第24話
駅前にある行きつけの居酒屋は、何度拭いても取れない机のベタベタと未だに存在するのかと感動すら覚えるボットン便所にさえ目を瞑れば、酒とつまみの味は絶品なのだけど、流石にここに亜由美を連れていくのは憚られる。
裕作は、馴染みの看板を横目に通り過ぎ、小綺麗なお店が並ぶ方に足を向けた。
「いまさらですけど、何か食べたいものはありますか?」
亜由美は少しだけ考える素振りを見せた後、
「この辺りにはあまり詳しくなくて。神田さんのおすすめのお店はありますか?」
「おすすめですか。そうですねえ——」
特に条件をつけなければおすすめのお店なんていくらでもあるのだけど、「おしゃれ」と「女性好み」の二つを検索キーワードに加えただけで、ヒットするお店は1件も無くなってしまう。
裕作はどうしたものかと頬をさすりながら、ああそうか、別に格好つける必要なんてないのだから、
「すみません、普段は一人で食事に来ることが多いものですから、ゆっくり話しながら食事できるようなお店には詳しくないんです。」
と正直に言った。
「ですから、あの辺りのお店で良さそうなところに適当に入りませんか?」
「いいですね、メニューを見てみましょうか」
先立って歩く亜由美の後に続いて、お店を物色しながらぶらぶらと歩く。
時折足を止めてメニュー表を眺める亜由美の後ろから、裕作は少し背伸びをするようにメニュー表を覗き込んだ。
パスタ専門店、小鉢が並ぶ定食屋、野菜たっぷりのつけ麺屋、イタリアンから和食までジャンルはごちゃ混ぜだけど、どれも一様に「#おしゃれディナー」でタグづけされていそうなお店ばかりだった。
裕作は、なんだか肩が凝りそうだなと苦笑いしながら、次のメニューを覗き込む。
ビールに合いそうなガーリックシュリンプが目を惹いた。
どうやら多国籍料理を扱うバーのようだった。
「ここはいかがでしょう?」
メニューをめくっていた亜由美がくるりと裕作の方に向き直って尋ねる。
裕作が思わず仰け反りながら、
「いいですね。ここにしましょう」
と答えると、亜由美は早速お店の中に入って行った。
亜由美が先頭だってお店を探してくれたことも、バーを選んだことも、なんだか意外だ。
少し呆気に取られながらも秋の空気のような清々しさを感じながら、裕作もお店に足を踏み入れた。
お店の中は半分ほどが埋まっていた。
テーブル席とカウンター席があって、机も椅子も重い光沢のある焦茶で全て統一されている。
オレンジ色の照明に照らされて光を放つ木製の机は、間違ってもベタベタなんてしなさそうだった。
亜由美はカウンター席の方を選んだようで、ちょうど端っこの席に真っ直ぐに座っていた。
裕作は亜由美の左横の椅子を引く。
「只野さんもお酒を飲まれるのですか?」
「いえ、たぶん飲まないのだと思うのですが」
「たぶん?」
「ええ、たぶん。記憶を失う前がどうだったのか分からないので。ただ、少なくとも、記憶を失って以降は飲んでいないですね」
記憶を失うと自分がお酒を飲むタイプなのか、飲まないタイプなのかさえも分からなくなってしまうのか。
それは大事件だな——少なくとも俺だったら。
裕作はドリンクオーダーを取りに来た店員に「とりあえずビール」と告げながら、なんとかして亜由美の記憶を取り戻す手助けをしようと改めて心に誓った。
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