それからまた或る日のこと。

 青嵐はいつものように大杉の天辺に腰かけて、姫君が輿に乗ってやって来るのを待っていました。

 するとそこへ静かな羽音がして、何者かが、一本足の下駄を履いた片足で、杉の梢に舞い降りました。

ナギ

 青嵐は振り返って呼びかけました。

 凪と呼ばれた天狗は、若いおもてにもかかわらず、その長い髪も羽も、年老いた鷲のように真っ白でした。

貴方あなたが踊りにも合戦にも姿をみせないもので、皆、どうしたのかと寂しがっていましたよ。――そうだ、舶来のものだという、黒い粉を手に入れたのです。火中に投じると、栗のようにぜるのだとか。面白そうでしょう? 貴方もおいでなさい」

 青嵐は苦笑しつつ、

「知っているくせに嫌味を言うな」

大臣おとどの娘とかいうあの女童でしょう。知っていますが、人の子と地べたで遊ぶのがそれほど面白いとは知りませんでした」

「あの子はお前に似ているところがある」と青嵐は言いました。

 凪は腕力こそ頭目である青嵐に劣るものの、知力では青嵐も一目置く片腕でした。難しい経もすらすら説き、古今東西の兵法も心得ていて、合戦の真似事をして遊ぶときは彼が采配をふるうのです。

 青嵐は凪に、姫君に山の虫や獣のこと、薬草を見分けるすべを教えたと話しました。

「物怖じせぬ童で、飲み込みも早い。これほど教え甲斐のある人間に出会ったのは何十年ぶりなのだ。おまえも、会えばきっと気に入る」

「感心しませんね」

 冷たい声音に、青嵐は面食らいました。知識を追い求めるのが好きな凪ならば、わかってくれると思っていたのです。

「何故だ?」

「その娘が教えられたことを独り胸にしまっておくとは限らぬではないですか。誰ぞにそそのかされて、我らの秘密を明かしてしまうようなことにでもなれば、如何されますか」

「お前は都人のようなことを言う」

 青嵐は豪快に笑い飛ばしました。

「あの姫は人としては変わり者だ。金品や甘言では動かされぬだろう」

「人の心はうつろうものです」

 凪は静かな湖面のような表情に微笑みを浮かべ、飛び去っていきました。

 その言葉が当たったのか、姫君は突然山寺に姿をみせなくなりました。

 青嵐は半年、一年と待ちました。何百年も前から生きており、これから先も同じように生き続ける天狗にとっては、一年など瞬きをする間のようなもの。

 ところが、雪が融け、再び桜が咲いて散り、紫陽花が茂って枯れ、藤の花が重く垂れ下がり、紅葉が山を染める頃になると、青嵐は胸の奥がそわそわし始めました。

 仲間の天狗たちには何も変わったところなど見受けられません。新しい兵法を試そうと、いつものように東軍と西軍に分かれて合戦をしようと集まってきました。凪は裁定役として少し離れた所から見守っています。

「御大将」

 足軽のような簡素な鎧を身につけた天狗が青嵐に声をかけました。

 皆、思い思いの格好をしています。僧兵姿あり、草鞋履きあり、刀あり、金棒あり……。

「御大将が居らぬと、話になりませぬ」

「うむ……」

 青嵐は何だか気乗りがしませんでしたが、東軍の大将なので、出ないわけにもゆきません。手に持った棒をひと振りすると、薙刀に変えます。

 青嵐の号令一下、両軍入り乱れての合戦が始まりました。天狗たちは梢の間を目にも留まらぬ速さで縫うように飛び、空高く飛び出しました。そこへ木の陰で待ち伏せしていた一隊が襲いかかり、空中で切り合いが始まります。

 白刃が月光に煌めき、天狗たちは鷲のような声で雄叫びをあげ、夜の底に沈む山々を震わせました。

 青嵐も二匹の天狗に切りかかられましたが、薙刀を振るって槍の穂先を受け流し、相手が体勢を崩したところを、柄で背中から叩き落します。もう片方は振り下ろされた刀を受け止め、谷底へ蹴り落としました。

 敗れた天狗たちは地上に向かって流星のように堕ちてゆきましたが、地面に激突する寸前で、力強く羽ばたいて体を反転させ、再び合戦に舞い戻ってきます。

 これは遊びでした。永いこと生きており、森の獣はもとよりほかの物の怪よりも強い天狗たちにとって、命をかけて本気になれる事柄など無きに等しかったのです。

 青嵐に敵う者は誰もおりませんでしたが、彼とて誰も傷つけるつもりはありませんでしたから、合戦は何ときも続きました。

 結果的に東軍の勝利との判定にもかかわらず、青嵐の気持ちは晴れません。夜はすでに更け、合戦に飽いた天狗たちは笙や篳篥ひちりきを吹いて踊り出しました。

 青嵐はそれを横目で眺めているだけです。

 頭目の加わらないことに天狗たちは最初怪訝そうでしたが、すぐに自分たちだけで騒ぎ始めました。

 凪の言うように、姫の心は変わってしまったのだろうか。

 青嵐には理解できませんでした。天狗たちの世界では、誰かが欠けることも、一度交わした約束をたがえることもないのです。

 ならば姫に問い質してみよう。

 青嵐は夜を衝いて飛び立ちました。ほかの天狗たちは何が起こったのかと、笛を吹く手を止めて見上げています。

 箒星のように速く。速く。皆の驚いた顔もどんどん小さくなってゆきます。

 闇に紛れて都の上空までやってくると、青嵐は左大臣の屋敷を探しました。

 遠くまで見渡せる目を持っているとはいえ、実際に都の土を踏むのは初めてです。

 お屋敷のある都大路は広くて長いものの、山の果てのなさには及びません。さらに、下るにつれて粗末な掘っ立て小屋がひしめき合い、沢山の人々が肩を寄せ合って暮らしているようです。飯を炊く匂いや、魚を焼いているらしい焦げた臭い、飼われている牛馬の臭いもします。

 すでに夜は明けかかり、青嵐は天狗の姿から童子の格好に化生せざるを得ませんでした。

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