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 すっかり固まってしまったツェツィーリアにエリオットは歩み寄る。そしてその場に膝をついて項垂れるように頭を下げた。




「すまない。ツェツィーリアに……ツェツィに誤解をさせてしまったのは、俺の態度にも責任がある」




 項垂れたまま、ちらりと深紅の瞳がツェツィーリアを見上げる。




「愛想を尽かされたと、思った。俺はキアランと違って不愛想で気も利かず、愛の言葉一つ囁けないから」




 なぜここでキアランの名が出てくるのかツェツィーリアは心底分からなかったが、エリオットの思い詰めた表情を前に口を挟むことはできなかった。




「ツェツィには俺より相応しい相手がいると、ずっと思っていた。ツェツィの方こそ、“尻拭い婚約”に縛られていると」




 ――どうやらツェツィーリアとエリオットは全く同じ気持ちだったらしい。

 “尻拭い婚約”という言葉に縛られ、周りの目や声を気にして、相手の気持ちを勝手に決めつけて、自分は相応しくないと独りよがりの悲しみに暮れる。

 幼い頃はもっと素直に、周りのことなんて気にせずに相手のことだけを見ていたはずなのに。信じていたはずなのに。いつから相手のことより周りのことを気にするようになってしまったのだろう。

 ツェツィーリアはそっとエリオットの肩に手を置いた。そしてこちらを見上げる瞳に微笑む。




「……ごめんなさい、エリオット。あなたの声より他人の声を信じてしまったわたしをどうか許してください」




 エリオットは大きく頷いた。普段より幼い婚約者の仕草に頬が緩み――今の彼が本当の彼なのだとツェツィーリアは思い直した。

 小さくて甘えん坊だった幼い頃のエリオットこそが本質で、グレーシェルの婚約者として完璧な“エリオット・ベルトラン”は彼が努力して作り上げたものだ。そのことに今日まで思い至らなかったという事実が、後ろめたさを抱えるあまりエリオットと真正面から向き合ってこなかったことを証明している。

 エリオットのためと言いつつ、ツェツィーリアは自分のことしか考えていなかったのだ。“尻拭い婚約”からエリオットを解放したかったのではない。幼い頃から抱えていた罪悪感から、そして劣等感から、他でもない自分自身が解放されたかったのだ。

 考えれば考えるほどツェツィーリアは自分の愚かさに嫌気が差した。しかしこんなにも愚かな自分を、エリオットは許してくれるという。




「ありがとう、エリオット」




 未だ地面に膝をついたままのエリオットの頭がちょうど胸元あたりにあり、ツェツィーリアは思わずその頭を抱き込むようにして抱き着いた。

 突然のことに一瞬抵抗を見せたエリオットだったが、縋るように抱きしめる腕にぎゅっと力を込めると大人しくなる。そしてそろそろと背中に腕が回された。

 触れるぬくもりに涙が出そうになる。自分が手放そうとしていたものの大きさを今更ながら思い知らされて、ツェツィーリアはぞっとした。このぬくもりを捨てて自分はどうやって生きていくつもりだったのだろう、と。

 人目も憚らず少し変わった体勢で抱き合うツェツィーリアとエリオットに好奇の視線が向けられる。何事かと囁く声が聞こえる。しかしツェツィーリアはまったく気にならなかった。ただ傍らの愛おしいぬくもりにそっと頬を寄せた。

 ややあって、ツェツィーリアはエリオットから体を離す。そして謝らなくてはいけないもう一人の人物を見た。

 ――ソニア・マルティン。身勝手な勘違いで巻き込み、自身の知らなかった出生まで明かされることとなった少女。間違いなく今回一番迷惑をかけた大切な友人。




「本当にごめんなさい、ソニア。どう謝ったらいいか……」




 罪悪感と後ろめたさからソニアの顔を見ることができず、自然と頭を下げる体勢になった。それから数秒。ゆっくりとソニアが近づいてくる気配がしたので、ツェツィーリアは腹を括って顔を上げる。

 それでも依然、ソニアの顔を見ることができずにいた。ツェツィーリアの胸の内には、絶交されても仕方がないという諦観と、これからも友人でいて欲しいという往生際の悪い願望が綯い交ぜになっていた。

 俯くツェツィーリアの視界に細く美しい手が差し伸べられる。そして、




「これからも、友達でいてくれる?」




 歌うように軽やかに投げかけられた言葉に、ツェツィーリアは勢いよく顔を上げた。

 ソニアは微笑んでいた。美しく、愛らしく、それでいてどこか悪戯好きな子どものように。

 ――どうやら彼女もまた、愚かなツェツィーリアを許してくれるらしい。

 鼻先がツンとする。眦に浮かんだ涙を指先で拭って、差し出された右手を握り返した。

 美しい手だ。それでいて硬く引きつった指の腹が、ソニアの今までの努力を物語っている。初めて出会ったときはこの美しい手と自分の手を比べて、ツェツィーリアは恥ずかしいと思った。傷一つない自分の手が、今までの人生の薄っぺらさを物語っているように思えて――

 今もその思いは消えていない。けれど恥ずかしさよりも、大きな喜びがツェツィーリアの胸を支配していた。




「もちろんよ、ソニア。本当にありがとう」




 ツェツィーリアは感極まってソニアに抱き着いた。細く、柔らかな体が一瞬驚きに強張って、しかしすぐに抱き返される。

 しばらくツェツィーリアはソニアに抱き着いたまま、己の愚かさと幸運を噛みしめていた。多くの人々を巻き込んだ“勘違い”、そんな“勘違い”を許してくれた大切な人たち。あぁなんて自分は愚かでありながら恵まれているのだろうと噛みしめ、涙ぐむ――

 ふと軽く肩を叩かれ我に返った。ソニアとの抱擁を解き、ゆっくりと振り返る。すると仏頂面のエリオットがこちらを見下ろしていた。




「エリオット?」


「指輪」




 エリオットはツェツィーリアの握られた左手を指さす。そこで自分が指輪を握りしめていたことにツェツィーリアはようやく気が付いた。

 どうやら彼は指輪を返して欲しいらしい。




「え? あ、あぁ、はい」




 エリオットの大きな手のひらの上に指輪をそっと置く。するとエリオットは指輪を持っていたツェツィーリアの左手ごと強く握りしめた。そして器用に指輪のみ指先でつまみあげると、掴んだツェツィーリアの左手はそのまま、再びその場に膝をつく。

 どうしたのかとツェツィーリアが問いかけるより早く、エリオットは口を開いた。




「結婚してくれ」




 ――こちらを見上げる深紅の瞳に、ツェツィーリアは束の間息を忘れた。

 自分たちの結婚は一生後ろ指を指され続けるだろう。尻拭い婚約ならぬ尻拭い結婚だ、と。どれだけ言葉を尽くそうとエリオットを憐れむ声はなくならないだろうし、ツェツィーリアを揶揄する声もまた消えない。

 エリオットは一生グレーシェルに囚われることになる。国民からの支持と“加護持ち”の血をグレーシェルは手放そうとはしないはずだ。いくら互いに好ましく思っていても、それだけでは乗り越えられない壁に阻まれる日が来るかもしれない。

 ――けれどもう、ツェツィーリアは迷わなかった。惑わされなかった。ただ自分の心に素直になって、一つの道を選んだ。




「はい」




 頷いた瞬間、エリオットの瞳が輝いたのは見間違いではないだろう。彼はそれを隠すように俯いて、しかし彼の長い前髪をもってしてでも、緩んだ口元を隠すことはできなかった。

 ツェツィーリアの左手薬指に美しい指輪が嵌められる。その際、婚約者の指先が震えていることに気が付いて、ツェツィーリアは愛おしさで胸がいっぱいになった。

 ――刹那、どん、という大きな音と共に夜空に華が咲く。




「……花火?」




 ぽつり、と呟いたのはソニアだった。

 友人の呟きに誘われるようにツェツィーリアは空を見上げる。すると再びどん、と打ち上げられる大きな花火。色とりどりのそれは、まるで今日という日を祝っているかのように思えた。今日――ガードナー王立魔法学院の、創立記念日を。 

 三人は勢いよく顔を見合わせる。そして、




「オープニングセレモニー!」




 声を合わせて叫んだ。




 ***




 エリオットとソニアが予め準備をしていた待機場所に、一つの人影があった。




「まったく、念のため待機しておいてよかったぜ」


「殿下!」




 公務で今日は休むと言っていたキアランの姿にツェツィーリアは動揺を隠せない。

 なぜ彼が――と考え、もしかすると今日の出来事は全て、偉大な恋のキューピット・キアランの演出によるものだったのかもしれない、と思い直した。

 エリオットの話を聞くに、ソニアの父・ギヌルラン男爵の件にはキアランも一枚噛んでいたようだ。そして何より、ツェツィーリア側の企ても彼は知っていた。だとすると彼の性格的に、ツェツィーリアとエリオットのすれ違いを見過ごすことをせず、この大団円ハッピーエンドにたどり着くよう奔走してくれていた可能性が高い。

 公務の話は嘘だった。だとすると、ツェツィーリアのパートナーの代理には最初からエリオットをあてがうつもりだったのだろうか。エリオットが用意していた指輪だって、キアランの入れ知恵によるものかもしれない。それに、彼が以前打ち明けてくれた本命カップルの正体は、まさか――




「どうせ話が長くなるんじゃないかと思ってな。感謝しろよ?」




 ぱちん、とキアランはウインク一つ。何もかもお見通しだと言わんばかりの自信に満ちた笑みに、ツェツィーリアは深く考えることをやめ、ただただ彼に感謝した。

キアランの金の瞳がツェツィーリアの左手薬指の指輪を見て細められる。そして、




「うまくいったみたいだな」




 彼は短く、けれど嬉しそうに言った。

 キアランは多くを語らない。だから今回のこともすべてを明らかにするつもりはないだろう。けれど彼の協力が随所であったことは確かだ。そしてキアランがいなくては、今日という日を迎えられなかったに違いない。

 どうすればキアランの協力に報いることができるだろうか、と頭を悩ませるツェツィーリアの手をエリオットがとった。ふと見上げると、月夜をバックに細められる深紅の瞳と視線が絡む。




「踊っていただけますか?」


「……えぇ、もちろん!」




 ツェツィーリアが大きく頷いた瞬間、祝福とばかりに一際大きな花火が打ち上げられた。

 ――煌びやかな光と豪華な食事に囲まれた講堂ホールではなく、空に輝く星々に見下ろされ、母なる大地の上でツェツィーリアとエリオットは踊った。その様子を間近で見ていたソニアは後に、夜空に輝く満天の星より美しいワルツだった、と目を輝かせて語った。



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