第113話
時藤茜が殺意というものを覚えたのは15歳のときだった。
その時の感情を、彼女は未だに覚えており――怖れてもいる。
まるで時が止まったかのような瞬間に、全身を焼き尽くすような熱い液体が体の隅々を逆流する感覚。それは頬を巡ってこめかみを駆け上り、頭の先まで達すると視界が霞んだ。
体の制御が効かなくなり手先はブルブルと震え、眼球は脈動の度に血走り、必死に押さえつけなければ今すぐにでも――相手の脳天に硬い鈍器を叩き込みたくなる……もしくは、鋭利な刃物をその身に突き立てたい衝動に駆られた。
それは、反抗期という言葉で片付けるにはあまりに激しく、怒りという感情に分類するにはあまりにも冷酷な結末を願った悪意。
しかし、それは単に「殺してやりたい」という狂った思想からくるものではなく、「奪われたものを奪い返したい」という考えからきたもの。
自分に降りかかった不平等さを、相手にも味あわせてやるべきだという主観的正義がその衝動をもたらす。
やられたらやり返す、というのは誰もが持ち得る当たり前の発想。
だから、自分の人生や日常をメチャクチャにされたなら、相手も同じようにそうあるべきだと考えてしまうのも当然のことなのかもしれない。
その方法が、殺すという答えに繋がっただけ。
やがて、それを必死に押さえこんだ茜は冷静になり、自分が化け物であるのだと知る。
その化け物は、いつまたどこで同じような衝動を彼女にもたらすかわからない。
次にその衝動がきたら、茜には抑え込む自信がなかった。
そして、その化け物を封じる一つの方法に彼女はたどり着く。
それが、トリガーとなった怒りの感情を殺すこと。
怒ることがなければ殺意を抱くことはない。だから、殺意の芽を摘み取るために、彼女は徹底的に怒りを殺すことのみに専念したのだ。
他人に期待せず信用をしない。理不尽なことがあっても、それが定めだったのだろうと諦観に振る舞う。自分以外の人間とは一定の距離を置き、好かれるよりも嫌われることのほうが不幸を回避できると信じた。
やがて、それは成功し茜が怒りを露わにすることはなくなった。さらには、常に物事を冷静に見ることができるようにもなった。
しかし、それは同時に人間味を失ったことに茜は後々気づく。
きっと、喜怒哀楽を司る脳内神経は同じなのだろう。
怒ることがなくなった彼女は、悲しいという感情や楽しいという感情にすら鈍感になってしまったからだった。
視界に見える色は薄くなり、生きている実感すらも失われる。
灰色になった世界で、茜は自分が生きる意味を探さなければならない。
ちょうどそんな時期に――時藤茜は覚醒をしたのだ。
人類を救うという大義名分は、そんな茜にとって都合のよい生きる意味だった。
武器を握り戦っている瞬間は、自分はそのために生きているのだと実感できる瞬間でもあった。
だから、彼女はその思想に固執した。その正義に執着しなければ、自分がただの化け物になってしまうと怖れたからだ。
それでも、心はどこか現実から剥離したまま。
感情的になることはもう一生なくて、そんなのは一生こなくて良いと思っていた。
鷹城塁が、斧乃木有理を殺すのを目にするまでは――。
結論を言えば、彼女の意識を散り散りにしたのは彼女自身だった。
怒りを抑えきれず殺意に目覚めた彼女を、彼女自身が最も嫌悪していたからだ。
身体に掛かったダメージによって精神が壊れたのではなく、目覚めなくても良いように潜在意識が彼女を眠りにつかせていた。
――種族【人】から【鬼人】へ変化しました。
――称号【
暗闇のなかにそんな声が響く。
それは、茜が化け物であったことを肯定する声だったものの、そのことに彼女は何故か〝許された〟気がして安堵してしまう。
やがて、茜が目を開いたとき、世界は色を取り戻していた。
◆
「混乱すると思いますが手短に説明します。茜さんは人じゃなく鬼になりました」
「……」
目覚めた茜にそう言ったものの、やはりその表情は理解が未だ及んでいないように見えた。
当然だろう。目覚めてすぐにそんな事を言われても信じられるはずはない。きっと、自分が病院のベッドに寝ている状況すら理解できていないはずなのだから。
それでも、生えた角は隠さなければならない。
その為の手段として、黒井は【人の能面】を取りだす。それは、かつて彼が角を隠す手段として装着していたもの。
「これを使用すれば、取り敢えず角は隠せます」
茜はゆっくり自身の顔へ手を充てる。その指先は額から生える硬い突起へと触れた。
やがて、医療機器と体とを繋げているチューブをプチプチとむしり取った彼女は、
「――明鏡止水」
静かにそう唱えた。
その瞬間、空間にアイスピックが出現する。それは角が生える茜の額に向かって真っ直ぐに飛び、まるで、角に蓋でもするかのように深く突き刺さった。
「……」
その光景に、黒井はあ然とするしかない。
「大丈夫です。人のなかに
アイスピックが消えると、まるで角などなかったかのように綺麗な額に戻っている。
一瞬、人に戻ったのかと思ったのだが、彼女の体内に流れる魔力はやはり人間離れしたまま。
「あなたは一体……」
「あまり詮索をしないでください。私は自分が何者であるかを思い出しただけです」
やがて彼女は虚ろに黒井を見つめてから、柔和に微笑む。
「黒井さんもそうだったんですね?」
その口元は嬉しそうに歪み、生気のなかった顔には血色が戻る。目は細められ頬は上気し、浮かべた表情は恍惚とも呼べる。
上手く言い表すことはできなかったものの……この世界で初めて仲間を見つけたかのような視線に、黒井は得体のしれない恐怖を覚えた。
まるで、目覚めさせてはいかなかった何かを、目覚めさせてしまったかのような――。
そんな時、病室の扉が開いた。
駆け込んできたのは、連絡を受けて急いできたのか汗だくの大貫会長と付き人の姿。
その顔は今度、目覚めた茜を真っ先に見て驚きへと変わった。
「一体どうやって……」
やがて彼は黒井を見つけてから何も言わずに沈黙していたものの、やがて息を吐き、切り替えたように笑顔をつくった。
「取り敢えず意識が戻られてよかったです。茜さん」
「私はどれくらい眠っていたんですか?」
「一週間です」
「そんなに……?」
それは流石に予想していなかったのか、茜は目を見開いた。
「あなたの証言を日本中が待っています。回復したら、色々とお話を聞かせてもらってもよろしいですか?」
「日本中……?」
会長の言葉に茜はキョトンとしたものの、それでも頷く。
「黒井さんも、また協会にお越し頂くことになるかもしれませんが、その時はお願いします」
「わかりました」
「私は一応確認しにきただけので、一旦これで失礼しますね」
大貫はそう言って、忙しなくも病室から立ち去っていった。
多くを語らなかったのはおそらく、目覚めたばかりの茜を配慮してのことだろう。
「あの……私が寝ている間に何があったんですか?」
ただ、あの聞き方では疑問が残るのも当然。
教えようか迷いはしたものの、いずれ知ることになるのだと黒井は諦めて、茜にスタンピードのことを話した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます