03
エリオットに腕を引かれて戻った高等部二年の教室に、ソニア・マルティンはいた。
二年からの編入。一般家庭出身。学費が全額免除される特待生。“珍しい尽くし”のソニアは他の生徒から遠巻きにされており、本人も居心地が悪いのか身を縮こまらせて存在感を消そうと努めているようだった。
ツェツィーリアが意を決して声をかけようとした瞬間、間の悪いことに女性教師が教室にやってきて朝のホームルームが始まった。
担任の教師もクラスメイトも見慣れたもので――生徒の数が多くないため一学年につき二クラスがせいぜいで、ほとんどが顔見知りなのだ――滞りなく新年度一日目は終了する。昼前には下校が許され、いそいそと帰り支度を始めるソニアにようやくツェツィーリアは声をかけることができた。
「ソニアさん、少しよろしいでしょうか」
怪訝な表情で振り返ったソニア・マルティンを改めて間近で見て、美しい少女だとツェツィーリアは感嘆の息をこぼす。すると探るような視線を向けられ、慌てて取り繕うように微笑んだ。
「もしよろしければ、わたしたちの委員会に入っていただけませんか?」
「わ、私が、ですか!?」
ソニアはただでさえ大きなラベンダー色の瞳をこぼれ落ちそうなほど見開いた。
突然勧誘されたソニアはもちろんのこと、斜め後ろに控えていたエリオットも驚きに息を飲んだ気配がする。
すぐに答えられないソニアをフォローするように口を挟んできたのは気遣い上手のキアランだ。
「委員会っつっても、ただ放課後に掃除してるだけなんだけどな」
「なぜ皆様がそのような委員会を……」
ソニアの顔に困惑の表情が浮かぶ。貴族とは無縁の世界で暮らしていたソニアだが、自分に声をかけてきた三人がどのような立場にある人物なのか分かっているようだった。
王族として扱われることを嫌うキアランは、わざと砕けた口調で説明する。
「
キアランに脇腹を肘で突かれてもエリオットは微動だにしない。ソニアを委員会に迎え入れることに関して、驚きはしたものの口を出すつもりはないようだ。
「そのような委員会にどうして私を誘ってくださるのですか?」
もっともな疑問にキアランはツェツィーリアを見た。言い出しっぺであるお前が答えろ、とでも言いたげな視線だった。
頭をフル回転させ、どうにかこうにかそれらしい理由を絞り出した。
「に、二年からの編入、それも特待生となると学院に馴染むまで時間がかかるでしょう。清掃委員であれば清掃の合間に校内のご案内もできますし、ソニアさんのお役に立てるのではないかと、殿下が」
そして功をキアランに押し付けることで、自分が言い出しっぺではないということをさりげなくアピールする。もし自分が言いだしたことだとエリオットに知られれば、不審に思われるのではないかと危惧してのことだった。
「言い出したのはツェツィだぞ」
「殿下が! ご心配なされておりましたので! 恐れ多くもわたしが進言致しました!」
思ったより大声が出てしまい、数秒その場が静まり返る。背中に感じるエリオットからの視線とソニアの引きつった笑みに、ツェツィーリアは急ぐあまり下手を打ってしまったと反省した。
しかし踏み出した一歩を今更ひっこめることはできない。縋るような思いでキアランを見上げると、彼は咳払いを一つしてから明るい声音で仕切りなおした。
「どうだろうか、ソニア嬢。ただのお節介だから断ってもらって構わないぞ」
――皇太子から断ってもらっていい、なんて言われたところで、一庶民が断れるはずもない。これは勧誘と言う名の命令になりかねない。
今更その事実に気が付いたツェツィーリアは顔を青ざめさせたが、ソニアの横顔が僅かに和らぎ、口元が緩んだのを見た。
「いえ! そんな風に考えてくださっていたなんて……ご迷惑でなければ、ぜひよろしくお願いします」
ソニアはキアラン、ツェツィーリア、エリオットの順番で一人一人と目を合わせると、最後に大きく頭を下げる。どうやら表面上は嫌がっている様子はないが、ソニアと接するときはいつも以上に自分の立場を意識しておこう、とツェツィーリアは硬く心に誓った。
普段ツェツィーリアはキアランとエリオットの二人といることがほとんどだ。片や自分より地位が上である皇太子、片や同等の地位である婚約者。良くも悪くも地位が下の者――ましてや庶民と一対一で接することなんてなかった。
それ故、ツェツィーリアは己の背後にあるグレーシェル伯爵家という実家の力を過少評価している部分がある。しかし
もちろん仮に気に入らないことがあろうと、ツェツィーリアは実家の力でどうこうするつもりは一切ないのだが、ソニアにそれを信じてもらうためには着実に信頼を積み重ねるしかない。
ツェツィーリアが望んでいるのは円満な婚約破棄だ。そのために、ソニアとも友好な関係を築いておきたかった。
「キアランだ。よろしく頼む、ソニア」
握手を交わすキアランとソニア。数秒の後、握手が解けてラベンダー色の瞳がツェツィーリアを貫いた。
ソニアからの好印象を勝ち取るべく、ツェツィーリアは努めて友好的な笑顔を浮かべ、右手を差し出す。
「ツェツィーリア・グレーシェルです。よろしくお願いします」
差し出した右手を握り返される。触れた指の腹が硬く引きつっていることに気が付いて、ツェツィーリアは傷一つない自分の指がなんだか恥ずかしかった。
生まれてから今日まで、ツェツィーリアは何一つ不自由なく暮らしてきた。蝶よ花よと育てられ、危険から遠ざけられ、指先に傷でもこさえようものならメイドたちは目を回して大騒ぎする。
小さな頃、鍛錬を重ねるエリオットと同じ時間を共有したくて、ツェツィーリアも槍術を嗜んでいた時期がある。思いの外才能があったようで鍛錬は楽しく、エリオットや護衛と共に野山を駆け回ったのはいい思い出だ。
しかし年を重ねるにつれて、周りはツェツィーリアが鍛錬に向かうことにいい顔をしなくなった。それでも周りの目を気にすることなくエリオットと共に鍛錬を重ねていたのだが、ある日他でもないエリオットから言われたのだ。
『もう鍛錬には来ないでくれ。怪我でもされると……困る』
その日以来、ツェツィーリアには傷一つない己の指先がエリオットとの心の距離の象徴のように思えてならない。これからもツェツィーリアは指先に傷をこさえることのない生活を送っていくだろうし、果たしてそれがガードナー王国最強の盾と誉高いベルトラン伯爵家の妻として正しいのか分からなかった。
「婚約者のエリオットだ」
ツェツィーリアがソニアとの握手を終える前に、後ろからエリオットも挨拶をする。
いつから“そう”なのかもう定かではないけれど、ツェツィーリアが気が付いたときにはエリオットは名乗るときに姓を口にしなくなっていた。その代わりなのか、必ずツェツィーリアの婚約者だと付け加える。
大方グレーシェルとベルトランの“尻拭い婚約”の噂をエリオットも知っていて、彼なりの気遣いなのだろうとツェツィーリアは考えている。エリオットがベルトランの姓を口にせずとも、ツェツィーリアが名乗った瞬間に多くの人々は何かに勘付いたような表情をするから、悲しいかな、彼の気遣いは余計に惨めな思いにさせられるだけであったが。
エリオットはソニアに握手を求めなかった。それは彼を知る人物からしてみれば別段珍しくないことなのだが――無礼だという指摘はまったくもってその通りである――ソニアは自分のせいで機嫌を損ねているのでは、と勘違いしてしまったらしい。探るような視線をエリオットに投げかけた。
「……あの、今朝は申し訳ありませんでした。お怪我はありませんでしたか?」
ソニアの言葉にツェツィーリアはにわかに色めきだった。
今朝の邂逅をソニアが覚えていたことに手ごたえを感じたのだ。やはり彼らの出会いは運命だったのだ、と。
エリオットはどう答えるだろうと素早く後ろを振り返り、
「問題ない。気にするな」
ぶっきらぼうながらもソニアに気遣わせまいとする返答に、ツェツィーリアは感動すら覚えた。
あのエリオットが! 堅物不愛想と揶揄されがちな婚約者が! ほぼ初対面であるソニアに優しく声をかけるなんて! ――等々、口に出していればエリオットから睨まれるであろう失敬千万な言葉の数々がツェツィーリアの脳内に浮かんでは消えていく。
更にそのまま数秒見つめ合う男女の姿に、ツェツィーリアはたまらず小声でキアランに声をかけた。
「エリオットが優しく声をかけるなんて、やっぱり好ましく思っているに違いありません……!」
「そうかぁ? あれぐらいのことなら初対面の相手にもフツーに言ってるだろ」
冷静なキアランの突っ込みも、ロマンス小説から飛び出てきたような運命の恋を前に浮足立つツェツィーリアの耳には届かず。「よぉし、頑張りましょう!」とキアランに呼びかけたツェツィーリアは、返答がわりの大きなため息に気づくこともなかった。
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