十三話

 私は落ち着かなかった。真夜中にホリオークに起こされ、神々が私にも伝えたいことがあるとかで、この預言の間に来たのだが、こんなことは初めてのことだ。普段神々から伝えるべきことはホリオークを通して聞いているのだが、今回は違う。預言の間で、直々に、しかも寝ていた私をわざわざ起こしてまで伝えたいことがあるという。異例の出来事は明らかな異変を感じさせる。しかも邪神に関する現状を見れば、悪い内容である可能性が高い。そう思うと私は落ち着いて椅子に座っていることもできなかった。


「……ホリオーク、神々は何と言っている」


 ランプの明かりに照らされた背中に聞くが、ホリオークは鏡と向き合い、そこからの声に耳を傾けている最中のようだった。私の声には気付いてもいない……何をそんなに集中して聞かされているのか。私は自分の胸に走るぴりぴりしたものを和らげようと、腕を組み、椅子の側を静かに歩き続けた。私の足音がカツンと鳴り響く。それ以外には何も聞こえない。私が足を止めたら、見守っている護衛兵の息遣いまで聞こえてくるのではと思えるほど、預言の間は静寂に満ち満ちていた。この静けさがある限り、私は椅子に座ることはできない。横目でちらとホリオークを見るが、その姿はほとんど動かない。鏡にのみ意識を向けている。せめて表情が見えれば、歩き続けることもないのだが――


「……それは、確かなのですか?」


 静寂を破ったのは、ホリオークの声だった。


「どうしたのだ」


 私は思わず駆け寄り、ホリオークの肩をつかんだ。それにゆっくりと振り向いた表情は驚き、瞠目していた。


「邪神クロメアが、どうやらこちらへ……トラッドリアへ渡ったようだと……」


 やはり悪い話かと思うのと同時に、恐ろしい事態に私は息を呑んだ。


「邪神が、渡っただと? カーラムリアは、神々は一体何をしていたのだ! 幽閉場所から逃がした上に、それを捕らえられず、さらに逃亡を許すなど――」


「国王陛下のお怒りはごもっともですが、今は落ち着いていただいて……私がうかがいますので」


 ホリオークになだめられ、私は大きく息を吐いた。……神ともあろう者がこんな失態を演じるとは。それがコソ泥程度なら鼻で笑って終われるものの、逃げたのは邪神だ。力を持った神なのだ。我々の世界トラッドリアに影響を及ぼそうと思えばできてしまう存在が、カーラムリアの影響下から外れたら、一体どんなことが起こってしまうのか。未知の事態では想像すらできない。


 再び鏡と向き合ったホリオークは、私の怒りと懸念を丁寧な言葉に変えて伝えた。何度か言葉を交わすと、ホリオークは私にこう伝えた。


「神々は、トラッドリアへ渡ることは想定していなかったそうです。国王陛下もご存知でしょうが、神はトラッドリアへ渡ると姿が持てず、力も使えません。そんな状態になると知りながら渡ることに意味などないと考えていたそうです」


「だが邪神は我々の世界へ渡ったのだろう。神々には意味のないことでも、邪神には意味がある行動だったからだ。そう考えるべきではないか?」


「神々もそのように考えを改めたそうです」


「では、その考えを聞かせてもらいたい。邪神はなぜトラッドリアへ渡ったと思う。そこにどのような意味を見い出す」


「うかがいます……」


 ホリオークは鏡の向こうへ問う。私には聞こえない答えをじっと聞き、時には相槌を打ち、質問をし、そしてうなずく……そんな姿がしばらく続いていたが、ようやくホリオークは私に顔を向けた。


「まず、考えを改めた理由は、邪神のあの気配……あれがやはり鍵になると思われたそうです」


「しかし神々は、気配を残した意図はわからないのだろう」


「それは今も測りかねているようですが、様々な推測をすれば、邪神がトラッドリアへ渡った意味も見い出せると」


「推測とは?」


「ある神はこう申しております。邪神と呼ばれるクロメアですが、以前は生命を司る神であり、その力は封印から逃れれば健在です。そしてその封印は大分前から半ば壊されていました。それがきっかけで逃亡したわけですが……壊された封印を隠していた時期に、トラッドリアへ密かに力を行使し、何らかの仕掛けを施したのではないかと」


「仕掛けとは何だ」


「それが、気配なのではということです」


 私は首をかしげた。


「気配が仕掛け……? よくわからんな」


「邪神はあらゆる生命に触れ、手を加えることが可能だそうです。それが我々人間だった場合、自分に都合のよい生命に作り変えることもできてしまいます」


「気配は、邪神が生命に触れた証拠だというのか」


「神はそう推測しておられます」


 私は顎を撫でながら考えた。そうだとしたら、こちらへ渡ったことに何の意味がある?


「邪神はカーラムリアにいてこそ力を行使できた。それがトラッドリアへ渡ってしまったら、もう何もすることはできなくなるのだろう。それでは仕掛けを使った企みがあったところで無意味になるのではないか?」


「そうとも限らないようで……たとえば、邪神が人間の生命に手を加え、自分とまったく同じ能力を与えていたとしたら、実質トラッドリアでも力が行使できる状況と言えるでしょう」


「まさか、そうなのか……?」


「いえ、これはあくまで一例で、今回の場合はまた違うようです。封印を壊していたとはいえ、トラッドリアに分身を作るような真似はかなりの労力が必要だそうで、神は幽閉されていた邪神がそこまでできたとは思えないということです」


「ではどこまでできたというのだ」


「分身は作れずとも、器なら可能かもしれないと」


 またよくわからない言い回しを――私の心の声が聞こえたかのように、ホリオークはすぐに説明を始めた。


「神がおっしゃるには、邪神は密かに人間の生命に手を加え、トラッドリアでの自分の体を確保していたのではと推測しております。それですと邪神が渡った意味も見えてきます。分身の場合では渡る意味はありませんので」


 神はトラッドリアでは姿を持てない上に、力も使えない――


「つまり、渡った自分の器となるべく人間を用意し、その者に生命を移すか、同化するかして、こちらの世界を自由に動き回るということか?」


「動き回るだけなら害はすぐに抑えられるでしょうが、もし力が使える状態でもあったら――」


「待て。なぜ神がこちらで力が使える状態になるのだ」


「このような状況は、神々もご経験がないそうで、邪神がどこまで力を使え、どのような状態を作り上げているのかは、実際に目撃するまではわかりようがなく……」


 私は苛立ちと共に呆れた。


「同じカーラムリアの神でありながら、何もわからないというのか」


「ですから、すべては推測であり、その域を出ません。理の通り、力は使えないかもしれませんし、何らかの方法で使える状態に変えていることも考えられます」


 かもしれない……考えられる……確実なことは邪神がトラッドリアへ来たことくらいか。


「渡ったことに意味があるとは言ったが、我ながら疑わしく思えてきた。実は邪神にそんなものはなく、ただ逃げ延びるためということはないのか」


「それはいかがなものでしょう。邪神は逃亡した瞬間から追い詰められる運命です。トラッドリアへ逃げ込んでもできることはない上に、隠れ信仰者を順次拘束してしまえば、力を得ることもできません。再びカーラムリアへ戻るにしても、捕らえるために神々が待ち構えていることは当然想像できることです。そんな無意味な時間稼ぎをするとは思えま――国王陛下、しばしお待ちください」


 そう言うとホリオークは私との話を切り、鏡と向き合った。どうやら神々に呼ばれたらしい。それにしても、これほど不安な状況に陥るとは。神々にも把握していないことは多くあるようだ。どうにかしてくれるものと思っていたが、邪神の扱いはそう簡単なものではないらしい。堕ちたとはいえ神には違いないのだ。生命を司る力は人間そのものに大きな脅威となり得る。そんな者を野放しにしていたら、いつ我々に影響が及ぶか……。邪神は何を考え、こちらへ渡ったのか。単に逃げたのではないのなら、やはり目的があるということだろうか。目的……あるならそれも推測するしかなさそうだが。


「……国王陛下」


 ホリオークに呼ばれ、私は向き直った。


「ここからは重要なお話のようなので、神々のお言葉を逐一お伝えいたします。よろしいでしょうか」


「その前に一つ聞いてくれ。邪神の目的は何かわかっているのか」


「うかがいます……」


 ホリオークは質問し、その答えをじっと聞く。


「……本人に聞かなければわからないと。明らかなものはないそうです」


 やはりまた推測か……。


「そちらは何が目的だとお考えか。復讐か、それとも自由か」


「……その二つならば、前者に近いことではないかと。何にせよ、逃亡した邪神が考えを改めたとは思えず、おそらくカーラムリアにとってよからぬ思いを抱いているはず。気配のある人間を使ってトラッドリアで何かしらを行おうとしている可能性は非常に高いと思われます。そしてそれは、二つの世界にとって災いになることも十分に考えられると思われ……」


 ホリオークは一端口を止め、鏡からの声に耳を傾ける。


「……そこで、神々は深刻な異変を起こされる前に、手を打ちたいそうです」


「どのような手だ」


 じっと声を聞くホリオークを私は見つめる。と、その表情がわずかに険しくなり、そして私に向いた。


「……まずは、気配の付いた人間を、殺してほしい、と」


 私は驚いた。まさか神から人間を殺せなどと言われるとは……。


「気配が危険なものとは理解しているが、それに付かれた者が危険なわけではない。あの兵士は王国に尽くしてくれている者だ。それを簡単に殺せなど、あまりに安易な――」


「神々も、これは本意ではないそうです。ですがもし邪神が器として利用し、トラッドリアに現れてしまった時、どのようなことが起こるのかは未知数であり、そうである以上は最悪を想定して手を打っておく必要がある……そう申しております」


 確かに、間違ってはいないのだが――


「自ら犠牲を生むのは、気が進まない。他に、方法はないだろうか」


「……方法がないので、本意ではないことをするのだと。ここで手を打たなければ、トラッドリアに生きる者すべてが犠牲になる可能性もあります。国王陛下は、そうならないものと信じ、お待ちになりますか……?」


 一兵士の命と、トラッドリアにある全命の、どちらを取るかと聞くか……。私が国王と知りながらこんなことを聞くなど、実に不愉快だ――答えを待つホリオークを、私は軽くねめつけた。


「こ、国王陛下、これは神のお言葉ですので……」


「わかっている……では、器となる者を殺したとして、その後邪神はどうなるのだ。トラッドリアでさまよい続けられては、こちらとしては安心できない状況だ」


「……もちろん、そちらに関しても手は打たれるそうです」


「カーラムリアにいながら、邪神を引き戻せるとでもいうのか」


 ホリオークはしばらく声を聞き続けると、おもむろに私を見た。


「……引き戻すことはできないそうです。ですが、討つことはできると」


 カーラムリアにいれば、力は存分に発揮できる。それで邪神を討てるということか。しかし――


「邪神は姿がない状態だ。それで見つけられるのか」


「……邪神は、人間とは違う気配を発しているそうです。けれど姿を持たないせいか、かなり微弱なもので、正確に追うことは至難の業……。そこで国王陛下にご協力をお願いしたいそうです」


「協力? 何をすればいい」


「……すべての民の、避難を」


 民を避難させる……?


「なぜそんなことをさせるのだ」


「……申し上げたように、邪神の気配を追うのは難しく、正確には行えないとのこと。そのため、邪神という一点だけを狙うのもまた困難であり、ほぼ不可能だと」


「ではどう討つのだ」


「……点の目標が定まらないのなら、その周辺を含めた面で討つ他にない、そうです」


 私は思わず眉をしかめた。それはつまり――


「我が王国内で、手当たり次第に力を振るうということか……?」


 ホリオークも不安げな表情で声を聞いている。


「……おぼろな気配の邪神を討つには、そうするしかない、と」


「そんなことをされては、我が王国は壊滅してしまう! 邪神の脅威を除くために王国を壊されたのでは、元も子もないではないか!」


「……邪神が必ずしも町や城下に現れるとは限りませんが、気配の付いた者が器であった場合、邪神はその者がいた場所に必ず現れるでしょう。そうなるとおっしゃる通り、建物への被害は避けられません。ですのでそれらすべての回復には神々が助力してくださるそうです。その上で、国王陛下には民の避難を指示していただきたいと申しております。……いかがなさいますか?」


 おそらく、神々が邪神を討つために力を使えば、辺りは一気に戦場のような雰囲気に変わることだろう……いや、戦場よりもひどい地獄かもしれない。そこに我が王国が巻き込まれるなど、認めたくはない。ないのだが、邪神の不穏さを考えれば、我々は神に頼るしかないのが事実だ。人間の力では邪神を排除することはできない。何をするかわからない相手では放っておくこともできない。私の気持ちは反発している。だがここは、神の手にゆだねるしかないのだろう。背に腹はかえられない、ということか……。


「……承知した。だが約束してもらいたい。民の命は、一人たりとも失わせないと」


「……確約してくださるそうです」


「そうか……」


 私は息を吐き、自分の足下を見下ろした。先ほどまで寝ていた自分がまるで遠く、夢のようだ。しかしそれも、ためらいそうなこの自分も、つながっている現実だ。神と人間の、二つの世界の平穏のために、二の足を踏んでいる時間はない。これから起こるだろう惨事に、心を決めて突入するのだ……!


「では、すぐに王国のすべての民を近隣の山や森へ避難させる。そして、拘束している兵士を切るよう……命じることにする」


「本当に、よろしいのですか?」


 私の心を察知したような表情でホリオークは聞いてきた。


「それは、神の言葉か?」


「いえ、私個人のものです」


「ならば答える気はない。……民の避難を終えた後のことは、そちらにお任せするしかない。良い結果が待っていることを期待している」


 私を気にしながら、ホリオークは神の言葉を聞いている。


「……ご協力に、感謝いたします。それではただちに邪神を捜し始めたいと思います……お言葉は、以上のようです」


 それを聞いて私は踵を返した。


「ではお前達も避難の準備をしろ」


 預言の間を出て、私はすぐに兵士を呼び、すべての者に伝えるよう指示を出した。今夜、この王国は、神の力によって一度壊滅する。だがそこに民の血が流れることはない。神の奇跡を信じ、再びの平穏のために、私は国王の務めに徹するだけだ。

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