し、やがて落ちた言葉を覆い隠すかのように大粒の涙を流した。
そして涙を流し尽くした後で、やけに落ち着き払った様子でこう口にした。この子は施設に預けようと思います。
だから——
「だから私とこの子の縁を切って貰えませんか?私はこの子を殺そうとした。それは決して許されることではありません。いつかこの子に許されたいなんて虫の良い思いを抱かないように」
女性の意思は強く、危うかった。
裕作のありきたりな慰め一つで母子の命はどうにでも転がってしまいそうで、言葉を掛けることすらできなかった。
縁切りをすることで二人の命を救えるのなら。
本当はもっと良い方法があったのかもしれない。
いや、きっとあったのだろう。
ただどうすることもできなかった裕作は、縁切りハサミで母子の縁を切った。
春の日差しみたいに暖かい色の、ふんわりと柔らかい綿のような縁だった。
もしもあの時の女性から切った縁を元に戻したいのだと言われたら、あの母子のためなら自分で紐付け針を使うかもしれないな。
裕作はそう思うと同時に、ああそうか、と納得した。
だからこそ父は紐付け針の存在を隠していたのだろう。
裕作が依頼人のためにこの道具を使ってしまうことがないように。
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