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 幸いにもツェツィーリアの熱は一日ゆっくり寝ていれば下がったのだが、翌日登校しようとしたところをお抱えの医者に「ぶり返さないようにきちんと治すべき」と止められてしまい、結局二日間休むこととなった。

 その間ソニアの一件がどのようになったのか、エリオットが報告してくれるものだと思い込んでいたのだが、彼はツェツィーリアの自室に近寄ろうとすらしなかった。彼からすればツェツィーリアをゆっくり休ませるための気遣いだったのだろうが、ソニアの身に何かあったらと不安が胸を駆り立てて、却ってゆっくり休むことができなかった。もちろんエリオットの気遣いも嬉しかったから、不安にこそ思えど不満を抱くことはなかったけれど。

 ――長い長い二日間を終え、登校したツェツィーリアにもたらされたのは吉報であった。




「犯人が捕まった……?」


「あんなに憤慨したエリオット、久しぶりに見たな」




 早朝、清掃委員の教室でキアランがぼやくように呟く。その隣のエリオットは自身のことを話されているのにまるで無関心で、静かに椅子に腰かけていた。

 犯人が捕まったのは喜ばしいことだ。エリオットが“目印”をつけたと言っていたから程なくして捕まるだろうとは思っていたのだが、突然結果だけ聞かされるとやはり呆気なく感じてしまう。

 しかしキアランもエリオットも、これ以上の報告をするつもりはないらしい。二人そろって口を閉じ、キアランは気の抜けた大きな欠伸を披露し、エリオットは無言で腕を組んだ。

 幼馴染二人と生まれたときからの付き合いであるツェツィーリアは、これ以上彼らに問い詰めても無駄だと分かっていた。彼らは立場上故なのか、元々の性格故なのか、必要ないと判断した情報はできるだけ省く。そして口はどんな結界魔法よりも硬い。

 一見すると正反対のような性格をしているキアランとエリオットだが、根っこの部分はとても似ていて、だからこそ二人が結託したときは厄介なのだ。おそらく彼らは何らかの理由から、これ以上ツェツィーリアに話さないと“二人で”決めている。

 憤慨したというエリオットのことも気になったし、できればもう少し話を聞きたいと頭を悩ませるツェツィーリアだったが、




「ツェツィーリア様!」




 清掃委員の教室に飛び込んできたソニアの顔を見て、何もかも吹っ飛んでしまった。




「ソニアさん!」




 走ってきたのか、肩で息をするソニアに駆け寄る。

 ツェツィーリアは彼女の姿を足元からさっと観察して大きな怪我がないことを確認した。そのことに胸を撫で下しつつ、逸る気持ちを抑えて問いかける。




「犯人は? 捕まったのですよね? きちんと謝ってもらいましたか?」


「はい。エリオット様とキアラン様のおかげで……」




 ちらり、とソニアはエリオットに視線を投げた。しかしエリオットは相変わらず腕を組んだままこちらを見ようともしない。眉間に深く皺を刻み、何かを考え込んでいる表情だった。

 反応を示さないエリオットからツェツィーリアとソニアは同時に視線を外し、改めて向き合う。数秒の後、ソニアが深々と頭を下げた。




「本当にありがとうございました」


「いいえ、わたしが勝手にやったことですから」




 きっぱりとツェツィーリアは言い切る。

 今回、お礼を言われるようなことは何もしていない。ソニアから助けを求められたわけでもなし、ツェツィーリア側が勝手に首を突っ込んだだけだ。――友人として。

 しかしそれを口に出すことはしなかった。ツェツィーリアはソニアを友人だと思っているが、ソニアも同じ思いだとは限らないからだ。友人と呼び掛けて、困惑の表情を浮かべられたらツェツィーリアはしばらく落ち込むだろう。

 不意にソニアが手で口元を覆った。




「ソ、ソニアさん?」




 どうしたのかと慌てて身をかがめ顔を覗き込むと、ラベンダー色の瞳が潤んでいる。誰の目から見ても泣きそうになっているのは明らかだった。

 ツェツィーリアは涙の意味を理解する前に、泣きそうになっている少女にとにかく慌ててしまって、大急ぎで鞄からハンカチを取り出した。そしてソニアへ差し出したのだが彼女はハンカチを受け取ることなく、ツェツィーリアの手ごとぎゅっと掴んだ。




「どうかソニアとお呼びください」




 そして言葉尻を震わせて懇願するように言った。

 ツェツィーリアは掴まれた己の右手と潤んだラベンダー色の瞳を交互に見やる。

 彼女のことは最初からソニアと名前で呼んでいる。それなのになぜ改まって――と考え、敬称をとって欲しいと言われていることをようやく理解した。

 身内には案外砕けた話し方をするツェツィーリアだが、学友の名前を呼び捨てで呼んだことは一度もない。それはツェツィーリアの真面目な性格が影響していたし、そもそもそこまで踏み込んで仲良くなれる友人がいなかったのだ。

 ソニアからのお願いが、友人になって欲しいと言われているようにツェツィーリアには感じられて――

 緩む頬を抑えながら、握られている手とは逆側の手でソニアの手を上から包むように握った。そして、




「でしたらわたしのことも、ツェツィと」




 自分のことも愛称で呼ぶようにお願いした。

 家族や深い関係にある相手は皆、ツェツィーリアのことを“ツェツィ”と呼ぶ。ツェツィーリア自身も本名より愛称で気安く呼びかけられる方が好きだった。――いつからか、親しい間柄の中でもエリオットだけ“ツェツィ”と呼んでくれなくなってしまったけれど。

 ツェツィーリアからのお願いに、ソニアの瞳が一瞬大きく見開かれる。そして――花がほころぶようにして、彼女は笑った。愛らしく、美しく、気高く、著名な画家が残した絵画と見間違えるような完璧な笑みだった。

 束の間息を飲んだツェツィーリアだったが、すぐさま我に返ると、友人からのお願いを叶えるべくその名を呼ぶ。




「改めてよろしくお願いします、ソニア」


「こちらこそ、ツェツィ」




 友人の口から発せられる自分の愛称がこんなに甘美な響きをしていたことを、ツェツィーリアは初めて知った。

 ツェツィーリアの実家・グレーシェル伯爵家は国内でも有数の貴族だ。当主は宰相の座を与えられ、王家からの信頼も厚い。それ故にグレーシェル伯爵家令嬢であるツェツィーリアは他の貴族の令嬢・令息からも距離を置かれがちだった。

 ただグレーシェル伯爵家が他の貴族から敬われているだけであれば、ここまで遠巻きにされることもなかったかもしれない。宰相は何かと恨みを買う立場で、国のため王家のために尽くせども尽くせども、その苦労が報われることはなかった。

 貧困に喘ぐ平民たちからは貴族の象徴として目の敵にされ、探られると痛い腹を持っている貴族たちからは邪険にされる。王家との繋がりを癒着だと糾弾する記者も少なくなく、常に味方は少なかった。

 その上ツェツィーリアは“尻拭い婚約”の当事者であり、“加護無し令嬢”でもある。表向きは人が良いクラスメイトも裏で何を言っているか分からず、実際近しい存在だと思っていた令嬢に陰で笑われていた、ということは何度もあった。

 それでもツェツィーリアは向けられる悪意を許し、受け入れてきたのだ。言われても仕方ない、怒ったところで何も変わらない、と。

 ――しかし受け入れていたのではなく諦めていただけなのだと、初めての友人に浮き立つ自身の心にツェツィーリアは気づいた。本当はずっと、名を呼び合える友人が欲しかったのだ。

 硬く握手を交わしたことでツェツィーリアのハンカチはぐしゃぐしゃになってしまったけれど一向に構わなかった。それどころかこの手を離してしまうことが惜しくて、何度か握りなおすようにぎゅっと指先に力を込める。

 握手を解いたのはツェツィーリアでもソニアでもなく、学院内に響く鐘の音だった。




「話もまとまったようだし、そろそろ教室に行くか」




 キアランの提案に他の三人も頷き、硬く結ばれていたツェツィーリアとソニアの両手は離れていく。

 まずキアランが最初に教室から出て、その後にソニアが小走りで続いた。ツェツィーリアも友人の背中を追おうとしたところでエリオットの様子を窺う。彼は相変わらず難しい顔をして立っていた。

 一向に動く気配のない婚約者にツェツィーリアは声をかける。




「エリオット、本当にありがとう」




 てっきり無視されるかと思ったが、彼は組んでいた腕を解いてツェツィーリアを見た。




「なぜ貴様が礼を言う」


「大切な友人が世話になったのですから当然です」




 友人。その単語を発するだけでツェツィーリアの胸の奥にじんわりとぬくもりが広がるようだった。

 微笑むツェツィーリアとは対照的に、エリオットは眉間の皺を深くして言う。




「犯人の処遇だが、今回は警告だけで済ませている。万が一、また愚行を繰り替えすようなことがあればすぐに教えろ」




 話している最中もどんどんエリオットの顔は険しくなっていって、口を閉じたときにはまさに鬼の形相と形容するに相応しい顔だった。

 ツェツィーリアには自分がいなかった二日間、何があったのか分からない。しかしエリオットを憤慨させる何かがあったことは確かなようだし、それでいて彼もキアランも口を割らないことを正直言えば怪しく思っていた。

 何かがあった。間違いなく。しかしそれを聞いたところで、口の堅い婚約者は話してくれるはずもない。

 ツェツィーリアはエリオットが隠そうとする事実を暴くことはすっかり諦めて、彼の表情を少しでも柔らかくできないかと口を開く。




「……そんな怖い顔をしている人には教えられないわ」


「ツェツィーリア」




 揶揄うな、と咎めるようにツェツィーリアの名を呼ぶエリオット。その声が思いのほか鋭くて、ツェツィーリアは素直に謝った。




「ごめんなさい、からかうつもりはないの。本当にありがとう、エリオット」




 再度謝辞を述べれば、エリオットの表情は少しだけ和らいだ。それを見てここぞとばかりにツェツィーリアは続ける。




「あなたがソニアについていてくれたから、わたしはのんきに眠っていられたわ」


「……貴様に言われた通りにしただけだ」




 返ってきたのはひどく素っ気ない言葉だったけれど、エリオットが自分との約束を守ってくれたことがツェツィーリアには嬉しかった。

彼とソニアがこの二日間どのように過ごしていたのか気にならないといったら嘘になる。今回のことがきっかけで彼らの距離が縮まるかもしれない、という下心は確かに胸の奥に存在した。けれど友人の危機を絶好の機会チャンスだと喜ぶ己の心を受け入れたくなくて、ツェツィーリアは見て見ぬ振りをしていた。

 ――だから一部の女子生徒の間で流れ始めたある噂に、ツェツィーリアはすぐに気づけなかったのだ。




「エリオット様があそこまで怒っている姿、初めて見たわ」


「……もしかして、あの特待生のため?」




 エリオット・ベルトランが怒ったのは特待生ソニア・マルティンのためだったのではないか、という、ツェツィーリアにとって好都合な噂に。



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