左大臣の屋敷は築地ついじと植込みで目隠しされていました。

 土塀が子供の背丈の倍あろうとも、青嵐には何ほどのものではありません。塀を一足飛びに飛び越えようとしたとき、青嵐は堀の外からなかを覗く男がいるのに気がつきました。

「そんなところで何をしている」

 突然声をかけられたので、男は驚愕びっくりしたようでした。思わず大声をあげかけたところを、自身の手で口を塞ぎます。よく見れば、仕立ての良い狩衣姿の青年です。人相も卑しくありません。さらに、塀の角にしゃがみ込んでいるのは供の者と思われました。

「ここな姫君が大そう美しいと噂に聞き、立ち寄ってみたのだ」

 と青年は答えました。

「人に聞いて何とする。じかに会って確かめればよいではないか」

「異なことを言う童だな。そのようなこと、できるはずがないだろう?」

 身分の高い子女は、みだりに人前に姿をみせないものだというのが都の掟なのでした。

 青嵐は首を傾げました。人間に追われる獣やあやかしならばいざ知らず、身分が違うというだけでふるまいまで変わってしまうとは。

「それでは、お前は姫の姿を見ることができたのか?」

 青年は童子姿の青嵐にお前呼ばわりされても、別段気分を害したふうでもありませんでした。

「ああ。前に一度だけ、ちらとお見かけしたことがある……が、それきりでな。文を結んでも返事もないし……。そうだ! お前はこの家に仕える童か?」

 青嵐は曖昧にうなずきました。仕えていようがいなかろうが、姫君の姿を見ることはできるからです。

「ではこの文を姫君に渡してくれ」

 青年は何やら書きつけた懐紙を、青嵐の手を取って握らせました。

「何だ、これは?」

「渡せばわかる。頼むから。な、これをお前にろう」

 再び青嵐の手に何かが押し込まれました。彼が掌を開いてみる前に、青年は供の者を呼び、足早に立ち去ってしまいました。

 青年がくれたものは、銅銭でした。青嵐は道にそれを放り投げました。

 塀をひらりと飛び越えて庭に立ってみると、青年が覗いていただけあって、池を隔てた対面が姫君の部屋であるようでした。女房が手水鉢を捧げ持って廊下を歩いてゆきます。

 寺にいるだけであれほど小うるさいのですから、お屋敷の中では何と言われるか、たまったものではありません。青嵐は女房が角を曲がって見えなくなるまで待ちました。

 部屋の中には確かに人の気配がします。青嵐が腕をさっと掻き払うと、一陣の風が巻き起こり、御簾を吹き上げました。

 現われた姿に、青嵐は思わず息を呑みました。そこには同じように、息を止めて目を丸くしている姫君がいたのです。三年前より背はすらりと伸び、絹のような黒髪はきちんと切り揃えられ、眉も今風に整えられています。ふっくらと丸みを帯びていた頬もすっかり細面になり、様変わりしていましたが、匂いであの姫だとわかりました。焚き染められた香の匂いも混じってはいましたが……。

「薫!」

 庭の青嵐に目を止めると、姫君は喜色満面の笑みを浮かべました。

「どうしてここに?」

「お前が、会いに来ると言っていたのにやって来ないから、訪ねて来たのだ」

「子供の足で、都まで? よくここがわかりましたね」

「造作ないことだ」

「薫らしいですね」

 姫君は笑って、青嵐を御簾の内に招き入れました。

「あれから何年になります?」

「三年だ」

「忘れていたわけではないのです。見て、薫」

 部屋の文机の周りには、何巻もの書や巻物が散在していました。

「外つ国の書物よ。父上が特別に手に入れてくださったの。これを読めば、うんと遠い国のことでも、居ながらにして、色々なことがわかるのよ。そうすれば、妾でも、薫に教えてあげられるのではないかと思って――でも、とても時間がかかってしまいましたね」

 姫君の笑顔を見ているうちに、青嵐は胸のつかえがなくなっていることに気づきました。自分との約束を忘れたわけではなかったのです。姫君の興味の対象が失われたわけでもありませんでした。たとえ姿形は変わっても、中身は山寺に訪ねて来ていたときと同じようでした。

「そういえば先刻、屋敷を覗いていた男から、こんなものを預かってきた。お前に渡すようにと」

 青年から言付かった文を渡すと、姫君は中をちらと見て、放り出しました。

「最近とみに頂くのです。やんごとない方であるとかで、無下にしないようにと父上は仰るのだけれど、妾には煩わしいばかりです。おかげで、何かあるといけないからと、妾を外に出さないためにこの書物を与えたのだと勘繰りたくもなります」

「あの山にいる限り、お前には何事も起きない」

「そうですね」

 拗ねて頬を膨らませていた姫君が再び笑顔になり、青嵐も声をあげて笑いました。

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