十五話

 暗く冷たい雨の真夜中、普段なら寝静まっているはずの城下町は、不安と怒号の喧騒に包まれていた。住人達は詳しい状況を聞かされていないのか、着の身着のままでうろたえ、訳もわからず歩かされているようだった。それを懸命に誘導する兵士達だが、不安に駆られて怒鳴る男性もいて、なだめるのに手を焼いている。この調子では全住人の避難が終わるのはまだ先だろう。


「これは、どういう状況なの?」


 民家の軒下に身を潜めながら、エゼルは通りを埋め尽くす人々を見て聞いてきた。独房にいたエゼルには、今王国がどういう事態なのかは伝わっていないらしい。


「神々が、こちらに渡ってきた邪神を討つそうだ。それに巻き込まれないために、国王陛下が住人の避難指示を出された」


「邪神が、トラッドリアにいるの?」


 驚いた声に、若干の明るさが混じっている……。


「嬉しいか?」


 これにエゼルは、はっとしたように目を伏せた。


「……私の部屋を、調べたのよね」


「ああ。父親にも話を聞いたよ」


「お父さんに会ったの? 様子は、どうだった?」


「エゼルのことを心から愛し、そして心配していた。助けてやってくれと頼まれたよ」


「だから、私を監獄棟から……?」


「別に頼まれたからじゃない。これは俺の意志だ」


「でも、軽蔑したでしょう。親子で邪神を信仰していたなんて」


 避難する人々の喧騒と雨音にかき消されそうな弱い声でエゼルは言った。そのうつむいた顔は怯えたように強張っている……。そんな顔をする必要はないというのに。


「そりゃ最初は驚いたが、軽蔑なんかしていない。お前の父親は、お前を守りたいがために邪神信仰の選択をした。その考え方自体は間違いじゃない」


 ふと顔を上げたエゼルは、小首をかしげて俺を見てきた。


「私を守るためって、どういうことなの?」


 聞かれて俺は気付いた。……そうか。エゼルは言われるがままに邪神を信仰しただけで、その本当の理由はまだ知らないのか……いや、知ってはいけなかったんだ。エゼルの中で邪神こそが命を捧げられるほどの存在であり続けさせるために。父親が二十三年かけて形作ったエゼルの心が、一体何を抱き抱えているのかは、もうすぐおとずれるだろうその時まではわかりようがない。父親のこの一計は、エゼルの命の賭けだ。そしてそれが続いている今、まだ真実を伝えることは控えるべきだろう。


「……ノーマン?」


 言い淀んだ俺をエゼルが不思議そうに呼んだ時だった。


 近くの通りから小さな悲鳴が上がった。見ると、避難の列の中を一頭の騎馬が走り抜けていく。その馬が上げた泥の水しぶきをかぶった人々が悲鳴と共に怒鳴り声を上げていた。だが騎馬は止まることなく、誘導する兵士達の元へ駆け寄っていった。


「緊急通達だ。監獄棟から邪神の気配が付いた女が逃げた」


「ああ? こんなくそ忙しい時に脱獄か?」


「近衛師団の兵士が逃亡を手助けしているらしい。制服を着た男女の怪しい二人組を見つけたら、ただちに拘束するか、その場で切り捨てろとのことだ。わかったか」


「こっちは避難誘導で手一杯だ。捜しに行く暇なんかない」


「誘導を終えたらでいい。とにかく頼むぞ」


 騎馬兵は手綱を振ると、他の兵士にも伝えにいくのか、通りの奥へと走り去っていった。


「かなり早かったな……」


 せめて城下を抜けるまでは追っ手にかかりたくなかったが、これでもあの獄吏は頑張ってくれたんだろう。手を差し伸べてくれた人に文句など言えない。


「どうする?」


 不安げなエゼルが俺を見る。見つかって捕まれば俺達は切り捨てられるのか……。避難の列に紛れようと思っていたが、向こうは俺達が制服を着ていることを知っている。それが見つかればすぐにばれるだろう。二人組ということから目を避けるため、一旦エゼルと別行動をしようか……いや駄目だ。邪神がいつ、何をするかわからない。エゼルから離れるのは危険だ。二人で兵士の目から逃れるとなると、急いで城下から出て人気のない場所に向かうしかないな……。


「住人に紛れるのはよそう。兵士の目に留まれば逃げ切るのも難しいだろう。人ごみは避けて、遠回りにはなるが、避難の列がない向こうを回って城下を出よう」


 民家の少ない西の地区を示し、俺はエゼルと共に建物の陰を通りながら移動を始めた。


 人気の消えた通りはがらんとし、道には点々と日用雑貨が散乱していた。避難指示を受けた住人が持ち出そうとしたのかもしれない。その時の混乱はわずかに開いた建物の扉にもうかがえる。しっかり閉めることもできなかったほど急かされ、慌てたのだろう。だが今はそんな人影は想像の中だけで、辺りには降り続ける雨の音が響くだけだ。


「不気味なほど静かで、真っ暗ね……」


「ああ。道を間違えないようにしないと」


 慎重に、かつすみやかに進んでいると、俺はかすかな物音を耳にして足を止めた。


「待て……誰かいる」


 エゼルを手で制し、俺は近くの建物の陰に身を寄せた。地面を打つ雨音に混じって、前方から誰かが来る。


「――ったから、次はこっちだ」


「一軒ずつ見てったほうがいいのか?」


「当たり前だ。隠れているかもしれないだろう。見逃すなよ」


「面倒だな。こんな雨の中じゃ風邪ひきそうだ」


 暗い道の奥から、武装した二人の兵士が話しながら歩いてくる――俺達を捜している兵士だろうか。


「……引き返そう。後ろの路地へ」


 俺はエゼルを連れ、細い路地に入った。ぬかるんだ地面を踏むたびに、ぐちゃぐちゃと音が鳴り、それが静まり返ったここではやけに大きな音に聞こえる。この辺りにも兵士がいるなら、ぬかるんだ道は避けないと――そんなことを考えていた時だった。


「そっちはどうだ」


 突然の声に俺とエゼルは緊張で足を止めた。周囲を見るが人影は見えない。だが声の大きさからしてほど近い場所にいるのは間違いないだろう。すると――


「おーい、聞こえてるのか?」


 同じ声が響き、その気配が近付いてくるのがわかった。まずい。逃げなければ。だが駆け出してしまえばその足音でばれかねない。ここは身を隠し、兵士をやり過ごすか。


「……エゼル、あの家へ入れ」


 俺は足音に気を付けながら、路地に面した建物の入り口へ向かった。扉は少し開いており、鍵が閉められている心配はない。住人には悪いが、ひとまず隠れさせてもらうしかない。兵士の気配を気にしつつ、エゼルが扉を開けて中に入る。


 しかし、その動きはすぐに止まった。そして同時に俺もエゼルも息を呑んだ。そんな俺達に気付いた向こうは目を丸くして見てくる。


「……何だ、お前達は」


 武装した兵士は散らかった部屋を見ていたようだが、すぐに何かに気付き、その表情を一変させた。


「おい……まさか、逃げた二人組……」


「逃げるぞ!」


 俺はエゼルの腕をつかみ、すぐさま外へ飛び出した。路地を戻る途中で歩いてきた兵士と肩がぶつかったが、そんなことを気にしている余裕はない。完全に見つかってしまった。まさか隠れようとした場所に兵士がいるとは、うかつだった――


「っ痛……何だよ、今のやつらは」


「早く! あいつらを追え! あれが捜してるやつらだ」


 背後から兵士の声が聞こえた。やはりここにいる兵士達は俺達を捜しにきているのだ。くそっ、このまま逃げ切れるのか。


「ノーマン、どこへ、行くつもり?」


「わからない……城下から、一気に出られればいいが……」


 二人で暗い道を縫うように駆け抜ける。その視界の隅に、時折兵士の姿が見えた。向こうはこちらの存在をはっきりとらえ、先回りしようとしているらしい。背後からも数人の兵士の足音が追ってきている。嫌な感じだ。だが、足を止めるわけにはいかない……!


 後ろのエゼルに目をやると、大分息を切らせていた。速く走りすぎたか、それとも独房生活で体力が落ちたのか。


「もう少しだ。この先へ行けば、城下から出られる」


 俺はエゼルの背を押しながら並んで走った。雨で重くなった全身を懸命に動かし、路地を出て広い通りに出る――だが、そこに見えたのは、思っていた通り先回りをして待ち構える武装した兵士達の姿だった。


「監獄棟からの逃亡、ご苦労だったな」


 腰の剣に手を置いた兵士が厳しい目を向けて言った。すると、俺達の後ろから追ってきた兵士達も追い付き、これで前後を挟まれる形になってしまった。もう、逃げ道はない、か。


「馬鹿なことをしたものだ。我々と同じ、王国に尽くす者でありながら、罪人を逃がすとは」


「エゼルは罪人じゃない。監視のために、ただ独房に入れられていただけだ」


「そうなのか? まあどちらでもいい。その女は殺すようにと命令が出ているそうじゃないか。それを邪魔する者も同様だ。苦しみたくないのなら、そこにひざまずいて大人しくしろ」


 兵士達は一斉に剣を抜いて構えた。背後に二人、前方に三人、合わせて五人か。必死に戦えば蹴散らせない数ではないが、エゼルを守りながら戦えるかどうか……。


「……頼む。見逃してくれ。彼女は何の罪も犯していないんだ。そんな人間を、お前達は殺そうとしているんだぞ」


「黙れ。これは上からの命令だ。それに従うのが我々の務めだ。貴様は忘れてしまったようだがな」


 やはり聞いてくれるわけはないか。それなら……強行突破をするしかない!


「エゼル、俺から離れるなよ」


 そう言ってから、俺は獄吏から貰った剣をベルトから引き抜き、構えた。


「苦しんで死ぬつもりか……いいだろう。望み通りにしてやる!」


 俺を見据えた兵士は突っ込むように攻撃を仕掛けてきた。剣同士がぶつかり、ガンと重い音が鳴り響く。その衝撃で俺の体はわずかによろけた。……くっ、ぬかるみに足が取られる。だがそれは相手も同じことだ。動き回らせて隙を作れれば――


 剣を弾いて相手を押し返し、体勢を整えようとしたが、すぐさま別の兵士が切りかかってきた。それをぎりぎりで避け、今度はこちらから切りかかる。が、俺の剣は雨粒を切っただけだった。まずい――そう思った時には、相手の剣は俺に向けて振り上がっていた。


「うっ……」


 その瞬間、俺を切ろうとしていた兵士は、小さな声を上げて体ごと何かに弾かれた。


「ノーマン、いつもの剣の腕はどうしたのよ」


 兵士に体当たりを食らわせたエゼルは、俺の前に立つと叱咤するように言った。


「私の剣術の先生でしょう? しっかり――」


「エゼル! どけ!」


 俺はエゼルを片手で押し、その奥から切りかかってきた兵士の剣を受け止めた。鍔迫り合いをしながら、背中越しにエゼルに言った。


「お前は丸腰なんだ。前に出るな」


「ノーマン一人で戦わせられないわ」


「いいから、下がっていろ」


 兵士の腹に蹴りを入れて怯ませ、その腕を切り付けた。赤いものを滴らせ、兵士は後ろへよろめく。その距離を詰めようとしたところで、また別の兵士が襲いかかってきた。


「うりゃああ!」


 力任せの一振りを俺は剣で受け止めるが、その衝撃は剣を握る両手を一瞬だけしびれさせた。その後も振り回すような剣の攻撃を受けるが、とにかく衝撃が重い。この兵士は腕力があるようだ。こんな攻撃を受け止め続けたら、こちらの両手が持たなくなりそうだ……。


「ノーマン!」


 声に横目で見ると、エゼルが二人の兵士に囲まれていた――離れるなと言ったのに!


 俺は向きを変え、エゼルに駆け寄った。そして二人の兵士に威嚇するように剣を振った。


「エゼル、俺の側から――」


「はあっ!」


 気合いの声に振り返ると、そこには俺の手をしびれさせた兵士が倒れていた。エゼルはその兵士の腹を見下ろすと、片足で思い切り踏み付けた。めり込むように踏まれた兵士はぐほっと低い悲鳴を漏らすと、手から剣を落とし、腹を押さえる。その隙にエゼルはあっさりと剣を奪った。


「もう丸腰じゃない。これで私も戦えるわ」


 俺は驚き、唖然とした。腕力のある男をいとも簡単に制してしまうとは。エゼルは剣術だけじゃなく、体術の覚えもあったのか。


 だが驚いたのはそれだけじゃなかった。剣を奪ったエゼルはそれを倒れた兵士の首元に向けると、他の兵士達を見回して言った。


「私達に近付こうとすれば、この人の首を切る」


「……卑怯な。人質を取る気か」


 睨み、構える兵士達にも、エゼルは堂々と続ける。


「連れ去りはしないわ。あなた方がここを離れて、私達の目から見えないところまで遠ざかった時に解放してあげる」


「ふん、どうだかな。本当は人質のために連れていくつもりだろう」


「いや、その女ははったりをかましているんだ。同じ兵士の首なんか切れないさ……ほら、嘘なんかお見通しなんだよ。やれるものならやって――」


 エゼルがおもむろに剣を動かしたかと思うと、その切っ先は倒れる兵士の右ももに突き刺さった。


「がはっ……」


 上がった短い悲鳴に、周りの兵士達は表情をこわばらせた。


「女は勇気も度胸もなくて、はったりしか言えないと思うの? それなら切りかかってくればいいわ。この人は死んでしまうけれど。……次は、確実に首を切るから」


 エゼルは刃を兵士の首にぐぐっと近付けた。その様子を兵士達は困惑の眼差しで見つめている。本気なのか、やはりはったりなのか、それを見極めているようだった。正直、俺にもどちらなのかわからない。エゼルがこんなことをするとは思いもしていなかったのだ。だが、人数的に不利な状況の今、剣を交えずに逃げられるのなら、卑怯と言われようとこれは俺達にとって良策には違いない。


 兵士達はじっと見つめ、押し黙るばかりだった。その様子に、エゼルは剣を握り直すと言った。


「……なるほど。この場を去らないということは、この人の命はどうでもいいということね。わかったわ。それじゃあ――」


 エゼルは倒れる兵士の頭を押さえると、剣を首元に添えた。


「切るわ」


「たっ、助けてっ!」


「待て!」


 二人の兵士の声が重なり、エゼルの視線が上がる。


「わかった……お前の、言う通りにしてやる。だから、その剣を外せ」


「外すのはあなた方が遠ざかった後よ」


「嘘じゃ、ないだろうな」


「約束するわ。姿が見えなくなった時点で解放する。でも、その前に戻ってきたり、どこかに隠れていたりしたら、この首は切らせてもらうから。いいわね?」


「いいだろう。……皆、一旦退くぞ」


 疑う表情の者もいたが、仲間の命が懸かっていては強引な行動に出ることもできないようだ。エゼルに警戒の目を向けつつ、四人の兵士は重い足取りで俺達の前から去っていった。広い通りを真っすぐに戻る姿をしばらく眺め、小さくなった人影はやがて雨の水煙に紛れて見えなくなった。ここから見る限り、兵士達は素直に遠ざかってくれたようだ。


「……よさそうね。ノーマン、そっちの腕を持って」


 エゼルは剣を置くと、倒れた兵士の右腕をつかんだ。俺は言われるままにもう一方の腕をつかむ。


「あの軒下へ運んで」


 両腕を引っ張るように俺達は兵士を引きずって雨のかからない軒下へ運んだ。


「傷付けてごめんなさい。仲間が戻るまで頑張って」


 すでに戦意を喪失している兵士はぽかんとエゼルを見上げていた。殺すと脅されたり、ごめんなさいと謝られたり、きっとよくわからない心境なのだろうな。


「行きましょう、ノーマン」


「ああ。急ごう」


 周りに人影がないのを確かめてから、俺はエゼルと共に城下の外を目指した。


「エゼルのおかげで、傷も負わずに逃げることができた。助かったよ」


 これにエゼルは正面を向いたまま答えた。


「さっき言ったように、ノーマン一人に戦わせたくなかったから」


「その気持ちはありがたいが、武器がない時はあまり前に出るな。少し慌てたぞ」


「私は守られるほど弱くないわ。だから剣も奪えた」


 まあ、確かにそうだが、さっきはたまたま上手くいっただけのことで、丸腰なら一瞬で切り殺されるのが普通だ。


「知らなかったよ。エゼルが体術を使えたとはな」


 エゼルの視線がちらと俺を見た。


「そんなんじゃないわ。日頃ノーマンとの稽古で、体の使い方を教わっていたから、ちょっと力を入れて足を引っ掛けただけのことよ。だからあれはノーマンのおかげよ」


 ふと足を止めたエゼルは、俺を見据えてきた。


「いろいろと、ありがとう」


「あ、ああ……」


 それだけ言うと、再びエゼルは前を向いて進み始める。まだ礼を言われるのは早い。逃げることはできたが、この先に何が起こるのか、エゼルを本当の意味で救えるのか、俺には十分な自信はない。だがどんなことがあろうと最後まで守る姿勢を貫く覚悟はできている。とにかく今は前に進め――雨のベールの奥に、城下外へ続く大きな門がぼんやりと見えた。

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