第118話
黒井が【飛雷神】を唱えて数秒。
名も無き洞窟の主であるオーガは、自身の姿が人間化していることに気付いた。
「……うそ」
ポツリと瞳から涙が落ちた。それが凝視していた手のひらを濡らしたことにハッとして頬を拭う。その肌触りもまた、人間そのもの。
「うそ……うそうそっっ……!!」
嬉しさに声が滲んで鼻声になる。涙や鼻水が体外に流れると、魔法が解けて鬼に戻ってしまうような気がして堪えたものの、それをすればするほどに目尻からは涙が溢れた。
オーガは、人間になりたかった。いや、正確に言えば彼が王と崇める黒井賽と同じ生き物になりたかった。
そうすれば――もっと王に近づけると思ったから。
人語を話せるようになったとき、オーガは王に近づけたことを喜ばしく思った。しかし、王の近くには既に人語を話せる他の鬼たちがいた。しかも、その鬼たちは人間の姿になることもできたのだ。
そのときオーガは、憧れや嫉妬よりも先に純粋な疑問を抱いてしまう。
――なぜ、自分は人間じゃないのだろう。
その疑問に悲しくなることはなかったものの、いつしかオーガのなかには人間になりたいという欲が芽生えてしまった。
彼にとって人間とは、鬼よりも圧倒的に非力な存在。
そんな非力な存在になりたいと彼は願い、やがて願いは狂気的な錯覚を彼に起こした。
黒井が「飛雷神」を唱えた時、従属するノウミ、ジュウホ、ヒイラギの三人は霊力を取り戻した人の姿となり鬼の姿でいたときよりも強くなるが、オーガは逆に
そのステータスは、ランクFの探索者以下。
さらに身体はより華奢となり、雰囲気は今にも消え入りそうなほど儚く、顔つきは中性的にもなる。
それはオオカミが犬となったように、猫が人と暮らすことを選んだように、
その代わり、オーガは新たに感情を受信する事ができる共感能力を獲得する。
そして、その能力は――、
「ひぎぃぃいいい!!」
狂ったような断末魔がオーガの脳内をつんざいた。
見れば、今まさに王から痛めつけられている者が一人。
「うぎぎぎ……」
食いしばる口の端からは涎が垂れ、目は虚ろに見開き焦点はあっていない。痛みを堪えるため、かろうじて発せられる声の震えに全身の力が入らなくなり、オーガはペタリと座り込んだ。
顔の血の気が引いていき、その凌辱的な光景に体がカタカタと震えだす。
やがて、オーガの精神は上がり続ける悲鳴に耐えきれず、そのまま気を失ってしまった。
◆
ストックホルム症候群とは、加虐された相手に好意を抱くようになる現象のことをいう。
逃げることができない絶望を肯定的に捉えることにより、現状を耐え忍ぶ脳の防衛反応。
それと似たようなことが、茜には起こり始めていた。
回復魔法を施しながら痛めつけられる彼女の目には、次第に光が消えたものの、やがて表情には笑みを浮かぶ。
「体の中って……こんなにぐちゅぐちゅとした音が鳴るんですね」
その変化は、もはや攻撃する黒井の背筋を凍てつかせるほど。
改めて、進化や順応がどれほど恐ろしい力なのかを黒井は思い知らされる。
強いものが生き残るのではなく、変化できるものが生き残るという名言は真実なのだろう。
もちろん、その変化が必ずしも良い結果をもたらすわけではない。
生きるために手に入れたものが、別の環境で「異常だ」と後ろ指を指されることも珍しいことでもない。
しかし、その恐ろしい力に手を染めなければ、もとより生き残ることなどできはせず、そして、生き残りさえすれば好機とは再び巡ってくるもの。
そうして歪めたものが誰かのためになることで、都合よく「成長」という言葉で正解とされるだけの話。
いつしか茜の魔力は、他の鬼にも劣らぬ強さを持ち始めていた。それがダメージを負ったときの一時的な強さだったとしても、その感覚を一度味わったのならいつか到達できるだろうと黒井は考える。
「強くなりましたね」
繰り広げられた残虐のなかで、強大になった禍々しい魔力。
その魔力に充てられて、周囲にいたゴブリンたちと裸の鬼たちの表情には畏敬の念が浮かんでいる。
――もう十分だろう。
それを目にした黒井は、茜の腹から腕を引き抜く。彼女の体は支えを失ったようにその場に崩れ落ちた。
「しゅ……しゅごいぃ……」
回復魔法と再生力のお陰なのか、茜の傷は恐ろしい速度で治っていく。それでも、生きているのが不思議なほどの血が流れていた。その血溜まりのなかで、口角を持ち上げて笑う茜。
変わり果てたその姿を見ていると、なにか取り返しのつかないことをしてしまったような罪悪感に襲われてしまう。
しかし、鬼となったからには避けて通れぬ道だっただろうと黒井は自身に言い聞かせた。
いくら人の姿をしていたとしても、そう思わない者たちもいる。
そして、その者たちによって魔女狩りにも等しい暴虐に晒されることがあるかもしれない。
その逆境に耐えられないのなら、鬼として生かすべきではなかっただろう。
それで絶望し不幸になってしまうのなら、その責任は黒井にある。
それでも――、
「こんなの……はじめてです……」
頬に付いた自身の血を舐めながら恍惚を浮かべる茜に、黒井はやりすぎてしまったかもしれないと少し後悔をした。
そして――そんな彼の姿に茜は「わかってないなぁ」と心のなかで呟く。
――痛みに喜びを見い出す人なんているわけないのに。
ドキドキと高鳴る鼓動に耳を傾けながら、彼女はクスリと笑った。
人がジェットコースターに乗るのは、その乗り物で命を落とすことはないと安心しているからだ。お化け屋敷に入るのも、それで呪われることはないと確信しているから。
探検家はスリルを味わうために未知へと足を踏み入れるわけじゃない。その先にある達成感を求めるからこそ、身体がつき動かされるのだ。
残虐な行為のなかで茜が笑っていられたのは、それを強いる者が
彼が死に至らしめることはないと安心できるからこそ、彼女は痛みに興奮できたのだから。
絶望のなかで笑うには、それを乗り越えられると信じられる〝何か〟がなければならない。
そして、茜にとっての黒井賽は既に〝そういうもの〟になっていた。
何度命を救われたのか知れない。彼がいなければ、自分なんてとっくの昔に死んでいただろう。
安心は言い過ぎにしても、すべてを賭けて信用するには十分すぎた。
彼のためなら命も惜しくないと思ってしまうほどには。
それは防衛反応でも錯覚でもない。いや、もはやそういう偽物であったとしても気にもならない。
「――明鏡止水」
なぜなら、角を隠し魔力量が戻っても、心臓の高鳴りだけは抑えられなかったからだ。
茜は諦めて、それを受け入れる。
――私は……この人のことが好きなんだ。
漏れた吐息には、どこか湿った熱を帯びていた。
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