第117話

 その場の空気は重く張り詰め、ゴブリンたちの熱気はどこか見えない壁の向こうのように遠く感じた。

 それぞれの鬼が纏う闘争心が膨張し、その境目は摩擦によってピリピリとした緊張感が走っているようにも感じる。


 それは、何かしらの刺激によって今にも爆発しそうな雰囲気を漂わせており、静かに立っている鬼たちの手先は時折ぴくぴくと動いていた。


「戦いのルールも、開戦の合図も要らないな……。これは別に、競技というわけでもないしな」


 その空気感に、黒井はすこし懐かしさを覚えてしまう。


 かつて、この回廊に初めて来たとき、彼はわけもわからぬまま〝その戦い〟に身を投じた。


 出会ったのは強大な体躯を持ち、禍々まがまがしくも醜い容姿を晒す『鬼』。その鬼たちと鉢合わせ、説明も受けぬままに命の奪い合いを始めたのだ。


 今にして思えばそれで良かったのかもしれない。


 鬼にとって生きる意味などそれだけで十分だったからだ。


 そして、きっと今もそうなのだろう。


 自我なんてなくとも、目的すらなくとも、何をすべきかは本能が知っている。



 それこそが――この回廊で繰り返されてきた摂理せつりなのだから。



 やがて、誰からともなくその戦いは始まった。

 周囲にいるゴブリンたちは、興奮に目を血走らせて歓声を上げ始める。

 蹴った地面は遅れてぜ、振り抜かれる拳は純然たる殺意の形をしていた。


 始まったのは、自分以外の存在全てを倒すだけの乱戦バトロワ


 そこには誰が誰などという区別はない。いや、むしろ区別などなくてよかった。名誉も大義も理由すらなく、最後まで立っていた者こそが、それら全てを手にするのだから。


 ゴブリンたちの狂気の歓声が注ぎ込まれるなかで、五体の鬼たちは殺し合う。


 指は首を引っ掴んで地面へと打ち付け、保身など一切考えぬ全力の蹴りは自身の足ごと破壊しながらダメージを与える。殴られて潰された部位は急速的な再生によって煙をあげ、殺しても抵抗に叫ぶ声だけがまだ戦いが終わっていないことを主張し続けた。

 血よりも、ちぎれた肉のほうが周囲に散乱し、その辺に転がる臓器を見れば、未だ戦い続けている数が減っていない事実に驚愕を禁じ得ない。


 防御よりも相手を攻撃することに極振りしたその混戦は、もはや醜い一つの生き物のようにも見えた。


 そのなかでも、異なる存在感を放つ者が一人。


 それは……いや、その者だけは鬼たちのなかで未だ『人』らしい戦いを続けている。


 それが――角を生やす時藤茜。


 その戦い方を才能センスと呼ぶかは黒井にはわからない。しかし、茜の戦い方には他の鬼にはない明確なスタイルがあった。


 喩えるのなら――波長のズレ。


 彼女は、敵と波長を合わせずにどこかズレたリズムで戦闘を行う。明確にかわすわけではなかったものの、彼女を狙った拳は空を振る事が多い。そして、茜の拳は必ず命中した。

 しなやかに伸びる筋肉は瞬間的な爆発力を拳に乗せる。それは捻り潰すような力技ではなく、まるで射抜くような差し込みにも近い。

 彼女が弓使いだからだろうか。間合いを読んで隙を突き、狙う箇所は必ず人体的な弱点。


――強いな。


 黒井は素直にそう感じた。彼女のステータスは他の鬼を圧倒するような数値ではなく、他の鬼を殺せるようなスキルを持つわけでもない。

 それでも身体の使い方や呼吸、経験からくる戦闘感覚がそれらを補っている。もしも武器を持っていたなら、すでに一体ぐらい殺していてもおかしくはなかっただろう。


 それほどに、茜の戦い方は綺麗だった。武器などなく、だからこそ力と力との勝負だというのに、茜の戦い方だけが〝人のそれ〟だった。



 そして――だからこそ、脅威にも感じない。



「このままなら、負けるな」


 黒井はそんなことを呟く。いくら攻撃を躱し、弱点のみを突き続けたとて、それを破壊するほどの威力がなければ殺すことなどできはしない。

 目玉をえぐり、骨を折ったとしても、心臓が止まるその瞬間まで鬼とは歯向かい続ける生命力の化物なのだから。


 自身をも破壊しながら戦う鬼たちのなかで、茜だけが未だ無傷のまま立ち回っていた。


 そんな茜の姿に、観ているだけのゴブリンたちは彼女の戦いを卑劣だと思ったのか、理不尽なブーイングの声を上げ始める。


 幾度攻撃を躱し続けたとしても、止まぬ拳の前では防戦にしかならない。

 しかし、その拳を静めるほどの攻撃が今の茜にできるわけでもない。


――時間の問題。


 それが、黒井の見る戦いの結末。


 やがて、振るわれた一撃がようやく茜の身体をかすめた。それはただ掠めただけだったにも関わらず、彼女の腕を容易に体から引きちぎった。

 黒井の足元に飛んできた彼女の細い腕。そして、たったその一撃だけが茜を怯ませてしまう。


「くっ……!!」


 形成は一転。というより、他の鬼たちの戦いに巻き込まれ、彼女は疲弊を余儀なくされはじめてしまう。


 熱を帯びるゴブリンたちの声。すでに戦えるはずもない身体で拳を振るい続ける鬼たち。


 その雰囲気に呑まれたのか、未だ人で在り続ける茜だけが敗北の空気を纏い始めていた。


 そのままなら、茜は負けるだろう。


 その準備に備え、黒井は横槍を入れるタイミングを窺う。


 しかし――。


 彼女の魔力がぬらりと揺らいだことで、黒井は臨戦態勢を解いた。


 ちぎれた腕の断面は未だ再生を始めたばかり。非力な体躯は他の鬼とは比べるべくもない。


 にも関わらず、揺らぐ魔力は次第に大きくなり、這うようにその場をのたうち回りはじめたのだ。


 その得体のしれない揺らぎに、鬼たちだけでなくゴブリンたちですら違和感を覚えて声を失くす。


――殺意の波動を感知しました。

――精神汚染がはじまります。

――覚醒魔法によりレジストしました。


 それを目にした黒井は、あぁと改めて理解した。


――やっぱり、それが鬼だよな……と。


 どれだけダメージを受けようと、どれほど傷つけられようと……たとえ、腕をもがれて足を失い、世界中を敵に回したとしても最後まで立ち上がることを止めはしない。


 むしろ圧倒的な劣勢にこそ、抑えきれぬ狂気によってその口元を歪めてしまう。


 それを人は「鬼」と呼んで怖れたに違いない。


 今の時藤茜には、そんな不気味さがあった。


 やがて彼女の姿が消えたかと思うと、周囲に爆発するような音が轟いた。


「グガッッ……!!」


 見れば、茜が鬼の顔面に五本の指すべてをめり込ませ、その勢いのまま後頭部を地に沈める光景があった。強引に押し倒した衝撃は、瓦礫の破片を宙へと浮かせる。

 そんなやりあいなど、ここまでの戦いには当たり前のようにあったにも関わらず、他の鬼は警戒によって動きを止めた。

 きっと本能が告げたに違いない。


 警戒せよ、と。


 茜はそんな者たちには目もくれず、ゆっくりと鬼の顔面のなかで拳を握った。指と指の間からミンチのように皮膚と肉だけが逃れ、最後に残った鼻骨をそのまま握り潰しながら引き抜く。

 その鬼がまだ戦闘可能かどうかはわからない。しかし、自身の身体の上で、その行為に愉悦を浮かべる・・・・・・・ような者に、再び戦いを挑めるかと問われればそうではないかもしれない。


 不意に、別の鬼が茜の背後から奇襲を仕掛けた。


 それが好機チャンスだとでも考えたのだろう。


 茜は振り向きざま無事なほうの腕で攻撃をいなす。しかし、ダメージまでは流しきれなかったのか、その腕もまた、在らぬ方向に折れ曲がってしまう。

 そして、折れ曲がった腕のまま、茜はその鬼の腹に肘から先を無理やりねじ込んだのだ。

 内部で、腕が再生していく不気味な音が聞こえた。

 その腕は、まるで鬼の腹の中を食い破るように背中へと貫通。やがて腕は真横へとなぎ払われ、鬼の身体は脇腹だけを繋げたまま分離。腕に絡まり伸びた腸が耐えきれずにちぎれたとき、その鬼もまた地へと沈んだ。


 再生力は魔力の大きさに比例する。その、異常なほど速い再生は鬼たちの再生を上回っていた。

 もしかしたら、茜はダメージを受ければ受けるほどに強くなる特性でも持っているのかもしれない。


 やがて彼女は、そのまま未だ立っている鬼へと殺意のままに向かう。


 その指先があとセンチで狙う鬼へと届くところで、


「――もう十分です」


 戦いを止めるため、黒井は茜の前に立ちはだかりその腕を掴んだのだ。


――勝機を見逃さないのは探索者で培った勘か……。鬼たちが動揺した隙を見事に突いたな。


 茜は魔力では他の鬼には劣っていたものの、賢さはやはり他の鬼には無いものを黒井は感じた。

 彼女からの提案ではあったものの、鬼たちをまとめる役として適正ではある。


――俺が奴らに言って従わせるか。


 純粋な力の差で言えば他の鬼たちのほうが強かったものの、黒井が言い聞かせれば従うだろう。


 だから、この戦いはもう止めても良いと黒井は考えたのだが、


「そういうの、好きですよ」


 不意に茜から好意的な言葉が吐かれた。


 にも関わらず、さきほど失われたばかりであるはずの彼女の腕が黒井へと攻撃的に振るわれる。

 それを黒井は止めたものの、あまりにも速い再生速度に眉をひそめずにはいられない。


「どんなに傍観していても、最後には結局止めに入ってしまう黒井さんは素敵です」

「なにを言ってるんです?」

「私には、そんなこともうできません。抗うよりも諦めて受け入れてしまう方が楽だと気づいてしまったからです」


 内面から滲む殺意とは相反する穏やかな口調。その内容は状況と一致しなさすぎて不気味さすらあった。


「私はもう我慢しないことにしました。自分が何者であったかを思い出してしまったからです」


 そして、これまでゆらゆらと炎のように燻っていた彼女の魔力の振れ幅が跳ね上がった。その勢いは留まることを知らず、周囲には魔力差による風が吹いた。


 爆発的な魔力上昇は黒井の強さにまで及ぶことはなかったものの、地獄の底から伸びてくるかのような魔力の圧に黒井は目を細める。


 それは上昇というより圧力差による引き水のよう。……まるで、本来持ち得たはずの魔力を外気から吸い取っているかのような――。


 やがて、黒井はその理由に気づく。


――ああ、なるほど。


 彼女が使った「思い出した・・・・・」という表現は、おそらくニュアンス的に正しいのだろう。


「茜さんは最初から〝鬼〟だったんですね」


 その洞察に、彼女は微笑んだ。


「鬼になってから【隔世者かくせいしゃ】の称号を得ました。おそらく先祖が鬼だったのでしょう。角が、あまりにも体に馴染むので」

「カクセイシャ……」

「黒井さんが、私を目覚めさせてくれたお陰です。本当に感謝しています」


 茜は変わらぬ口調で感謝を述べた。


「私は、これからは自分のためだけに生きたいと思っていますし、そんな私を救ってくれた黒井さんのためにも生きたいと思っています。鬼の管理を提案したのもそういった理由からです」

「……そういうことは先に話してくれてもよかったんじゃないですか? 俺はたまたま茜さんの提案を受け入れましたが、それは不都合なことだったかもしれません」

「行動で示したかったんです。「あなたのために生きたい」なんていきなり告白されても気持ち悪いだけでしょう?」


 そんな茜の言葉に思わず笑ってしまった黒井。


 確かに、なんの脈略もなく好意の言葉だけ向けられても警戒したに違いない。むしろ、「何か裏があるんじゃないか」と遠ざけたかもしれない。


 鬼にされたことを喜ぶ人間など、まずいないから。


 とはいえ、黒井はそんなことはしなかったはず。


「俺が鬼だと明かした相手を無下になんてしませんよ。好意を向けられたなら、それを利用しようとしたはずです」


 なぜなら、黒井賽が人ではない事を茜は知ってしまっているから。


「たとえ不審に思っていたとしても、傍に置いたと思います。そのほうが――何かあったときに始末しやすいので」


 黒井は努めて穏やかに答えた。しかし、その視線にはもう温度はない。


 もはや、これ以上の隠し事などする気はなかった。

 茜は、黒井に対して自身の本性まで見せてくれたのだから。


「やっぱり……先に気持ちの話をしなくて正解でした。それをしていたら、こんな状況にはできなかったかもしれません」


 彼女は頬を上気させながらそんなことを口にした。


「横浜ダンジョンにいた鬼たちと戦ってみたかったのは事実ですが、私は黒井さんとも戦ってみたかったんです」


 その表情や言葉には以前のような清廉潔白さを感じない。

 むしろ、その意欲には狂気すら覚えてしまうほど。「始末」という言葉を聞いてなお、彼女は微笑んでいたのだから。


 それが何を意味するのかなど知っているはずなのに。


「どうやら……鬼たちを管理して貰う前に、茜さんにはわからせないと・・・・・・・いけないみたいですね」


 黒井はそう呟いてから、ため息を吐く。


 そして、


「――飛雷神」


 彼がそう唱えた瞬間、黒井の魔力が膨れ上がり、至近距離でその魔力圧を受けた茜は息ができなくなった。


 だから、無意識に空気を吸おうと口を開いたのだが、


「……かはッッ!!?」


 腹部に響いた鈍痛によって、それは阻止されてしまう。


 うつむいた時に見えたのは、お腹に打ち付けられた拳。


 それは殴打のみにとどまらず、グリグリと食い込むと、やがて体内へと突き破った。


「お゛お゛ッッ……」

「やっぱり、ダメージを受けると魔力が上がるみたいですね」


 冷静な分析の声に返す余裕はない。


「ですが、俺と戦うならまだ足りませんよ?」


 その、あまりの一方的な攻撃に茜は白目を剥き失神しそうになる。


 それでも必死に黒井を見上げ、そんな茜に気付いた彼は、まるで安心でもさせるかのように微笑んだのだ。


「ああ、ダメージが深くなっても死なせはしませんよ。俺はヒーラーですからね」



――称号【鬼畜】を獲得しました。


 

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