06
結論からして、ツェツィーリアの爆走は報われた。
エリオットはまだ来ていなかったようで、信頼できるメイドであるルイディナに予定ができた旨を伝え、先に帰ってもらうようお願いした。聡い彼女は予定の内容まで言及してくることなく、しかししっかりと使用人の役割を果たすため、ツェツィーリアの帰宅予定時間を聞くことを忘れなかった。その時間に再度迎えを寄こしてくれるらしい。
二度手間になってしまうことを申し訳なく思いつつ、背に腹は代えられないとツェツィーリアはエリオットがやってくる前にその場を離れた。今何よりも優先すべきは、エリオットとソニアの恋の行方だ。
清掃委員の教室で、ツェツィーリアはひたすら時間を潰した。課題をこなし、息抜きに持参したロマンス小説を読み、今後の作戦を立てて――日が暮れたところで、未だ教室に残っているキアランの存在が気になった。おそらくはツェツィーリアに付き合って残ってくれているのだろう。彼もエリオットと同じように、婦女子を一人残して帰ることをよしとしない紳士だ。
「殿下、残っていただかなくて大丈夫ですよ? こう見えて結構腕っぷしは立ちますから」
魔法の腕こそ子どもにも劣るツェツィーリアだが、幼い頃の鍛錬の結果、腕っぷしは立つ方だ。それこそあのまま続けていれば素晴らしい槍の使い手になっていたのでは、などと一部から噂されるほどだった。
そのことを知っているはずのキアランは呆れたように小さく頷く。
「知ってる。けど婦女子を一人にさせるわけにはいかないだろ」
読んでいた本を閉じ、窓の外に視線をやるキアラン。太陽は僅かに西の空を明るく照らすばかりで、時計の針は六時過ぎを指していた。
おそらくはエリオットとソニアをくっつける作戦を快く思っていないだろうに、なんだかんだと付き合ってくれるキアランにツェツィーリアは頭が上がらない。
「ありがとうございます。今度、何かお礼をさせてください」
「いらねーって」
ぐ、と一度伸びをして、キアランは椅子から立ち上がった。そして寄り添うように置かれていた二つの鞄――キアランとツェツィーリアの鞄――を持つと、座ったままのツェツィーリアに視線を投げかける。
「そろそろいいんじゃないか? ほら、帰るぞ」
「はい」
これ以上キアランを付き合わせる訳にもいかず、またルイディナに伝えた帰宅時間も迫っていたため、ツェツィーリアはおとなしく席を立った。そしてキアランと肩を並べ、迎えの者がいつも待っている西門へと向かう。
門の前で待っていたのは一台の馬車。遠くから見ても目立つ金の紋章が刻まれた扉は見間違えるはずもない、王家のものだ。つまりあの馬車はキアランを迎えに来た馬車であって、ツェツィーリアを迎えに来ているはずのグレーシェルの馬車が見当たらない。
あれ、とツェツィーリアが小さく首を傾げた瞬間、馬車の影から現れた人物に手首を掴まれた。
「ツェツィーリア」
その人物は他でもない、ツェツィーリアの婚約者であるエリオット・ベルトランだ。闇夜に溶ける艶やかな黒髪と、闇夜に光る深紅の瞳のコントラストが美しい。
とっくに帰ったとばかり思っていた婚約者の登場に、ツェツィーリアは唖然とその名を呟くことしかできなかった。
「……エリオット」
「用事は済んだのか」
「え、えぇ。ソニアさんは?」
「送った」
そう答えてふいとそっぽを向いたエリオットの鼻の先が赤くなっていることを発見した。それから数秒遅れて、ツェツィーリアは自分の手首を掴む指先も冷え切っていることに気が付く。
温かくなってきたとはいえ、まだまだ夜は冷える時期だ。長時間風にあたっていれば体も芯から冷え切ってしまうだろう。
――と、そこでツェツィーリアの脳は一つの可能性を弾き出した。
なぜ彼は鼻の先を赤くするほどの長い時間、外にいたのだろう。ソニアを寮に送った後、彼は外で一体何をしていた? いったい――誰を待っていた?
ツェツィーリアは冷え切ったエリオットの指先を温めるように彼の手を取ると、恐る恐る問いかける。
「まさかその後、ずっと待っていたの……?」
エリオットは頷かなかった。しかし否定もしない。――それが彼にとっての肯定にあたることに、幼い頃から共にいたツェツィーリアには分かっていた。
ツェツィーリアの胸の内に、なんとも形容し難い感情が溢れる。こんな寒い中、長時間待たせてしまったことへの申し訳なさ、なぜ何も言わずに待っていたのかという疑問、風邪でも引かせてしまったらどうしようという焦り、そして――待っていてくれていたことに対する、仄かな罪悪感を纏った喜び。
「ル、ルイディナは? 迎えの時間をずらしてもらったのだけれど……」
「帰らせた。この時間は夕食の準備と被るだろう」
柔く握った手を握り返される。冷え切ったエリオットの手の平に自分の体温が奪われていく感覚を、ツェツィーリアは心地良く思った。
「先に帰っていてって言ったのに……」
そんなことを言いつつ、ツェツィーリアの口元は緩んでいた。
繋いだ手はそのまま、もう片方の手で赤くなったエリオットの鼻先を軽くつまむ。
「ふふ、冷たい」
どれだけの時間待ってくれていたのだろう。早く冷え切った体を温めるためにも帰るべきなのに、ツェツィーリアはこの場を離れることに名残惜しさを感じていた。
不意にエリオットの深紅の瞳がツェツィーリアの背後に逸らされる。どうしたのかと視線の先を追うより先に、エリオットの口が開いた。
「邪魔だったか」
「え?」
「キアランと一緒にいたんだろう」
そこでようやくツェツィーリアはエリオットの瞳が捉えていたものの正体を悟った。彼は遠くで気配を殺していたキアランの存在に気が付いたようだ。
エリオットから剣呑な視線を受け止めたキアランは、弁明するために慌てて近づいてくる。
「おいおい、変な誤解しないでくれ。ただ授業で分からないことがあったから勉強会を開いてもらっただけだ」
そしてそれらしい理由を並べ、ツェツィーリアの嘘がばれないようにさりげなくフォローしてくれた。しかしエリオットの表情は晴れず、それどころか眉間に刻まれた皺がいっそう深くなる。
「ならばなぜ俺を呼ばない」
「……なんかお前、声かけづらかったから」
「はぁ!?」
間近で叫んだエリオットにツェツィーリアは思わず身を竦ませた。するとそれに気が付いたエリオットはばつが悪い顔で口を閉ざしてしまう。自分のせいでツェツィーリアを驚かせたことを後悔しているような表情だった。
黙り込んだエリオットを見て、好機とばかりにキアランは馬車に向かって駆けだした。そして扉に手をかけさっと乗り込んでしまう。
「じゃーな。ツェツィ、面倒かけて悪かったな、ありがとう」
僅かに開いた扉の隙間から顔をのぞかせてそう言ったキアランに、ツェツィーリアは頭を下げた。
面倒をかけたのも、謝らなければならないのも、そしてお礼を言わなければならないのもツェツィーリアの方だ。しかしキアランは「ツェツィーリアに勉強を教わった」という嘘をつき通すため、言う必要のない謝罪と謝礼を口にしてくれたのだ。
「とんでもございません! ありがとうございました、殿下」
深々と十秒、ツェツィーリアは走り去る馬車に向かって頭を下げた。
顔を上げた頃にはもう馬車の姿は見えなくなっていて、それでもなお暗闇を見つめ続ける。ぐったりと馬車の椅子に座りこむキアランを想像し、今夜のお礼として彼の興味を大いに引く珍味を取り寄せようなどと考えていたところに、エリオットから声がかかった。
「なぜ貴様が礼を言う。教えてやった立場だろう」
怪訝な瞳を向けられてツェツィーリアは言葉に詰まった。エリオットからしてみれば、勉強を教えた側であるツェツィーリアがお礼を言うのはおかしいと感じて当然だろう。
咄嗟にうまい返答が思いつかず、誤魔化そうとして口角が歪に上がる。
「……わ、わたしも勉強になったから?」
「なんだ、それは……」
煮え切らない返事に納得がいかない様子のエリオットだったが、元より詳しく聞くつもりはなかったのか、小さくついたため息で質問を切り上げた。
繋いだ手を軽く引かれ、ツェツィーリアは歩き出す。
エリオット曰く迎えの馬車は帰らせたようだが、学院からグレーシェルの屋敷までは徒歩で行き来できる距離だ。夜の散歩に丁度いい。そもそも送り迎えの馬車こそ不要なのではないか、と常々ツェツィーリアは考えているのだが、何かあってからでは遅いのだと母から散々言って聞かされた過去があるため口にしたことはなかった。
隣を歩くエリオットの横顔を盗み見る。
ソニアとはうまく話せただろうか。距離は縮まっただろうか。次はどうやって二人きりにしようか――なんて、ツェツィーリアが考えを巡らせていたところ、突然エリオットが足を止めた。そして、
「次似たようなことをキアランから言われたら声をかけろ。俺も同席する」
視線を足元に落としたまま独り言のような声量で言った。
ツェツィーリアは当惑した。なぜエリオットがそんなことを言うのか、彼の心が見えなかった。
今までキアランと二人きりで行動したことは数えきれないほどある。しかしそれを誰にも咎められたことはなかったし、エリオットも同様だ。一応は婚約者の手前、二人で遠出するときなどは事前に報告もしたが、いつだってエリオットは「分かった」と頷くばかり。自分も連れていけ、なんて言われたことは一度もなかった。
しかしだからといって、エリオットの要求を拒否するつもりもなかった。放課後エリオットとソニアのことを相談しづらくなってしまうが、改めて別の機会を設ければいいだけだ。もしくは勉強会ではない二人きりになる理由を考えればいい。
ただ単純にツェツィーリアはエリオットの言葉に驚き、そして困惑して、頷くまでに数秒の時間を要した。
「え、えぇ……」
「なんだその煮え切らない返事は。……俺がいては邪魔か?」
返事に滲んだ戸惑いを正しく読み取ったエリオットは、俯き気味のまま瞳だけツェツィーリアに向けた。すると自然と上目遣いになり、普段より幾分幼い表情にツェツィーリアはついつい昔を思い出す。
同い年だが、ツェツィーリアは春生まれでエリオットは秋生まれ。それ故小さな頃は姉と弟のような関係で、エリオットはツェツィーリアの後をついて回っていた。その姿がとてもかわいくて、自分より小さな
一緒に来て、一緒に食べよう、一緒に遊んで、一緒に――
エリオットがかわいい甘えん坊だったのは遠い昔の話だ。けれど幼い頃を思い出させる表情を浮かべられると、ツェツィーリアは弱い。姉心がくすぐられるとでも言うのか、自分にできることなら叶えてやりたいと思ってしまうのだ。
今のエリオットはなんでも一人でできる、ツェツィーリアを悠々見下ろせる大きな青年だというのに。
「いいえ! そんなことないわ!」
存分に姉心をくすぐられたツェツィーリアは、気が付けばぶんぶんと勢いよく首を振っていた。するとエリオットは口では何も言わないものの、目を細めて口元をきゅっと引き結ぶ。
――彼は気づいているのだろうか。いくら口を引き結んでも、僅かに上がった口角は隠しきれていないということに。
胸奥に満ちる愛おしさに身を委ねて、ツェツィーリアは微笑んだ。
「それよりありがとう、エリオット。待っていてくれて」
ふい、と逸らされる視線。恥ずかしがり屋のエリオットのことだ、きっと照れているのだろうとツェツィーリアは笑みを深め、
「婚約者として当然のことをしたまでだ」
――早口で吐き捨てられた言葉に、急激に心が冷えていくのを感じた。
エリオットはその言葉に深い意味を持たせてはいないだろう。待ってくれていたのもただただ彼が優しいからで、婚約者云々は照れ隠しで付け加えた理由に過ぎない。そう分かっているはずなのに、ツェツィーリアの心はエリオットの口から“婚約者”という単語が紡がれる度ささくれ立つ。
早くエリオットを解放してやらなければ、と思う。こんな茶番から。婚約者という呪縛から。そして――彼の優しさを真っすぐ受け止めることのできない、卑しい
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます