09




 ツェツィーリアは夢を見ていた。

 それは幼い頃、婚約者エリオットの実家であるベルトラン伯爵家でかくれんぼをしていたときの記憶。




『見つけた』




 ツェツィーリアがどこに隠れても、エリオットはすぐに見つけ出してしまった。机の下、カーテンの裏、客室のクローゼットの中、果ては離れ小屋の屋根裏まで。どこに隠れようとエリオットはツェツィーリアを見つけた。

 一方でツェツィーリアはエリオットを見つけるのが大の苦手だった。庭園の木の上、馬小屋の一番奥、屋敷の門の影――どれだけ敷地の中を歩いても、エリオットの姿を見つけられなかった。

 当時のツェツィーリアは負けず嫌いで、悔しさのあまり涙を滲ませながら尋ねたことがある。




『どうしてエリオットはわたしが隠れている場所が分かるの?』




 エリオットはきょとんと目を丸くして、それから眉尻を下げて笑った。照れ臭さを誤魔化すような、苦笑にも似た笑みだった。




『ツェツィのことなら、なんでも分かるよ』




 そのときのエリオットの言葉をツェツィーリアはうまく理解することができなかった。

 首を傾げるツェツィーリアにエリオットは再度『分かるよ』と念を押すように呟く。そして。




『だって僕は、ツェツィのことが――』




 エリオットの唇は動いているのに、その声はツェツィーリアの耳に届かない。

 ただ胸の奥にじんわりと広がったあたたかな気持ちは忘れずに覚えていた。エリオットの言葉に嬉しくなって、ツェツィーリアも微笑み、終いには勢いよく抱き着いた記憶がある。

 エリオットの言葉だけが思い出せない。思い出そうとすると耳障りなノイズが邪魔をする。

 あのとき、幼いエリオットは何を言ったのだろう。なぜ彼の言葉を忘れてしまったのだろう。それすら今のツェツィーリアには分からなかった。




 ***




 ツェツィーリアは大きなベッドの上で目を覚ました。

 数度瞬き、目前に迫った見慣れた顔を認識する。金髪碧眼の美しい顔立ち。生まれたときからよく似ていると散々言われたその顔は、ツェツィーリアの母であるアガーテのものだ。

 今自分が置かれている状況を把握しきれないまま、ツェツィーリアは朦朧と母の名を呼んだ。




「アガーテ母様……?」


「ツェツィ、目が覚めたのね!」




 アガーテはわぁっと声をあげて、ツェツィーリアの上にのしかかるようにして抱きしめてきた。母の重さにぐっと呻いたものの、そのおかげで徐々に意識が覚醒してくる。

 ツェツィーリアは意識を失う前の記憶を手繰り寄せようと目を閉じた。すると瞼の裏に浮かんでくるのは暗い資料室の光景だ。

 エリオットとソニアを近づける作戦を企てて、舞台となる密室を探していた最中の出来事だった。ちょっとした事故で下見中のツェツィーリアが閉じ込められてしまい、そして――

 はっとツェツィーリアは瞼を開ける。そして依然抱き着いたままの母の背中越しに、あたりを見渡した。

 そこには見慣れた自室の光景と、これまた見慣れた複数の顔が並んでいた。

 左から父・デニス、その隣のエリオット、そして皇太子キアラン。彼らは皆ツェツィーリアが目覚めたことに対してほっとした表情を浮かべていたが、一方でツェツィーリアの顔色はどんどん悪くなっていく。

 ツェツィーリアは母親ごと上半身を起こし、深々と頭を下げた。




「も、申し訳ございませんでした。わたしの勝手な行動のせいで、皆様にご心配とご迷惑をお掛けしてしまい……」




 間抜けなツェツィーリアが資料室に閉じ込められている間、エリオットたちに心配をかけたことだろう。もしかすると実家であるグレーシェルにも連絡が行き、大勢で学院内の捜索にあたったかもしれない。

 ツェツィーリアは頭を下げたまま動けなかった。

 自身の軽率さが災いして、いったいどれだけの人々に迷惑をかけたのか。考えるだけで顔から血の気が引いていく。




「ツェツィ、顔を上げてくれ」




 沈黙を破ったのはキアランだ。

 穏やかな声から察するに怒っている様子はないが、それでもツェツィーリアは腰を折ったまま、僅かに顔を上げて視線だけでキアランを見る。すると彼は安心させるように金の瞳を細め、ベッドの傍らまで歩み寄ってきた。




「怪我はないか? 具合は?」


「だ、大丈夫です」


「ならいい。今回のことは事故だ、お前が気に病む必要はない。だよな?」




 不意にキアランが視線を入口の方へ投げかけた。そこに立っていたのは黒髪の壮年男性――エリオットの父である、ブラッドフォード・ベルトラン辺境伯であった。

 予想外の人物の登場にツェツィーリアは顔を上げ、男性の顔をまじまじと見つめる。

 現ベルトラン伯爵家当主であるブラッドフォードは国境防衛という任務のため、領地を離れることはあまりない。それ相応の理由がなければ王都を訪れない彼が、なぜグレーシェルの屋敷にいるのだろう。

 驚き固まるツェツィーリアに、ベルトラン辺境伯は優しく微笑みかける。




「えぇ、もちろんでございます殿下。ツェツィが無事でよかった」




 ベルトラン辺境伯は穏やかな人物で、弟――グレーシェルとベルトランの婚約を台無しにした張本人――の愚行を止められなかったことを心の底から悔いており、昔からツェツィーリアのことを実の娘のようにかわいがってくれた。虫も殺せそうにない優しい微笑みを浮かべる彼だが、一度剣を握ればその表情は一変する。歴代のベルトラン当主の中でも容赦がないともっぱらの噂で、その手厳しさは息子であるエリオットにもしばしば向けられた。

 ツェツィーリアの婚約者として、エリオットに剣と立ち振る舞いを叩きこんだのは他ならぬベルトラン辺境伯だ。ツェツィーリア本人が厳しい教育に物申そうと、彼は妥協することはなかった。そうして完璧な“ツェツィーリア・グレーシェルの婚約者”を作り出したのだ。




「おじさま……まさか領地からいらしてくださったのですか?」




 恐る恐るツェツィーリアは尋ねる。この問いかけに頷かれでもしたときには、ツェツィーリアは気を失ってしまいそうだった。

 しかし幸いにもベルトラン辺境伯はゆっくりと首を振る。




「野暮用で王都に丁度おりましてね」




 ツェツィーリアは与えられた答えにほっと胸を撫で下し、しかしすぐに再び息をつめた。彼が口にした“野暮用”に心当たりがあったからだ。

 おそらくベルトラン辺境伯はツェツィーリアとエリオットの婚約の話を進めるため王都を訪れたのだろう。今度採寸が行われるドレスといい、着々と婚約、そして結婚式の準備は進んでいる。今回は現当主が集まって、いったい何を決めるつもりなのだろうか――

 聞けば答えてくれるだろうが、その勇気がツェツィーリアにはなかった。自分が成し遂げようとしていることが、彼らにとって傍迷惑なものであるという自覚が少なからずあったからだ。

 ツェツィーリアがなおざりな相槌を打ったところで沈黙が落ちた。すると今まで黙っていたエリオットが口を開く。




「大事をとって明日は休め」




 すかさず母・アガーテが頷いた。ツェツィーリアとしてはベッドでひと眠りしたことですっかり体調は元通りになっていたが、迷惑をかけた以上強く出られず、彼らの提案に従うことにした。

 話がまとまったところでキアランたちは部屋から出ていく。彼らの背中を見送る最中、はっと気が付いた。エリオットにお礼を言いそびれている、と。




「エリオット!」




 思わず名前を叫んで呼び止める。するとドアノブに手をかけたまま、エリオットは顔だけ振り向いた。

 深紅の瞳としっかり目を合わせてツェツィーリアは口を開く。




「見つけてくれて、ありがとう」




 瞬間、エリオットはなんとも形容し難い表情を浮かべた。驚いたのか、呆れたのか、照れたのか、そのすべてなのか。最終的には視線をぐるりと一周させて、再びツェツィーリアを見る。

 ツェツィーリアは声には出さず、口の動きだけで再び礼を言う。ありがとう、と。するとエリオットはツェツィーリアの声なき声をきちんと聞いたのか、ぐっと下唇を噛みしめて、それから――眉尻を下げて、笑った。照れ臭さを誤魔化すような、苦笑にも似た笑みだった。

 そのときの表情が、夢の中で見た幼いエリオットと重なる。あ、と思ったときにはもうエリオットは扉を閉めて、部屋から退室してしまっていた。




(あのときエリオットはなんて言ったのかしら)




 閉じた扉を見つめながら、ツェツィーリアは考える。

 どれだけ思い出そうとしても思い出せない。声が聞こえない。ただただ、エリオットの笑みが瞼の裏に浮かんでは消えていく。

 ベッドに横になり、ツェツィーリアは目を閉じた。そして薄れゆく意識の中、先ほど見た夢を再度思い出す。どうか願わくば、今度こそエリオットの声が聞こえますように、と。



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