02




「ソニア・マルティンとは今年度から二年生に編入してきた特待生のことだな?」




 輝かしい未来を夢見て瞳を潤ませる当て馬令嬢(自称)のツェツィーリアに、ガードナー国皇太子キアランは怪訝な表情で問いかける。自身に向けられる幼馴染の表情を見て、ツェツィーリアは首を傾げた。

 キアランは昔から恋に悩む人物を見つけると、後輩だろうが先輩だろうがときには教師であっても、凄まじい勢いと熱意を持って応援に駆け付けた。キアランが関わったすべての恋が成就した訳ではないが、的確なアドバイスと大胆な作戦で、常に最善の結果を手繰り寄せてきたのだ。

 あるとき、ツェツィーリアはキアランに尋ねた。「なぜ他人の恋にここまで手を貸すのですか」と。するとキアランは一瞬躊躇うように視線を泳がせた後、眉尻を下げてはにかんだのだ。「人の恋路に首を突っ込むのが好きなだけだ」――。

 そんな彼のことだ、エリオットが恋をしたと聞けば目を輝かせて食いついてくるだろう、とツェツィーリアは踏んでいた。しかし実際はどうだ。今ツェツィーリアの前にいるキアランは深々と椅子に腰かけ、更には頬杖までついている。とても乗り気には見えない。

 しかし婚約者エリオットの恋を成就させるためにはキアランの手腕が必要不可欠だと信じて疑わないツェツィーリアは、幼馴染を仲間に引き入れるべく熱心に語りかける。




「はい。先程エリオットと廊下を歩いていたら、偶然お会いしたんです。薄桃色の髪を持つ、とてもかわいらしい方でした」




 ツェツィーリアがまず最初に目を引かれたのは、可憐な花を思わせる彼女の髪色だった。緩いウェーブを描いた毛先は肩のあたりで無造作に跳ね、それがまた洗練されきっていない愛らしさを感じさせた。

 次に視線が吸い込まれたのは、エリオットを熱く見上げる紫色の瞳。ラベンダーを思わせるその色は控えめでいて凛とした気高さを感じさせて、彼女が持つ上品な雰囲気にぴったりだった。

 特待生ソニア・マルティンは百人いれば百人が「美少女」と答えるような、誰もが羨む容姿を持ち合わせていた。まるで、ロマンス小説の中から飛び出してきた主人公のような――




「それで? どうして廊下で偶然会ったソニア嬢とエリオットが恋に落ちたんだ?」




 キアランの質問に、よくぞ聞いてくださいました、とツェツィーリアは目を輝かせた。そして咳払いをして喉の調子を整えてから、まるでこの世に隠された真実を告げるかのような真剣な表情で言う。




「ソニアさんのお心は分かりませんが……エリオットは一目惚れだと思います」




 がたん、とキアランは椅子から勢い良く立ち上がった。




「一目惚れぇ!? あの堅物無愛想が!?」


「運命の恋人を前にすれば性格は関係ありません!」




 叫ぶキアラン。胸の前で力強く拳を握るツェツィーリア。

 金の瞳を見開き、口元を戦慄かせるキアランは『エリオットが一目惚れした』という事実を飲み込めないでいるようだった。それも無理はない、とツェツィーリアは深く頷く。なぜならこの場にいないもう一人の幼馴染エリオット・ベルトランは、齢十七歳にして今時見られないほどの、絵に描いたような“堅物”だからだ。

 規律を第一に考え、人々の和を乱す存在を何よりも嫌う。婚約者であるツェツィーリア以外の異性と二人きりになることは避け、男子たるもの、貴族たるもの、そして何よりツェツィーリアの婚約者たるものかくあるべしとの教えを胸に深く刻み、その教えから外れることがないよう己を厳しく律している。

 他人に厳しく、それ以上に自分に厳しい。そんなエリオット・ベルトランはやがて堅物不愛想と――主にキアランから――言われるようになったのだが、それもこれも“尻拭い婚約”のせいだとツェツィーリアは責任すら感じていた。

 駆け落ちなどという愚行を息子に繰り返させないため、ベルトランは厳しくエリオットを躾けた。エリオットは自分という個を確立する前に、グレーシェル伯爵令嬢ツェツィーリアの婚約者として教育されてしまったのだ。

 その呪縛からエリオットを解放し、エリオットという個を愛してやれるのは運命の恋人であるソニアをおいて他にいない。ツェツィーリアはそう確信していた。




「……運命の恋人ってのも、ロマンス小説に書いてあるのか?」




 ツェツィーリアの勢いに気圧されたキアランは呆然と呟く。

 彼の指摘通り、運命の恋人という単語はツェツィーリアお気に入りのロマンス小説の題名タイトルだ。婚約者がいるヒーローと運命の出会いを果たしてしまったヒロインの物語。

 最初は次から次へと襲い掛かる試練を乗り越えていく展開にハラハラしていたのだが、次第にヒーローにエリオットの姿を重ね、ヒーローの婚約者に自身の姿を重ね、そして物語のヒロインにまだ見ぬエリオットの“運命の恋人”の姿を重ねるようになっていた。そして物語の最後、ヒーローとヒロインが結ばれるシーンで静かに想いを馳せるのだ。どうかエリオットにも、運命の恋人が現れますように――と。

 どういう巡り合わせか、『運命の恋人』の主人公は薄桃色の髪だと作中で描写されていた。ソニア・マルティンと全く同じ髪色だ。その偶然が、彼女こそ天から遣わされた主人公ヒロインだとツェツィーリアに思い込ませてしまったのだ。

 頷いたツェツィーリアにキアランは目を細める。




「ツェツィ、案外そういう夢物語好きだよな」


「メイドのルイディナに勧められて読んだら、すっかりハマってしまいまして……」




 キアランから恋敵役を仰せつかった際に相談したメイドこそがルイディナであり、彼女はロマンス小説の大ファンであった。無事に恋敵役を務め終えた後も何かとツェツィーリアにロマンス小説を勧めてきては共に感想を語り合い――気づけばツェツィーリアもすっかりロマンス小説の虜になっていたのだ。

 ツェツィーリアが好むロマンス小説は似たような設定のものが多かった。その設定とはヒーローに既に婚約者がいるというもので、ルイディナも若干勘付いているようだった。はたしてツェツィーリアが自分とエリオットを物語に投影して読んでいることまで気づいているかは不明だったが、超えてはならない一線を心得ている聡いメイドは踏み込んでくることはなかった。

 ロマンス小説に想いを馳せたところで、話が脱線していることに気が付いたツェツィーリアは即座に話題を戻す。




「ではなくて! とにかく、わたしはエリオットの恋を応援したいのです」


「でも本人に聞いたわけじゃないんだろ?」


「はい。ですが、生まれたときから一緒だったわたしには分かります。あんな表情のエリオットは初めて見ました」




 エリオットは一見表情の変化に乏しいと思われがちだが、ツェツィーリアからしてみれば彼の瞳ほど雄弁なものはない。向ける視線一つでエリオットが相手をどう思っているのか、ツェツィーリアには手に取るように分かった。

 相手を憎からず思っている瞳、顔も合わせたくないほど毛嫌いしている瞳、信じていい人物かどうか探る瞳――

 ソニアに向けた瞳はそのどれとも違った。一度も見たことのない色をしていた。

 そのときツェツィーリアは確かに聞いたのだ。かちり、という音を。それはきっと、エリオットとソニアの運命の歯車がかち合った音に違いない。そうツェツィーリアは確信していた。




「……仮に、仮にだ。仮にエリオットがソニア嬢に恋したとして、婚約者はツェツィだろう。婚約者の恋を応援したいなんて……俺からすると、君の気持ちがわからない」




 キアランの言い分はもっともで、ツェツィーリアも今までの勢いをすっかり萎ませて瞼を伏せる。




「殿下もご存じでしょう。わたしとエリオットの婚約が、先代の尻拭いだと言われていることを」


「それは……」




 口籠るキアランにツェツィーリアは顔を上げて微笑んだ。

 ツェツィーリアの実家・グレーシェル家は王家とも縁が深い古くからの有力貴族で、国民からの評判はあまり良くないが表立って心無い言葉を投げかけられるほどではない。しかしそれでも、自分たちの婚約を“尻拭い婚約”と揶揄されていることは幼い頃から知っていた。――それほどエリオット、そしてベルトラン家に対する同情の声が大きいのだ。




「それを不服に思ったことはございません。紛れもない事実ですし、エリオットは婚約者として誠実に、これ以上なく向き合ってくれました」




 エリオットはどれだけ厳しい教育を受けようとも、ツェツィーリアにあたり散らすことなく婚約者としての振る舞いを崩すことはなかった。何よりもツェツィーリアを優先し、他の貴族の令息から婚約者殿、などと笑い交じりに呼ばれようとただ静かにツェツィーリアの傍らに立っていた。

 そんなエリオットを間近で見てきたからこそ、ツェツィーリアは彼に“ツェツィーリア・グレーシェルの婚約者”ではない幸せを掴んでほしいと思うようになったのだ。婚約の話が進むにつれてその思いは強まっていき、彼にはその権利があるはずだ、そうでなければ今までの苦労が報われない、とまで思うようになっていた。




「だからこそ、こんな婚約者ちゃばんはさっさと終わりにして、エリオットには真実の愛に生きてほしいのです」


「真実の愛、ねぇ……それもロマンス小説からの受け売りか?」




 ツェツィーリアは小さく頷くばかりで、それ以上口を開こうとはしなかった。

 自分の考えが世間一般に受け入れられるものではないことは重々承知している。話し合いを重ねて分かってもらえるものでもなし、理解が得られないのならばこれ以上キアラン相手に言葉を重ねるつもりはなかった。

 すっかり口を閉ざしてしまったツェツィーリアにキアランはため息をつく。




「でもグレーシェルとベルトランの婚約には王家うちも絡んでる。それに他に好きな人ができたから婚約破棄したい、なんてエリオットが言い出してみろ、ベルトランからしてみれば悪夢の再来だぞ」




 自分たちの婚約に王家が絡んでいるからこそ、ツェツィーリアはキアランに真っ先に相談したのだ。婚約を破棄するには王家の同意が必要不可欠だと分かっていたから、協力者として自陣に迎え入れてしまいたかった。

 王家と相手方ツェツィーリアの同意。それが揃えば悪夢の再来――ベルトラン家側が駆け落ちで婚約が破談になる愚行――にはならないはず。

 ツェツィーリアは一度深呼吸をして、自身の計画を口にした。




「はい。ですからわたしがエリオットとソニアさんの愛を前に白旗をあげる、憐れな当て馬令嬢になるのです」


「……恋敵に敵わないから婚約を破棄したいって?」




 すぐさま考えを見抜いてくるキアランにツェツィーリアは表情を和らげる。




「潔く身をひけばグレーシェルの名も上がりましょう。あとは高等部在学中に“加護持ち”の結婚相手を別に見つければいい話です」




 グレーシェル家はベルトランに名声と加護持ちの血を求めた。それならばそれぞれに代わりを用意すればエリオットとの婚約を破棄できるだろう、というのがツェツィーリアの考えだ。

 しかしキアランの顔は一向に晴れない。それどころか険しくなるばかりだった。




「そううまくいくとは思えないがなぁ……」


「とにかく! まずはエリオットとソニアさんの接点を増やし、エリオットの胸に灯った小さな恋の炎を燃え上がらせなければなりません。――ということで、ぜひとも彼女を我が清掃委員会に迎え入れましょう!」




 最後の一押しと言わんばかりにツェツィーリアはキアランに詰め寄る。自然と近くなってしまった距離を離すためか、キアランは緩慢な動きで再び椅子に腰かけた。

 清掃委員とはキアランが高等部に進学してすぐに立ち上げた委員会だ。その名の通り放課後校内を清掃して回るのだが、清掃はカモフラージュであり、その実恋に悩める少年少女を探すための手段であった。

 委員に所属しているのはキアラン、ツェツィーリア、そしてエリオットの三人のみ。ガードナー王立魔法学院に通う生徒の中でも最高位の身分にあたる三人と親しく会話できる者は少なく、遠巻きにされることを分かっていたため、キアランは既存の委員会に入らずに新規で委員会を立ち上げたのだ。

 ツェツィーリアはそこに特待生であり、エリオットの運命の恋人であるソニアを招き入れようと考えていた。同じ委員会に所属すれば自然と関わりを持てるため、一気に二人の距離を近づけることができるだろう、と。




「まぁ、俺は構わないが――」




 キアランが浅く頷いたときだった。教室――清掃委員の活動教室に定めている一室――の扉が大きな音を立てて開かれる。

 この部屋にずけずけと入ってこられる人間はキアラン、ツェツィーリアを除けばあと一人しかいない。主役の登場に心を浮つかせ、ツェツィーリアは笑顔で振り返った。

 そこに立っていたのは黒髪の青年、エリオット・ベルトランだ。




「あら、エリオット!」




 途端にエリオットは深紅の瞳を吊り上げてツェツィーリアに詰め寄る。




「あら、じゃない! 急に廊下を走り出したと思ったら、こんなところにいたのか!」




 どうやら突然走り去ってしまった婚約者の姿を探していたらしい。走り回ったのか、肩で息をしていた。

 いきり立つエリオットを落ち着かせようとキアランが間に割って入る。




「ちょうどいいタイミングだ、エリオット。我が清掃委員に新しいメンバーを迎え入れようという話になったんだが……」


「誰だ」




 ギロリと鋭く睨まれてキアランは苦笑した。そして助けを請うようにツェツィーリアに視線を投げる。

 キアランからのSOSを正しく受け取ったツェツィーリアはエリオットの手を取った。そして未だ険しい表情の婚約者に微笑みかける。




「会ってからのお楽しみ!」


「……ツェツィーリア」


「きっと驚くわ、楽しみにしてて」




 ね、と首を傾げて念を押せば途端にエリオットは黙り込んでしまった。正確にはこれ以上何を言っても無駄だと諦めてしまったのだろう、とツェツィーリアは心の中で申し訳なく思う。

 幼い頃からエリオットはキアランとツェツィーリアに振り回される側だった。危ない真似や軽率な行動を咎め、それでも見捨てずに付き合い、最後までなんだかんだと付き合ってくれる、とても優しい婚約者。

 ツェツィーリアは黙り込んだエリオットを見上げる。幼い頃はツェツィーリアの方が大きかったのに、中等部に入ったあたりからぐんぐんと背が伸びて、あっという間に追い越されてしまった。まだ体ができきっていないためか足も腕も首も細長く、ひょろっと線が細い印象を受けるが、あと数年もすれば彼の毎晩の鍛錬も報われることだろう。

 ――そのとき彼の隣に立っているのは自分ではない。

 チクリと痛んだ胸に気づかない振りをして、エリオットの手を離したときだった。授業の開始十分前を告げる予鈴が鳴る。

 瞬間、離れた手が今度はエリオットから握られた。




「おい、授業が始まるから行くぞ。キアラン! 貴様もサボるなよ!」




 エリオットに腕を引かれ、ツェツィーリアは教室から退室する。言葉遣いこそ乱暴なものの、歩幅をしっかりとツェツィーリアに合わせて、強引に腕を引かない婚約者の優しさが今は苦しかった。

 しかし同時にツェツィーリアは硬く心に誓う。この機会チャンスを逃しはしない、完璧な当て馬を演じてみせる、と。

 ――ところは変わって、複雑な表情を浮かべる人物が一人。




「変な風に拗れなきゃいいんだがなぁ」




 一人教室に残されたキアラン・ガードナー・オルムステッド皇太子殿下はぽつりと呟いた。



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