虫愛づる姫或いはお山の昔語り

吉村杏

 昔むかしあるところに、天狗とお姫様が住んでいました。

 といってもむろん一緒に住んでいたわけではなく、お姫様は華やかな都の一角に立派なお屋敷を構え、天狗は杉の大木が鬱蒼と生い茂る山々を棲家としていました。

 天狗の名前は青嵐セイランといい、山に棲む天狗たちを束ねる頭目でした。お姫様はただ、左大臣の姫、として知られていました。昔のことですから、女のひとはそのように呼ばれたのです。

 お姫様は天狗のことを知りませんでしたが、天狗のほうはお姫様のことを知っていました。都を囲む山々に点在する寺社仏閣へ詣でる善男善女が危難に遭わぬよう、蔭ながら守護するのが天狗たちのつとめでしたので、左大臣が姫とそのお供を大勢引き連れてやってきたときのことも、よく覚えているのでした。

 ある日、青嵐が、寺の境内で一番高い杉の木の上で下界を見下ろしていたときのことです。寺の廊下に下げられていた御簾がぱっとひるがえって、女童めのわらわがひとり走り出てきました。

 いえ、天狗の目には女童でも、年のころはもう十二、三。髪も背の中ほどまであり、幼いながらも高貴な身分であるようでした。

 しかし青嵐が面白いと思ったのは、姫君のふるまいでした。枸橘からたちの木に駆け寄ったかと思うと、葉の上から毛虫をつまみあげ、掌に載せて眺めています。手の届かない枝に何かを見つけると、小坊主を呼びつけ、虫を採らせては、籐で編んだ虫籠に入れるのでした。

 姫君が木の梢を見上げたとき、青嵐にはその面立ちがよく見えました。眉は全部剃ってまゆずみで描いてしまわずに、自ずと生えてくるままにしています。鉄漿おはぐろもつけておらず、小坊主に虫の名を尋くたびに、白い歯がこぼれます。白粉おしろいで肌を真白くもしていないので、市井の人々のように少し日に焼けています。長い睫の下には利発そうな黒い瞳が輝いていました。

 姫君の飾らない美しさを、青嵐は好ましく思いました。特にその澄んだ瞳を。

 そのときです。御簾の陰から、女房らしき女の慌てた声がしました。

「姫様、外に出てお姿をみせるなどはしたないこと! 何ぞあったら如何されますか」

「これほど都から離れた山奥で、お坊様以外に誰がわたしの姿を覗き見るというのでしょう」

「お坊様とて殿方であることに変わりはございませんでしょう。……それに、物の怪が見ているとも限らぬではないですか」

 女房は小声で呟きましたが、青嵐にはすべて聞こえておりました。

 女房があまりうるさく言うので、姫君は軒先にひっこみましたが、廊下を通る僧を呼び止めては、先ほど捕らえた虫の名や、何を食べているのかを聞いています。

「生憎と存じ上げませぬ」と、ある僧が答えました。

「まあ、お坊様でも知らないことがおありなのね」

 姫君は少し驚いたふうでしたが、やがて顔を輝かせました。

「では、この虫は妾が初めて見つけたものかもしれないのね。都に持ち帰り、ほかの者にも見せてあげましょう」

「またそのようなことを。そんな気味のわるい虫など、お屋敷にお持ち帰りになれば、口さがない者たちに何と噂されるか知れたものではございませんよ」

他人ひとがどう噂しようと、それで死ぬわけではないもの。それよりも、このがどんな蝶になるか、あるいは蛾になるか、変化へんげするまで見ていたいけれど、何を食べているかもわからないでは、お屋敷で飼うわけにもゆかないわ。一体誰に聞けばよいのでしょう」

 姫君は虫籠を持ったまま、へやの中へ入ってゆきました。

 なんとも不思議な姫です。ひとの嫌がる毛虫や蛾のことを知りたいと言い、噂話など意に介さぬようです。

 青嵐は野山に棲む鳥獣や草木のことは、地の下の蚯蚓みみずから、天にまでそびえる杉のことまで知っていましたが、無闇むやみに秘密を明かすものではないと大天狗からいましめられていました。けれども、この幼い姫の熱心さに感じ入り、少しならば教えてやってもよいだろうと考えました。

 とはいえ、烏天狗のようなくちばしこそないものの、身の丈六尺、背には闇より黒い羽を生やし、惣髪に破れた僧衣を纏った青嵐が姿を現せば、いかに気丈な姫君といえども、恐ろしさのあまり気を失ってしまうに違いありません。

 青嵐は杉の木の天辺から真っ逆さまに飛び降りました。くるりと一回転するあいだに、大きな羽は消え、背は縮み、境内に降り立ったときには束髪に水干姿の童子になっていました。

 青嵐は、先ほど姫君が眺めていた毛虫の食べる木の枝を二、三本折り取ると、御簾の隙間からぐいと差し入れました。

「きゃあ!」

「なんと無礼な!」

 突然のことに姫君は小さな悲鳴をあげ、女房たちは色めき立ちました。

「その虫を籠の中に入れておくなら、この葉をやればいい」

「まあ」

 姫君は愛らしいまなこを大きく見開きました。

「姫様に何という口の利きよう。そこな童――」

おれは童ではない。かおるだ」と青嵐は言いました。

「では薫」と姫君。

「お前はこの毛虫のことを知っているのですね。何を食べるか、何に成るかなど……」

「当たり前だ」

 都のぐるりの山々のうちで、青嵐たち天狗のわからぬことなどないのです。

「先刻お前はその毛虫がまだ誰にも知られていないと言っていたが、それは違う。山のふもとには、たしかに見かけぬ虫かもしれないが、深山みやまに分け入れば別段珍しくも何ともない」

「まあ小憎らしい。何とこまっしゃくれた童でしょう。山寺で育つとこのようになってしまうのでしょうね。姫様、このような下賎の者にはお近づきなさいますな」

 女房たちは気色ばみ、童子姿の青嵐を、犬の仔ででもあるかのように手でしっしと追い払おうとしましたが、姫君はそれを押しとどめました。

「この者が本当に山寺で育ったのならば、都人みやこびとより野山に通じているのは道理でしょう。さあ、こちらへ来て色々聞かせておくれ」

 それからふたりはどの毛虫や蛹がどんな羽虫に成るのか、肩を並べて話しました。何を尋ねられても青嵐が淀みなく答えるので、終いには姫君は溜め息をつきました。

「お坊様に尋ねてもわからなかったというのに、薫は何でも知っているのですね」

「この山のことで、己の知らぬことは無い」

 青嵐はちょっぴり得意になって言いました。感嘆されたのに加え、姫君が物事の本質を知りたがっていることに、己の持つ知識を分けてやりたいとも思うようになっていました。

「女房たちを許してやってね」

 別れ際、姫君は言いました。

「あれは妾を思ってのことなのです。都では、他愛ないことでもすぐ人の口の端にのぼってしまう。始終気を張っていなければならないのです。ここでは誰に気兼ねすることもないので愉しいけれど、妾は都に帰らねばなりません。でもまたきっと来ますから、もっと教えて頂戴ね」

「約束だ」

 ふたりは子供のように指切りをして別れました。

 そして約束どおり、姫君は再び寺へやって来ました。

 病に臥せっておられる帝の平癒祈願、というのが理由でしたが、写経などそっちのけで、境内や林の裾へ出て歩くのでした。

 青嵐は姫君に、鳥獣の生活や山野に生えている薬草の効能を教えました。

「……とても苦い」

 干した木の根を齧った姫君が顔を顰めました。

「そりゃそうだろう、薬は菓子とは違う」

 姫君が可愛らしい眉根を寄せて唇をすぼめる様子が可笑しくて、青嵐は大声で笑いました。たとえ童子の姿であっても、彼が笑うと、山の木々がそれに合わせて、風もないのに枝葉をざわめかせました。

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