23




「明日、オープニングセレモニーの準備で、ソニアと共に外出する」




 週末、学院から帰る馬車の中でエリオットはそう言った。ツェツィーリアはにわかに色めき立つ。

 ――学校行事のためとはいえ、“婚約者”としてツェツィーリア以外の異性と二人きりで行動することを頑なに避けていたエリオットが、ソニアと休日に外出するなんて!

 それは大きな変化のように思えた。エリオット本人が、“婚約者”という柵から少しずつ解放されつつあるのかもしれない。

 感動を噛みしめるツェツィーリアを無言で見つめ続けるエリオット。どうやら彼がツェツィーリアからの返答――許可を求めているのだと気が付くのに数秒を要した。




「分かったわ。行ってらっしゃい」




 どこに行くのかすら聞かず、ツェツィーリアは笑顔で頷く。するとこちらを見下ろすエリオットがぐっと顎を引いたことで、前髪の影が彼の端正な顔に落ちた。

 許可をもらえて喜んでいる表情にはとても見えない。かといって顔色も悪くない。ただ何度か小さく口が開き、その度に唇を引き結び、何かを言おうとして悩んでいるような様子だった。

 ツェツィーリアはじっとエリオットの言葉を待つ。こういうとき、下手に声をかけてしまうと彼はかえって口を閉ざしてしまうのだ。

 たっぷりと十秒。待ち続けたツェツィーリアの鼓膜を揺らしたのは、




「ツェツィーリア、その……」




 喉の奥から絞り出したような、重々しいエリオットの声だった。

 初めて聞く婚約者の声にツェツィーリアは心底驚きつつ、しかし普段通りを装って明るく尋ねる。




「どうしたの?」




 再び落ちる沈黙。待つこと今度は二十秒。

 エリオットは俯いていた顔を素早く窓の外へと向けた。そして完全にツェツィーリアから表情が見えないよう背を向けて呟く。




「なんでもない。行ってくる」




 今までエリオットの些細な仕草や表情から様々な感情を読み取ってきたツェツィーリアでも、今回ばかりは彼の心が全く見えなかった。

 こちらに向けられた背中を見つめる。その背は記憶の中よりもずっと大きく、男らしい。

 それなのになぜだろう、ツェツィーリアには今までになくエリオットの背中が遠く思えてならなかった。




 ***




「この前、街でエリオット様とソニアさんが一緒に歩いていたそうよ!」


「二人でこそこそしてたみたい。何をしていたのかしら?」




 エリオットとソニアの噂は日に日に大きくなり、ツェツィーリアの耳に入ることも増えていった。貴族であれ庶民であれ、人間というのは噂話を好むようだ。

 婚約者(ツェツィーリア)の前では皆口を噤むが、遠巻きに見られることも増えた。向けられる視線の多くはツェツィーリアを憐れむもので、グレーシェル伯爵家を快く思っていない者からは嘲笑されることもあった。

 ここまで急速にエリオットとソニアの噂が広まったのは様々な要因があるだろう。

 まず一つに、エリオットの今までの“徹底ぶり”が裏目に出た。何があってもツェツィーリアの傍を離れなかった彼が、“ツェツィーリア・グレーシェルの婚約者”として完璧な振る舞いを崩したことのなかった彼が、最近ではソニアとずっと二人きりでいる。創立記念パーティーのオープニングセレモニーのためと分かっていても、その変わりように生徒たちはざわついたのだ。

 そして次に、エリオットとソニアが絵になる“お似合いの二人”だということも大きい。二人が並んでいる姿に説得力すらあるのだ。誰も間に入れない完璧な似合いの一対は人々の目を楽しませ、妄想を掻き立てた。

 ――そして、何よりも。




「やっぱり、エリオット様は“尻拭い婚約”にご不満だったのでしょうね」




 結局はグレーシェルとベルトランの醜聞(スキャンダル)に塗れた歪な婚約関係が大元の原因なのだ。

 親の代から続く“尻拭い婚約”。国民から嫌われているグレーシェルと支持を得ているベルトラン。加護を持たぬ令嬢と加護を持つ最強の盾。

 エリオットの従順な態度によって抑えられていた――いいや、周りの人々が胸の内に抱えつつも表に出てこなかった疑念が、エリオットとソニアの仲を疑う噂に姿を変えて一気に噴き出た。ただそれだけの話だ。

 皆、グレーシェルとベルトランの婚約に疑問を抱いていたのだ。エリオットにはツェツィーリアより相応しい相手がいるだろうと薄々思っていたところに、これ以上なく相応しい相手であるソニアが現れた。だからついつい、興奮して噂してしまう。

 ――あの日、廊下でぶつかったエリオットとソニアの姿を見たツェツィーリアのように。




(いい調子だわ。あとは創立記念パーティーで二人に踊ってもらって……)




 ツェツィーリアは一人、エリオットの姿を探していた。創立記念パーティーでソニアを誘うよう進言するためだ。

 ほどなくして、清掃委員の教室に一人でいたエリオットを見つけた。ソニアが一緒でなかったことに落胆しつつ、今回ばかりはよかったかもしれないと思い直す。

 学院内の噂はもう抑えきれないほど大きくなってきている。しかし当の本人たちが互いにどう思っているのか、ツェツィーリアはまだ知らずにいた。

 心配なのはエリオットよりもソニアだ。ロマンス小説の話だが、彼女は婚約者や恋人が他いるヒーローのことを優柔不断だと好ましく思えないようだったし、ツェツィーリアの友人として噂に心を痛めているかもしれない。その証拠に、ソニアは最近めっきりツェツィーリアに近づいてこなくなってしまった。




「エリオット、創立記念パーティーのパートナーはソニアを誘ってくれる?」


「は?」




 顔を合わせるなり単刀直入に告げる。するとエリオットは顔を歪ませ、ツェツィーリアの言葉の真意を探るように胡乱な視線を寄こした。




「わたしは殿下と組むから」




 エリオットはますます険しい表情になる。




「なぜ婚約者がいるのに違う相手と踊らなければならない」


「殿下を壁の花にしておくわけにはいかないでしょ。わたしが相手なら殿下も気を遣う必要はないし……」


「昨年はそんなこと気にしていなかっただろう」




 鋭い指摘に一瞬言葉に詰まる。

 確かに昨年はキアランを壁の花にして、ツェツィーリアとエリオットでワルツを踊った。自分のことは気にせず踊ってこいと言ったのはキアラン本人だが、皇太子殿下を放っておいたことには変わりない。

 キアラン方面から攻めるのは分が悪いと踏んで、今度はソニアの名前を出すことにした。




「ソニアからしてみれば初めての創立記念パーティーよ? 楽しんでもらいたいじゃない」




 それは本心からの言葉だった。

 ソニアは慣れない環境で日々努力している。学院に来てから楽しいことばかりではなかったであろう彼女に、少しでも幸せな思い出を作って欲しい。創立記念パーティーはこれ以上ない機会(チャンス)だと思ったのだ。

 一瞬、エリオットは躊躇うような素振りを見せた。しかしすぐに首を振る。




「だったら他の者を……」


「お願い」




 深紅の瞳をじっと見上げてツェツィーリアは懇願した。




「それが、ツェツィーリアの望みなのか」




 ――ツェツィーリアは今まさに人生の岐路に立たされているような気分だった。

 目前に広がる二つの道。お前はどちらを選ぶのかと、誰にかは分からないが選択を迫られているような緊張感。

 肯定か、否定か。その二択。選んだ瞬間に片方の道は閉ざされ、未来が決まる。後戻りはできない。

 自身の心に問いかける。望みとは、エリオットとソニアがパートナーとなることなのか。それともエリオットと自分が――

 ツェツィーリアは己の震える指先をぎゅっと握りしめた。そして。




「……えぇ、そうよ」




 片方の道を、未来を、選んだ。

 エリオットは瞼を伏せる。一瞬にも永遠にも思える数秒。そして、




「分かった。ツェツィーリアがそう言うなら」




 ふい、とエリオットは顔を背け、教室から出ていった。

 一人残されたツェツィーリアは薄く微笑む。これこそが自分の望みだと、自分の選んだ未来だと、全員が幸せになれる選択だと。

 エリオットとソニアは真実の愛を結ばれて、ツェツィーリアも“尻拭い婚約”という不名誉な噂から解放されて、めでたしめでたしだ。

 しかし最上のハッピーエンドを迎えるにはまだまだ下準備が足りない。まずは実家グレーシェルに事情を説明し、エリオットとソニアのことを認めてもらわなくては。あとはソニアが気を病まないようにフォローも忘れず、“加護持ち”の新たな婚約者も在学中に探さないと――

 やることは沢山ある。むしろこれからが本番だった。それなのに、どうして。

 ツェツィーリアはまるで半身を失ったかのような大きな喪失感に、しばらくその場から動けなかった。



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