十四話

 雨の勢いがまったく衰えず、王宮に到着するのに少し時間がかかってしまった。辺りは雨音が響くだけの漆黒の闇だ。城下は寝静まり、王宮内も同様かと思ったのだが、馬を降りて眺めた王宮の周囲は、なぜだか慌ただしい雰囲気だった。衛兵達はいつもの場所には見えず、あちらこちらを駆けている。その中に混じって、すでに休んでいるはずの高官やら侍女やらが荷物を抱えてどこかへ向かっている。大雨という天気にも構わず、ぞろぞろと列をなして王宮の外へ出ていっていた。これは、一体何事だ? 火事が起きたわけでもなさそうだが――とにかく俺はエゼルの父親の話を伝えようと、ホリオーク様を捜しに王宮へ入った。


 壁のランプの明かりが頼りなく廊下を照らす中を、何人もの兵士が通り過ぎていく。皆一様に急ぎ、表情が硬い。ただ事ではないのか? 誰かに聞いてみるか――俺は辺りを見回し、話を聞けそうな兵士を捜した。すると、ちょうど奥から見知った同僚の姿がやってきて、俺は咄嗟に呼び止めた。


「おい、この状況は何だ。何が起きている」


「……ノーマン、お前、何も聞いていないのか?」


「遠出をしていてな。ついさっき帰ってきたところなんだ。それで、一体どうしたんだ」


「悪いが説明している暇がないんだ。早く城下の住人を避難させないと……」


「避難って、どういうことだ」


「お前も手が空いているなら手伝え」


 そう言うと同僚は俺を残して走り去ってしまった。かなり急いでいるようだ。避難? 何から避難させるというのか。まだ状況がよくわからない……仕方ない。ホリオーク様を見つけて、直接聞いてみるか。


 俺は慌ただしい廊下を進み、ホリオーク様の部屋へ向かった。到着すると、その扉の前にはいつものように護衛兵が一人立っていた。


「……スタウト、こんな時間までどこへ行っていたんだ」


「エゼル・ライトの調査で、アンリスまで行っていた。その報告をしたいんだが、ホリオーク様はおられるか」


「ああ。中におられるが、手短にな。だが、お前の調査は無駄だったかもな」


「無駄……?」


 護衛兵は扉を開け、入るよう促す。気になる言葉を言われたが、とりあえず俺は部屋の中へ入った。


「ホリオーク様、ただ今戻りました」


 応接間のソファーに座ったホリオーク様は、手元の分厚い本から視線を上げ、こちらを見た。


「スタウト君……そういえばアンリスまで行っていたのでしたか。外はまだどしゃ降りのようですね」


 俺の濡れたマント姿を見てホリオーク様は言った。


「はい。まだやみそうにありません。ところで、おうかがいしたいのですが、城下で何か起こったのですか? 先ほど、城下の住人を避難させると聞いたのですが」


「ああ、スタウト君はまだ知らないのですね。……つい先ほど、国王陛下のご指示で、全王国民は近隣の山林へ避難することになったのです」


「すべての民がですか? なぜそんなことに……」


「神々が邪神を討つことを決めたからです。邪神はすでに、トラッドリアへ渡ってきています。そのため、王国領内ではこれから、ありとあらゆる神の力が吹き荒れることでしょう。それに民が巻き込まれないよう、国王陛下は避難指示を頼まれたのです」


 邪神がこちらの世界に、すでに来ている……それは、エゼルから代償を貰うため、なのか? だとしたら、エゼルの身が危ない――


「エゼル・ライトは安全なのでしょうか。神は彼女をお守りしてくださるのでしょうか」


 そう聞くと、ホリオーク様の表情は心なしか強張ったようだった。


「邪神が討たれるのなら、彼女に付いた気配については、もう心配はいらないと考えていいのですか?」


「スタウト君には辛いことを伝えるようですが、エゼル・ライトについて、神は……殺すようにとおっしゃいました」


「なっ……」


 エゼルを、殺せだと? 悪さも何もしていない、王国の兵士として励んできた人間を、よりにもよって神が殺せ、だと……?


「なぜですか! なぜエゼルが殺されなければ――」


「お互いの世界のためです。エゼル・ライトに付いた気配、あれは邪神が生命に手を加えた証拠であり、自身の器に変えた可能性もあるそうです。器とは、言うなればトラッドリアでの依り代です。こちらで姿を持てない邪神は、エゼル・ライトという体を得て、何かよからぬことをたくらんでいると神々は推測しています。もし姿を持ったことで力が使えるようになったとしたら、お互いの世界の均衡は脅かされ、力を行使されれば、人間にも神々にも深刻な被害が及ぶかもしれません。それを避けるために――」


「避けるために、被害者であるエゼルを殺すというのですか。一つの可能性の話のために!」


「控えろ、スタウト」


 部屋内にいたもう一人の護衛兵が俺に言ったが、ホリオーク様はそれを制した。


「いいのです。彼の気持ちを思えば、憤るのは当然のことです。誰だって友人が殺されるなど、認められるわけがありません。ですがそれでも、認めてもらうしか――」


「お待ちください。俺はアンリスでエゼルの父親に話を聞き、驚くべきことを知りました。エゼルは誕生直後、死の間際にあったのですが、そこに現れた邪神は母親を犠牲にしてエゼルを救っていたんです」


「邪神が、救った? それは本当の話なのですか……?」


 半信半疑のホリオーク様には構わず、俺は続けた。


「ですが邪神は救った代償を求めたそうです。それは、心に抱く何よりも大事なもの……邪神は今、それを奪おうとしているんです」


 これに難しい表情でホリオーク様は考え込んだ。


「それが本当の話ならば……やはり邪神はエゼル・ライトを何かしらに利用しようとしているのかもしれません。命を救ったというのも、その命に手を加える機会でもあります。神々の推測に近いと言えるでしょう。ですが、心に抱く何よりも大事なものというのは一体……」


「父親はそれを命と考えています。なので娘を奪われないよう、父親は一計を案じたんです。エゼルにとって命よりも大事なものを、邪神そのものにしたんです」


「邪神を信仰させたというのですか?」


 目を丸くさせたホリオーク様に俺はうなずいて見せた。


「邪神信仰については、どうかとがめないでください。これは娘を守るための方法だったんです。上手くいけば、エゼルは命を失わずに済み、邪神も何も奪えずに――」


「それは、どうでしょうか」


 ホリオーク様は険しい眼差しをこちらに向けてきた。


「スタウト君の考える通りに、そう上手くいくかはわかりません。それに、邪神が何も奪えなかったとしても、簡単に引き下がるでしょうか。すでにトラッドリアに来ている以上、それなりの見通しもあるはずです。邪神が失敗すると断言できない状況では、やはり最悪の事態に備えて手を打つしか……」


「どちらも同じ可能性です。でしたら取り返しのつかない行動よりも、その前にできることを優先するべきではないですか」


「王国内だけの問題ならばそうなのでしょう。ですが今回の問題の先には神と人間、二つの世界の運命が係わる恐れもあるのです。様子を見ながらでは手遅れということにもなりかねず、切迫した状況でもあります。国王陛下はそれをご理解なさったからこそ、神のお言葉をお聞きし、民の避難とエゼル・ライトを処するご指示を出され――」


 心臓を跳ね上げさせるような言葉に、俺は思わずホリオーク様に詰め寄った。


「まさか! すでにご指示を出されたのですか? いつ、いつのことですか!」


「つい先ほど、民の避難指示と同時に――」


 俺はそれだけ聞いて、慌てて部屋を飛び出した。


「スタウト君、待ちなさい! 我々も避難をしなければ――」


 避難などしている場合か。エゼルが殺されるというのに! ただ生きていると問題が起こるかもしれないという理由だけで……。そんなこと、許せるものか。エゼルに殺される理由など一つもありはしない。一つたりとも――王宮を駆け抜け、暗闇の外に出た俺は、降り続ける雨粒に打たれながら脇目も振らず監獄棟へ走った。


 夜、普段ならたかれているかがり火も、この大雨ではさすがに火をおこすことができなかったらしい。監獄棟の前は暗く、警備の兵士も別の場所へ行ったのか閑散としていた。中へ入るにはその兵士に許可を得て入るのだが、いないのでは勝手に入るしかない。正面の重そうな鉄の扉の前に行き、その取っ手に手をかけようとした瞬間だった。ギギ、ときしんだ音が鳴ったかと思うと、扉は内側からおもむろに開き始めた。


「……おう? あんた、前に会った人だな」


 扉から出てきたのは、以前エゼルの元まで案内をしてくれた獄吏だった。


「こんな時にこんなところへ、何の用だ」


「エゼル・ライトに会いに……彼女はまだ無事か」


「ああ、その女なら、ほら、もう来るよ」


 獄吏は顎をしゃくり、通路の奥を示した。ろうそくの明かりだけの薄暗い奥へ目を凝らすと、兵士に背中を押されながら歩く近衛師団の制服がぼんやりと見えてきた。……よかった。まだ間に合った。


「……エゼル!」


 呼ぶと、うつむいていた顔がふとこちらを見た。その表情はいつもの素っ気ないものではなく、疲れ、弱り切り、何の力も感じられないものだった。以前聞いた時は大丈夫と言っていたが、さすがに疲労困憊しているようだ。


「……ノーマン……」


 罪人でもないのに両手を後ろで縛られた状態で、エゼルは俺を呼び、見上げた。少し乱れ、艶の消えた茶の髪がエゼルの独房での時間を物語っているようだ。呼んでくれたか細い声に応えようと、俺は歩み寄ろうとした。


「何だ、お前は」


 兵士は警戒の目で俺を見ると、エゼルの前に立ち塞がった。


「その護衛兵を、殺せと言われたのか」


「そうだが……お前は? 何か用でもあるのか」


「俺は……」


 エゼルの不安そうな眼差しが見ていた。ここで力尽くというのはまずい。となると嘘で騙すしか――


「……その命令が、取り消されたことを伝えに来た。それと、エゼル・ライトの拘束を解けとも」


 俺の咄嗟の出任せに、予想はしていたものの、兵士はやはり不審な表情を浮かべた。


「そんな話、まったく聞いていないが……」


「だから俺がこうして伝えに来た。周りは避難やその誘導で忙しいんだろう」


「しかし――」


「お前はもうここにいる必要はない。皆の手伝いにでも行ってくれ。後は俺が処理しておく」


 そう言って俺はエゼルに近付こうとしたが、そんな俺の肩を兵士はつかみ、止めた。


「待て」


「……何だ」


 動揺しないよう俺は兵士を強く見据えた。それを受ける兵士も、睨むような目付きでこちらを見てくる。


「本当に、命令は取り消されたのか?」


「そう言っている。……疑うのか」


「いや……だったら命令取消し書を出せ。預かっているはずだろう」


 取消し書だと? そんなものあるわけがない。ここは強気で通すんだ――


「この状況を見ろ。そんなものを書いている暇はなかったんだろう。とにかく俺は伝えるように言われて来ただけで、書類は預かっていない」


「では誰に伝えろと言われた」


 兵士に鋭く聞かれ、思わず口ごもりそうになった。


「ホリオーク様だ。俺は、あの方の護衛兵をしている。疑うなら自分で――」


 俺を見る兵士の表情が険しく変わった。何かしくじったか……。


「預言師様? それはおかしいな。預言師様には国王陛下のご命令を取り消す権限など与えられていないはず。そもそも、そういったことへの干渉は出来ないお立場だ。取り消すことができるのは国王陛下ご本人か、その命を受けた者……たとえば監獄棟を管轄する私の上官などだ」


 嫌な焦りが背中の汗と共に体を伝っていく――反論の言葉が出ない。もう出任せでは難しいか……。


「怪しい奴め……お前は、何者だ」


 兵士は俺の肩をつかむ手に力を入れ、こちらの目の奥をのぞくように睨み据えてきた。ここで引き下がればエゼルの命はない。だが無理に嘘を重ねても余計に怪しまれるだけで悪い状況が長引くだけだろう。どちらにしろ、このままではエゼルを助けられるとは思えない――くそっ、結局こうするしかないのか。


「答えろ。この女を逃がしてどうしようと――」


 俺は肩をつかむ手を振り払うと、質問途中の兵士の顔を拳で思い切り殴った。


「ぐふぉっ」


 不意を突かれた兵士は俺の拳をまともに食らい、その勢いで通路の壁に体を打ち付けた。


「ノーマン……!」


 不安な表情でエゼルは驚いた声を上げた。


「大丈夫だ。もう――」


「貴様……」


 俺の腕を食い込むほど強くつかんできた兵士は、口の中に血を滲ませながら怒りもあらわに言ってきた。


「こんなことをして、ただでは済まないとわかっているんだろうな!」


「当然、覚悟の上さ……悪いな」


 俺は同じ頬をもう一度殴り付けた。兵士の頭は弾かれ、後ろの壁に当たると、脳しんとうでも起こしたのか、そのまま体は床に沈んでいった。こいつにはしばらく眠っていてもらうしかない。


「ノーマン、何てことを……」


 エゼルは倒れた兵士を心配そうに見下ろす。


「気を失っただけだ。それより早く逃げるぞ」


「逃げて、どうするっていうの? 私には殺される命令が出たって――」


「だから何だ。命令だから、お前は大人しく殺されて納得するのか」


「納得なんて、できはしないけれど……」


「それなら逃げるんだ。俺も一緒に逃げて、お前を守ってやる。だから心配するな」


「ノーマンがこんなことをして、心配しないなんて無理よ」


「じゃあ心配したっていいから、とにかく逃げるぞ。避難の民に紛れればすぐには見つからないはずだ。行くぞ」


「ちょっと待って。この、手の縄を……」


 エゼルは後ろ手になった両腕をもぞもぞと動かす。そうだった。まずは縄をほどいてやらないと。


「今ほどいてやる」


 俺は後ろへ回り、両手首を縛る細い縄に手をかけた。かなり強く縛られている。結び目もぎゅっと固結びにされ、指を差し込む隙間もない。これは時間がかかりそうだ。剣でも持っていれば切ることもできるが、あいにく今は帯剣していない。どこかに縄を切れそうなものでもあれば――


「これ使いな」


 振り向くと、そこには剣を差し出す獄吏がいた。俺は驚き、その顔を見つめた。


「……なぜ助けるんだ」


「俺が助けるのはあんたじゃなく、そっちの女だ。ちょっと頼まれたもんでな」


「頼まれた? 誰に」


「さる高貴なお方だよ。その女がここに入れられる時、自分達によく尽くしてくれた者だから悪い扱いはしないでほしいって頼まれたんだ。秘密裏にな」


「まさか、フロレア様……?」


 エゼルの呟きに、獄吏は口の端を上げた。


「何かあれば親身に聞いてやってくれとも言われた。そんなことを言うお方だ。あんたの死なんか望んじゃいないだろう。それに、俺も罪人じゃない者を死なせるのは気分が悪いしな」


「いいのか? こんなことをして」


「兵士を殴り倒したあんたが言うことか? ほら、早く縄を切って行け」


 獄吏に押し付けられた剣を受け取り、俺はエゼルを縛る縄を切りほどいた。


「……本当に、ありがとう」


 エゼルの礼に獄吏は一瞬笑みを見せたが、表情はすぐに真剣なものに変わった。


「逃がしはするが、俺にも立場や生活ってもんがある。ここはあんたら達に逃げられたってことにさせてもらって、そこの兵士が目を覚ましたら応援も呼ばせてもらう。その間に遠くへ行くなり身を隠すなりするんだな」


「助かる……感謝する」


「いいっていいって。早く行きな」


 優しさを隠したぶっきらぼうな声に促され、俺は腰のベルトに剣を差し込んでからエゼルと共に監獄棟から雨の降りしきる暗闇へと駆け出した。どうにか独房から助け出すことはできたが、まだ邪神という強大なものが待ち構えている。神を相手に、俺はエゼルの命を守り切れるだろうか――体を打つ大きな雨粒のように、俺の中にもやまない不安が打ち続けていた。だが今はとにかく逃げなければ。エゼルを守れるのは俺しかいないのだから。

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