第111話
――隠された記憶『ミコト』が解放されました。
「思いだしたか……」
二本の角を額から生やす女は、暗い祠のなかでポソリと呟いた。
その表情はどこか悲しげではあったものの、口元には静かな笑みが浮かんでいる。
そんな彼女の瞳のなかには、まだあどけなさを持つ一人の少年が映っていた。
一匹の猫の
◆
そこは、とある山中。もはや忘れ去られたかのように荒れ果てた草木のなかで佇む古い祠。人が頻繁に踏み入った形跡は長い年月によって消え去り、あとは朽ちていくだけの廃墟だけが残されている。
縦長の石には神の名が彫られてあるものの、それも風化し「――ウズメノミコト」という、後半の文字しか読めない。
そんな祠の前に置かれた一匹の猫の死骸は、乱暴に運んできたせいか破けた腹から臓物がぶら下がりはみ出ていた。
「おっとっと」
それを、ここまで運んできた黒井は雑に腹の中へ押し込むと、満足そうな笑みを浮かべる。
「よし!」
頬に流れる汗を手首で拭い、汚れた両手を体の前でパンパンと合わせた黒井。
「ぐちゃぐちゃ丸が生き返りますよーに!」
「生き返るわけがなかろう! しかもなんじゃ、ぐちゃぐちゃ丸って……!! 名付けのセンスなッッ!!」
そんな光景に、ウズメは思わず叫んでしまった。
その叫びが黒井に聞こえることはない。なぜなら、ウズメは実体を持つ存在ではなかったからだ。
それでも気配を感じだったのか、黒井は不思議そうに虚空を眺める。
「子供だからかまだ霊感が残っておるようじゃな。まぁ、時期になくなるのじゃろうが」
ウズメが知る限り、人間のなかに霊感を保持し続ける者は殆どいない。
霊感とは外なる存在を感じ取る能力のことであり、それを持つ者は他者の気配や感情までもを細かく読み取ることができた。しかし、人間は言語による複雑なコミュニケーションや、暗闇を照らす文明発達により、そんな能力を必要としなくなってしまった。
故に、霊感を持つ人間は殆どいない。
とはいえ、まだ自我の形成が成されていない幼い人間はその能力を持っている。彼らはその能力によって、自分が所属する組織――つまり家族の顔色を窺い、繊細な立ち回りを無自覚にやってのけるのだ。
親が子どもの全てを見ているように、子もまた親の全てを見透かすもの。そうやって人は自身の人格を組織にとって価値ある人格を形成し続ける。
そんな能力を未だ保持する少年は、他者からみればドン引きされるであろう行動を満面の笑みで行っていた。
おそらく、車か何かに轢かれたのであろう猫の死骸。それを、服の前面と両腕を汚しながら運んできては、生き返るのだと信じて疑わない祈りを山奥の祠の前で捧げる。
しかも、
「これで一体何匹目じゃ……」
ウズメは呆れたように黒井の背後へと視線を向ける。そこには、彼の狂気的な行動によって
「それではいつか、自分のみならず他人にまで霊障を及ぼしてしまうぞ?」
もちろん、その言葉が黒井に伝わるはずはなく、彼はただ何かしらの気配を感じて不思議そうに小首を傾げるだけ。
そんな霊たちの死体は未だ付近にあり腐敗臭を撒き散らしているのだが、それを運んできたはずの当人は気づきもしない。
「……いや、見えてないのではなく、見ないようにしておるのか」
死んだ者が生き返るはずはない。なのに、祈り続ける彼の精神状態は普通ではないといえる。
しかも、その祠がある場所は人里から一時間ほどかけなければ来ることができない山奥。よくある探検という遊びの最中に見つけたのだろうが、普通の子供が頻繁に足を運ぶような場所では決してなかった。
「まぁ、わしが
諦めにも似た深いため息がウズメの口から吐かれる。
そのときの彼女は人間たちの中から変異体を選ばなければならず、そのことに頭を悩ませていた。
とはいえ、実際に彼女は変異体を選ぶつもりなどなかった。人に能力を与えるには、それに耐えうる器でなければならず、そのためには人を人ならざる者にしなければならない。
そして、その者はきっと今の世では崇め
変異体が不幸になると分かりきっているのに、その道にわざわざ人を導く意味はなかったのだ。
そんな日々のなか、黒井は何度も祠に死体を運び続けた。運んできては、無責任な願いを祠に捧げた。
最初は、そのうち飽きるか諦めるだろうと眺めていたのだが、彼はそれを辞めることはない。
それが不思議で一度彼のあとをつけてみると、黒井はその祠だけでなく、神を祀ってある場所に様々な死体を運んでいた。
そして、それを目撃した大人たちに怒られ追い返されては、結局ウズメがいる祠までやってきていたのだ。
「難儀な奴じゃのう。おぬし、なぜそこまでする?」
答えが返ってくるはずもない問い。子供が持つ好奇心にしては、いささか行き過ぎた行為。
やがて、彼を観察し続けたウズメは、周囲の人間たちの会話によってその理由を理解する。
「――あの子、母親を亡くしてからおかしくなったみたいね」
「――可哀想に。父親もそれで病んじゃってるんでしょ?」
「――まだ下に妹さんもいるらしいわ」
動物の死体を運ぶ姿を、白い目で見る大人たちの会話。
彼らもまた、ウズメと同じで諦めにも似た表情をしていた。
――死人が生き返ると信じたかったのか。
それが不可能なことだと理解しているかはわからない。いや、きっと理解はしていただろう。
子供はいつか家族が死ぬ夢を見る。その悪夢から起きた日の朝に、人間は永遠に生きられるわけではないのだと悟るのだ。
しかし、黒井が所属する家族を救うには、彼はまだあまりに無力であり、ありもしない願いにすがるしかなかったに違いない。
彼はたくさんの死体を何度も運んできた。
生贄でも捧げ物でもなく、ただ生き返らせるためだけに。
やがて、それは彼なりの『善行』なのだろうとウズメは気づく。多くの善行を積めば、それが自分に返ってくると彼は信じていたようだった。
おそらくは、どこかで得た聞きかじりの知識。不完全な理解だからこそ、それは
あと、どれほどそれを繰り返せば諦めるのだろうか。
あと、どれほどそれを繰り返せばこんな寂れた場所にこなくなるのだろうか。
そんな彼の行為は――やがて、悲劇を起こしてしまう。
それは、雨上がりの夕方。
「お兄ちゃん! 私に黙ってお母さんに会いにいってるんでしょ!」
「付いてくるなよ!」
「いやだ! 私も会う!!」
人が通らぬ獣道。そこで言い合う幼い二人の兄妹。
黒井の両手には、哀れにも道路で轢き殺された蛙の死体があり、それはいつものようにいつもの如く祠へと向かう山道の途中だった。
「待ってよ! お兄ちゃん!!」
黒井がなぜ、必死に妹を引き離そうとしていたのかは分からない。
振り払えば、妹が諦めて帰るとでも思ったのだろうか。
そんな彼の顔にはまるで、隠し続けなければならない罪がバレそうになっているかのような焦りがあった。
追いつけずに泣きじゃくり、それでも後を追ってくる妹のことなど振り返りもせず、整備もされておらず険しくなっていくだけの山道をのぼる。
やがて、妹の泣き声は途端に止んだ。
「……
違和感に黒井は振り向いたものの、そこに居たはずの妹の姿はない。
ただ、自分が通った道なき道の付近が
ドッドッと脈動していた心臓の鼓動が、さらにはやく大きくなっていく。
ぬかるんだ地面を滑るような痕跡が、想像したとおり絶壁で途切れていた。
遥か下に見えたのは肌色の足のようなもの。それがピクリとも動かないことに身体がブルブルと震え、既に息絶えた蛙が手からこぼれて落ちていく。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
動悸が激しくなり、怖気づいて尻もちをついた。
現実味のない感覚に、これは夢なのだろうと黒井は信じた。
「違う。こんなつもりじゃ……」
「――霊験
そんな彼の前に、ウズメは姿を現した。いや、実際には黒井のほうを実態のない世界に引き込んだ、というのが正確な答え。
「お主の妹はまだ生きておるぞ。じゃが、もうじき死ぬ」
虚空を眺める瞳は、初めてウズメの姿を捉えた。
「救いたくば方法がある。それは、お主が身代わりになることじゃ」
淡々と語られる提案。しかし、黒井は驚いたまま動けずにいた。
「良いのか? このままでは妹まで死ぬぞ」
それを提案と呼べるかは正直怪しいところ。なぜなら、脅しにも似た圧があったからだ。
しかし、ウズメはこのままの結末が選ばれるべき結末でないことを知っている。
その先で黒井がどうなるかなど予想できてしまえる。
終わりの先でも幸せだろうと確信できるからこそ、そう呼ばれるのだ。
ならば、これは黒井にとって最悪の終わりでしかない。
――誰かを不幸にさせぬよう、変異体など選ばぬつもりじゃったのだがな。
自身の考えが変わっていることに苦笑するウズメ。
それを変化させたのは、紛れもなく目の前で固まっている少年だった。
「わしは誰でも助けるわけではない。肉親が死ぬなど、誰にでも起こりうる当たり前ですらあるのだから。ただそれが、おぬしか妹かになるだけのこと」
黒井は呆けたまま固まっていたものの、やがて立ち上がると空いた口から震える声で懇願した。
「たす、けてください。舞を……助けてください」
詰まるような息を吐いた彼の目尻には、堪えていた涙が溢れる。
死んだ者が生き返るわけがないことは、とっくの昔に分かっていた。
それでも、彼が守りたいものを守ろうとするにはあまりにも現実離れした迷信を行使するしかなかった。
置かれた現実から逃げるにはまだ幼く、劣悪な環境を打破するにはあまりに力がない。
なにより、一人では生きてはいけぬ人の業が、まるで呪術のように彼を縛り付けた。
「よかろう。妹が受けた厄災はおぬしが代わりに受けよ」
瞬間、黒井の身体には強い衝撃がはしり、ボタボタと血が口から溢れて崩れ落ちた。
それをウズメは見下ろしていたが、自分の左眼に指を突っ込み、ゆっくりとその眼球を抜き取る。
「普通の人間ならば死ぬじゃろう。しかし、生命力の強い存在ならば話は別」
それは、鬼の目。
「すまぬな。鬼は誰かを治す力など持ちあわせてはおらぬのだ」
彼女は屈んで黒井の左眼をも抜き取ると、そこに鬼の目を嵌め込んだ。
「まさか、こんな形で選別してしまうとは思わなんだ」
ウズメはため息を吐いた。そしてふと、崖下を見やる。
身代わりは成功し、幼い少女は静かな寝息を立てていた。
「身体が治るまで兄は隠世に居てもらうぞ」
ウズメはそう言い鬼門を開く。そして、
やがて、目が覚めた少女はなぜ自分がそこに居るのか分からず、何をしていたのかの記憶すらなかった。
「お兄ちゃん?」
それでも、兄の背中を懸命に追いかけていたような感覚だけは残っていた。
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