第116話

「――変異体……なるほど」


 茜は長い沈黙の末にそう呟いた。それでも何か考え事をしているのか、瞳はどこか空を見ている。


 その視線はゆっくりと黒井へ戻ってきた。


「ようやく合点がいきました。私が黒井さんに対して抱いていた違和感やアビスのこと……そして、自分自身にも」


 黒井は知り得るすべての事を茜に話した。それはスタンピードに関わらず、今世界で起きているゲートの正体に至るまで。


 そうしなければ、角――つまり、鬼について納得してもらえないだろうと考えたからだった。


 目が覚めたら鬼でしたッ☆ なんて、誰もがそう簡単に受け入れられるとは思えない。変わってしまったことに適応するには、それを咀嚼できるだけの理解がなければきっと気持ちは追いつかない。


 だから、時藤茜が鬼になってしまった経緯と、その力や成り行きについて話す必要があると黒井は思ったのだ。


――まぁ、それでも受け入れるには時間がかかるだろうな。


 彼は、そう覚悟して話したのだが……。


「だから、こんなにステータスが強化されたのですね」


 あまりショックを受けた様子はなく、茜は平然とそう言った。


 そして、まるで自身の身体能力を確かめるように反復横跳びをはじめる。その速度は、残像を作り上げるほどに速い。


「勝手に鬼にしてしまってすいません」

「なぜ黒井さんが謝るんです? 私は嬉しいんですよ?」

「嬉しい……?」


 残像も含めた茜はコクリと頷いた。周囲にはヒュンヒュンヒュンヒュンという縄跳びのような風切り音が鳴り響いている。


「私は、自分が普通の人間のように生きることはできないだろうと思っていましたので」

「普通の人間……ですか?」

「実は私、戦うのが好きなんです。魔物の命を刈り取ったときに生きていることを実感してきました。その瞬間に興奮していたんです」


 茜は、そんなカミングアウトをした。


「笑ってしまいますよね……私は「人類のためだ」とのたまいながら、本当はその行為を楽しんでいたんですから」


 彼女は自虐的に笑う。それでも、その表情に悲しさは感じなかった。


「そのことに気づけたのは鬼になってからです。私はこれまで、「人らしく在るべきだ」と自分に言い聞かせていたんですよ。ですが……もうそんな事を考えなくてよくなりました。文字通り、私は人ではなくなったので。だから、むしろ感謝しています。私を鬼にしてくれてありがとうございます」


 その表情は晴れやかで、声音はサッパリとしていた。


「……感謝されるとは思ってませんでした」

「黒井さんはわかっていませんね? この世には分かり合えない……いや、むしろ絶対に分かり合ってはいけない人間がいるものです。時藤茜という人間は時藤茜からみても、そういう人間だったんです」


 ヒュンヒュンヒュンヒュン。


「罪を犯す人間というのは、悪い人間だから罪を犯すわけではないのですよ。それが……他の人間にとっては悪だから罪になってしまうんです」


 ヒュンヒュンヒュンヒュン。


「私は罪人にならないため、人が決めたルールや考えに同調しなければなりませんでした。それができないのなら、いっそのこと、人のいない無人島で暮らすほうがよかったのかもしれません」


 ヒュンヒュンヒュンヒュン。


「ですが、もうその必要すらありません。私は人ではなくなったことで、私らしさを取り戻したんですよ」


 スタッという渇いた音を鳴らし反復横跳びはようやく終わった。


 そこに立っていたのは――額から角を生やした時藤茜。


「私は……もっともっと、戦いをたのしんでみたかったんです。正義のためじゃなく、純粋な欲求として魔物と戦ってみたかったんです」


 浮かべたのは恍惚の笑み。


「今にして思えば、善人のフリをして生きるのはとても息苦しかったです」


 吊り上げた口角から覗くのは鋭い歯。それは今まで見たことのない彼女の表情。


「ああ……もしかして後悔していたりしますか? こんな奴を救うべきじゃなかったと……?」


 やがて、その嬉しそうな声音は黒井のすぐ耳元で囁かれる。

 

「でも、もう遅いです。私はあなたに生かされてしまいました。この責任……とってくださいね?」


 シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。振り向くと、視線の先にいた時藤茜は既に角を隠している。


「茜さんが持っていた【明鏡止水】は、自分を隠すためのものだったんですね」

「覚醒する前、私は自分の欲求や感情を殺す方法がないかと色んな本を読み漁ったことがあります。そのなかに、今では禁忌とされているロボトミー手術というものがありました。それは、アイスピックを脳みそに突き刺して物理的に感情を破壊するというもので、きっとそこから連想させて創り上げたものだと思います」


 その説明に黒井は顔をひきつらせた。


「まさか、実際に……?」

「安心してください。そんな危険なことやってませんから。ですが、憧れたのは事実です。私はずっと、私自身を死刑にすべきだと思っていました。誰も傷つけてしまわないうちに」


 茜はそう説明したあとで、やはり明るい笑みを浮かべる。


「そういえば……黒井さんが従えてる鬼って、横浜ダンジョンにいた鬼たちですよね?」

「……そうです」

「戦ってみたいです」

「戦ってみたい?」

「はい。あのとき、私はただ目の前の光景に震えることしかできませんでした。だから、そのときの自分を殺したいんです」


 軽々と吐かれた殺すという言葉。その言葉が持つ残虐性を、彼女は知りながら敢えて使ったようにも思える。


「……いいですよ」


 黒井はそう返した。


 その気持ちは、かつて横浜ダンジョンから命からがら逃げ出したことがある黒井にとって理解できるものではあったからだ。


「ただ、茜さんが勝てるかどうかは分かりません。あいつら……強いですから」


 何故か素直に強いと言えなかったのだが、黒井は鬼たちを弱いとは思っていない。

 そして、魔眼で見る茜の魔力は、奴らと比べるとまだ劣っているように見えた。


「構いません。それと……これはモチベーションを上げるためでもあるんですが、もし私が勝ったらその鬼たちを私の下に付けてもらってもいいですか?」

「下に?」

「その鬼たちの話をするときだけ黒井さんのため息が多かったので、私が管理できたらな……なんて」


 その提案に、黒井は少し考えてみる。


 悪い話じゃなかった。むしろ、鬼たちに首輪をつけられるなら黒井にとっては願ったり叶ったりだった。


「それ、負けたら悲惨なことになりませんか?」


 その確認に、茜はキョトンとしてから、やがて目を細める。


「ごめんなさい。本音を言うと……はやく戦ってみたくて……」


 そのとき、茜の魔力がゆらりと揺れたのを黒井は見た。その振れ幅は瞬間的ではあるものの、鬼たちよりもおおきい。


 そして、彼女が腕を手で必死に押さえつけている様子に気づき、ようやく理解する。


――ああ、そうか……我慢の限界なんだな。


 時藤茜は自身の変化に戸惑ってなんかいなかった。むしろそれに歓喜し、はやくその変化を実感したいとすら思っていたに違いない。


 彼女のウズウズとした感情が伝わってくる。闘争を求める情報伝達物質が、絶え間なく分泌されているのが如実に見て取れた。


「……わかりました。その前にやっておきたいことがあるのでここで待ってもらえますか?」

「いくらでも待ちます」


 それに黒井は頷き、鬼門を開く。


「これは……まるでゲート……!」


 そして、驚く茜をその場に残し、一足先に【名も無き洞窟】へと向かう。


――やがて、そこでオーガに説教をした黒井は鬼門を通って戻ってきた黒井。


「お待たせしました。それじゃあ、行きましょうか」

「はい」


 そして、黒井は茜を連れ、今度は回廊に通じる鬼門へと足を踏み入れる。


 そこには――。


「話は聞かせてもらったでござりまする……」

「フンッ……それがしは既に勝ちを確信してるでござるよ……」

「絶対に負けられない戦いがある……ということでいいのかしら?」

「この戦いに勝ったら、この私こそが王に最も近き配下となるのだッッ……!」


 ……おそらく、自分が一番強いと勘違いしたポーズを決める四体の鬼が待ち構えており、その周囲を多くのゴブリンたちが野次馬のごとく取り囲んでいた。

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